演目『薔薇の導火線』
捕食者も獲物も一緒くたに檻の中にいるようだった。
誘惑的な匂いがそこかしこから漂い、しかし手を付けることは許されない。
そんな空気に耐えられる自信は無かった。血の匂いは私を獣にする。
逃げるように自室に引き篭もるものの――城を満たす異様な気配は扉一枚隔てたこの部屋にも滲み込み、私の神経をじわじわと侵してきた。
(最悪……いつまで続くのかしら)
彼らは姉の協力者。それは同族であったり、本来は獲物であるはずの人間だったり。それらのもたらす不協和音が酷く心を掻き乱す。
こんな事は今まで無かった。
それもこれも、その原因は弟が居なくなったこと。落ちこぼれのミハイルが城から姿を消した。ただそれだけのことで、この城の均衡は崩れた。
姉のニカエラが血眼になって彼を探している。きっと手段は選んでられない状況で、利用出来るものは全て利用しようという魂胆で。
ならこの異常な状況は、ミハイルが戻るまで続くのだろう。
そう考えると気が重い。いや、それ以上に……もうここには居られない。
この喧騒が落ち着くまでどこかに身を隠そうと、本格的に逃亡を思案し始めたその時。
やけに軽やかなノックの音が部屋に響いた。
「エヴァ、戻ったよ。愛しのレオナール兄さんが」
大袈裟な声音。けれど、その声に少しだけ安堵した自分が居た。
ドアを開いた向こうの兄様は一見、普段と何ら変わらなくも見える。
だが、どこか楽しげで、涼やかで……そう、少しだけ纏っている空気が違うのが私には分かった。
「お帰りなさい。なにか良い事でも?」
私の問いに兄様は満面の笑みを向ける。そして後ろ手に隠したなにかを、私に差し向けた。
「ほら、可愛い妹にお土産だ。受け取ってくれるかな?」
「……あら」
受け取ったのは、薔薇の花束だった。
ただし、その花弁は夜のように黒い。本数は六本。
「綺麗だろう? 道端で拾ったんだ」
嘘つき。こんな不吉な薔薇が道端に咲いているものですか。
兄様は入室の許可も待たずに、私のベッドの縁に腰を落ち着けた。なにか話したいことがある、そんな雰囲気だった。
私は花瓶に黒い薔薇を挿しながら、その意味を反芻する。
花言葉は――『あなたに夢中』、あるいは『決して滅びることのない愛』。
そして黒薔薇そのものが象徴するのは、『死』と『永遠の別れ』。
「……これを私に、ってことは無いでしょうね?」
「ああ、そうだねぇ。そうなったら……ニカエラと同じになってしまう」
そう言い、乾いた笑いを漏らす。私もどうしてか、つられて笑ってしまった。
私たちの姉は、弟に夢中になりすぎて狂ってしまった哀れな女。あんな風にはなりたくない。
「じゃあこれは何を意味するのかしら」
「……聞きたいかい?」
どこまでも勿体ぶった調子で。
ただ、このままのペースでは中々その真相に辿り着けない気がしたので、私は素直に首を縦に振る。
兄様は目を細め、楽しそうに唇を歪めた。
「ミハイルを見つけたよ」
「え?」
その言葉に、胸の奥が軽くなった。この息苦しい日々がようやく終わる。
「それで、今あの子はどうしているの」
「この名探偵レオナールが奴の居所を突き止めた過程を、まずは聞いて欲しかったのだがな」
「それは後で詳しく聞かせて? ……で、どうしてるの」
少しつまらなそうに、兄様は溜め息を吐いた。観念したように、結論だけを語る。
「首輪がよく似合っていたよ、奴には」
「と言うと……?」
それは意味深で、暗喩で。首輪、となると連想されるのは――契約。
そこに先程の黒薔薇を重ねる――『あなたに夢中』。そして『決別』。
あの日のミハイルの様子が蘇る。ニカエラに連れられ帰宅した朝の、上の空な顔。それを私は“恋”に喩えた。
全て、繋がった気がした。
「ああ……あぁ、そんな」
こみ上げる笑い。あの日の予感は、的中していたのだと思うと。
思わず、口元を手で覆う。はしたない笑い方をしてしまっている。ああ、もうどうにかなりそうなほどの愉快さ。
「新しいご主人様に夢中なのね? ……っく、ふふ、うふ……」
兄様もどこか楽しそうに私を見ていた。
ああ、これを知ってしまったら。次に私が考えるのは、これを知ったニカエラの顔。
「この事は、ニカ姉には報告したの?」
「いいや? まだだよ」
しれっと言いのける。兄様も分かっているはずなのに。
彼の情報を欲しがっているのは、誰よりもそう、あのニカエラであること。きっと喉から手が出る程に欲している。
それなのに、一番に報告しなかった。
「意地悪ね、ほんとに」
「そんな事はないよ。ただ、知れば彼女が傷つくと思ってね……ほら、言わない方が良いこともある」
あぁ、そんなの大嘘。
彼は期待しているのだ。
直接手を下すのはしない。私にどういう役回りをさせたいか、すぐに理解した。
これから私がどう動くのか、計算した上でこうして話を持ってきた。……思い通りに動くのは癪ではあるが、これも愛する兄様の為なら、その役を喜んで演じよう。
「ねえ、名探偵さんの話はまた後で良いかしら?」
「あぁ。また眠れない朝にでも話してあげようか」
優しい笑顔で私を見送る兄様。
――さて、“劇”の時間だ。
兄様は上機嫌に台本を渡し、私はその役を引き受けた。ならば、幕が上がるのを待つだけ。
私はドアノブに手をかけ、一度だけ小さく息を吐く。
部屋を出た途端、城の空気は静かに肌を刺すような冷たさで迎えた。獣じみた気配が牙の奥を微かに疼かせる。
この先に待つのは感情を爆発させる火薬庫。けれど私が手にしたのは、あまりに美しく冷たい導火線だった。
この舞台で最も傲慢な“女王”に会いに、私は真っ直ぐ廊下を歩き出す。
この一言で彼女はどう壊れるだろう? 或いは――もっと、美しく燃えるのか。
第一声はどうする? ……感情を込め過ぎれば、芝居が過ぎる。冷たく言えば、彼女の炎を煽れない。
歩きながら表情を調整する。
口角を下げ、眉を寄せ、瞳に憂いを滲ませる。鏡を見なくても完璧に作れる、「妹」の顔。
二回扉を叩く。許しが出たのを聞き届け、ゆっくりと扉を開く――幕が上がる。
ここからが、私に課せられた役割を演じる瞬間。
部屋へと通された私は、恭しく俯きつつ彼女の言葉を待った。
「どうしたのエヴァンジェリン。なんの用かしら」
玉座の姉は、苛立ちを隠そうともしていなかった。
「お報せしておくべきことがあって」
女王の目は細められた。それは、どこか不機嫌そうな表情で。
「聞かせて」
ただ短く一言。きっと私と同じように、ニカエラも短気なところがある。兄様のように焦らしたなら、不必要な怒りを買うことになるだろう。
だから私は、鋭いナイフのように情報を突き立てる。
「兄様が、ミハイルを目撃しただとか」
「……ッ!」
その仮面に、罅が入ったように見えた。
ガタン、と椅子を鳴らして立ち上がる。
「何故、それを彼から言いに来ないの」
滲ませるのは歓喜でなく、深い怒り。
「それは。ニカ姉のことを思って……知れば、傷つくから」
「傷つく? 私が……? まさか、ミーシャに何かあったとでも?」
ああ、食いつく。思った以上の反応。その顔が見たかった。
私は一歩踏み出し、悲痛な面持ちで告げる。
「首輪をしていると。ミハイルは、誰かの所有物になったということでしょうね」
時が止まったようだった。
ニカエラの顔から、表情という機能が消失する。
「……そ、よ。うそ……そんなこと」
わなわなと震える唇。それは怒り、絶望、悲しみ? 或いは、所有物を奪われた子供の癇癪か。
そして極めつけ。
「あぁ、お可哀想なニカ姉。あんなに愛していたのに……」
同情を装い、寄り添うように囁く。彼女を抱き留めるように支える演技。
まるでそれは、悲劇のヒロインと、それを慰める心優しい親友のように。
私の腕の中で、姉の体が硬直している。熱いほどの怒りが伝播してくる。
「誰が……」
低い、地を這うような怨嗟の声。
「誰が、私のミーシャに触れたの」
「……」
私は答えず、ただ背中を撫でる。
壊れていく。絶対的な支配者が、嫉妬と屈辱で内側から罅割れていく。
あぁ、こんな愉しみ方があるとは。崩落する様すら、芸術になり得るのね。
あんなに高圧的で、身勝手で、暴君のような彼女がここまで脆いものだったとは。
想像以上の反応を引き出せたことに、私はひどく満足してしまった。兄様は最高の贈り物を私にくれたのだ。
ただ、この壊れた女王は……壊れたままでいられはしないだろう。たとえ壊れたとしても、このまま絶望の中に甘んじることは決してしない。
次に彼女がどう動くか、見ものだわ。役回りをこなすことも実に楽しいけれど、これを静観している兄様の愉悦を考えると……。
ただ観察者として、安全圏から高みの見物を決め込んでいるあの人に。 私は少しだけ、嫉妬してしまいそうだった。




