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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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そこにいない庭師

 目覚めると、指先が微かに疼いていた。

 ミハイルは身を起こし、自分の手を見る。泥は昨晩の内に洗い落としたはずだが、爪の隙間にはまだ土の匂いが残っている気がした。

 カーテンの隙間からは、深い蒼が覗いている。陽が落ちて、夜が始まった合図だ。

 ゾラはまだ眠っているだろうか。彼女は夜明けと共に微睡み、日が落ちると共に活動する。

 ベッドを抜け出し、窓辺に寄る。硝子越しに見下ろした庭には、昨日二人で植えた花々が夜風に揺れていた。

 無意識に窓硝子をなぞる。

「城に居た頃は……考えもしなかったな」

 ふと思い出した。

 ――あの日々の中でも、僕はこうして夜明けを待っていた。




 リュセリエの城で、僕が庭に出るのは決まって夜が一番深い時間だった。

 明け方の匂いが近づく頃。家族が自室へと引き上げ、誰も僕を見ていない時間に。

 僕は庭に降り、薔薇の茂みの前に跪く。

 始まりは単なる暇潰しだった。役割も与えられない空虚な時間は、腐るほどあったから。

 書庫の隅、埃を被った棚の奥で見つけた一冊の園芸書。背表紙が剥がれかけたその本だけが僕の先生だった。

 記述は古く、図解も擦り切れていて判然としない。それでも僕は、そこに書かれた文字を頼りに見様見真似で鋏を握った。


 枝を持つ。細い枝は案外硬くて、無理に曲げようとすると折れてしまう。

 本の知識と目の前の現実を照らし合わせる。けれど、誰も「それでいい」とは言ってくれない。

 果たして、この切り方で合っているのか? ……正解など分からなかった。

 鋏を入れるたび、「これで枯れてしまうかも知れない」という不安が付き纏う。

 それでも――何もせずに枯れていくのを見ているよりは、マシだと思った。

 切り口から滲む樹液は透明で、少し粘り気がある。僕の血とは違う、温度のない液体。

 それでも、彼らが生きている証だと思った。


 ニカエラは薔薇を愛でる人だった。

 窓辺に立って、満開の庭を眺めている姿を何度も見た。けれど彼女が庭に降りて土を踏むことはない。

 彼女は薔薇を完成された美しい背景として見ているだけで、その根がどこまで伸びているか、どの枝が病にかかっているか――そういった過程には、興味が無かった。

 それで良いと思った。

 姉は、美しいものを愛でていればいい。僕が――その美しさを保つための、見えない手になればいい。


 チクリ、と棘が指に刺さる。

 痛い。血が滲む。

 けれどこの痛みは、分かりやすい。ここに刺さったと、指差せる痛みだ。……手袋をしなかった理由。棘が指に刺さることを、何となく許していた。

 僕が普段感じている痛みは、もっと曖昧で輪郭がない。姉の視線が射抜く時の痛み。レオナールの笑い声に混じる軽蔑。エヴァンジェリンの無関心。

 それは体のどこにもないのに、全身を貫いている。逃げ場がない。

 でも、棘の痛みは違う。指先だけに留まってくれる。

 だから――むしろ、安心した。


 枯れた花を摘む。

 数日前まで雪のような純白を誇っていた花弁は見る影もなく、枯葉色に朽ち果てている。白かったが故に、その“死”だけが汚れた色として浮き彫りになっていた。

 それはもはや薔薇ではない。周囲の完璧な美しさを損なうだけの異物だ。その惨めな成れの果てを、僕は摘み取り、土に還す。

 誰も見ていない。誰も褒めてくれない。

 自分がやっていることが、園芸として正しいのかさえ分からない。

 ただ、この作業をしている時だけは頭の中の騒音が止む。


『今日、姉さんの機嫌は良かっただろうか』

『僕は何か、間違えなかっただろうか』

『明日は、血を飲ませてもらえるだろうか』


 考えても答えの出ない恐怖が、薔薇の前に跪いている時だけは遠ざかる。

 ただ本に書かれた通りに枝を切り、葉を整え、土に触れる。

 世界が僕を無視しているこの時間だけが、僕の自由だった。


 姉が、この庭を見て喜んでいるかどうか――それは分からない。

 僕が手入れをしていることに気づいているかどうかも、分からない。

 それを想像してしまえば、期待になる。期待は、必ず裏切られる。

 知らなくて良い。知られなくて良い。

 ただ、彼らが咲き続けるように世話をするだけ。

 僕がいなくなれば、この庭は荒れ果てるだろう。我流の手入れで辛うじて維持されていた均衡は崩れ、美しい薔薇は野生に戻り、棘だらけの藪になるだろう。

 ……そうであって欲しいと願ってしまうのは、僕の卑しい自尊心だろうか。

 誰が世話することなくても、彼らはまだ変わらずそこで咲き続けているのかも知れない。僕のしたことなんてのは、全て無意味なことだったと証明するように。

 今となってはもう、それを確かめる術も持たない。


 契約を交わした日の翌日。ゾラが唐突に言った。

「庭の手入れ、しておいて」

 彼女は作業に夢中で、僕の方を見もしなかったが。

 初めて役割という役割を与えられた。それも、唯一自分が役に立てそうな庭仕事だったこと……そこに希望を見てしまっていた。

 ゾラの庭には、薔薇でなく無骨な薬草が並んでいた。

 香りのするハーブ類、名も知らない地味な葉の植物……どれも観賞用ではない、実用の為に生きている草。

 膝をつき、一つ一つを観察する。薔薇とは勝手が違う、けれど。

(これなら僕にも出来る)

 城の庭と、同じような動作。でも、何かが違った。

 誰も見ていなかった薔薇と、ゾラが“僕に”任せてくれた薬草。その違いが、胸の奥を少しだけ温める。

 初めて“ここに居ていい”と、感じた。

 役に立てる。必要とされている。

 その事実が、どれほど僕を救ったか――言葉には出来ない。




「……根付いてる」

 指先が触れた窓の向こう。

 昨晩、土に移した直後はあんなに頼りなく項垂れていた茎が、今は夜露を吸って力強く上を向いている。

 まるで、渇いた喉を潤して息を吹き返したかのように。


 ゾラは見ていた。僕の手つきを。そして非効率だと切り捨てながらも、その手を貸した。

 僕はあそこで、確かにゾラの視界の中にいた。

 再び指先を見る。

 そこには孤独な棘の傷ではなく、彼女と共に在った温かな余韻が残っているような気がした。

 ゾラもそのか細い指を、土に汚していて。どうして魔法を使わなかったのか。それは分からないけれど――

 ただ、彼女がそうしてくれた事実が、胸の奥に小さな灯火を点す。

 この花もいつかは枯れるだろう。

 けれど、僕はもう一人で書物を頼りに枯れた花を摘むだけの幽霊ではない。

「……水、やらないと」

 ミハイルは窓から離れ、足早に部屋を出る。

 早く庭へ行こう。彼女が起きる前に、この花々が一番美しく見えるように整えておこう。

 それはかつての自信の無い“見えない手”としての労働とは違う。

 見てくれる主の為の、誇らしい仕事だった。

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