歪な共同作業
ゾラは窓辺から眼下に広がる夜の庭を見下ろしていた。
ミハイルが街から戻ってきてから、もう数時間。あの青年は一心不乱に土を掘り返し続けている。
苗を置き、埋めようとしてはまた掘り返し……その反復には目的も整合もない。壊れた作業工程のように、ただ動きだけが残っている。
壊れた人形のような挙動。
彼に纏わりつく湿った気配――焦りでも恐怖でもない。もっと静かで重い、沈殿した気配。
胸の奥で小さな棘が疼いた。彼の不調は庭そのものを鈍く染めている。ゾラの支配領域に不要な乱れが生じ始めていた。
「……街で何があったのかしら」
ゾラは薄い羽織りを纏い、燭台を手に庭へと降りた。
背後へ歩み寄ってもミハイルは反応しない。ヴァンパイアとしての鋭敏な聴覚すら遮断するほどの没入。或いは、外界への拒絶か。
足元には萎れかけた花の苗が散らばっていた。薬効など欠片もない、ただ色鮮やかであることだけが存在理由のような、脆弱な花々。
「それは何? この庭には不要な異物よ」
感情を削ぎ落とした声で問う。
ミハイルの肩が鞭で打たれたように跳ねた。
振り返った彼の顔色はあまりに蒼白だった。瞳孔が揺れ、焦点が定まらない。
「ごめん……勝手なことをした」
力なく項垂れる首筋は細く、今にも折れてしまいそうだ。
(……調子が狂う)
それは彼が勝手に花を植えようとした「逸脱」への不快感ではない。目の前の使い魔がこれほどまでに損壊し、機能不全を起こしている事実――その原因が不明であることへの、純粋な疑問と苛立ちだ。
「そんなのろまでは。朝には全て枯れてしまうわ」
ゾラは萎れた花の苗を指差す。
「効率が悪い。貸して」
彼の手からシャベルを取り上げようと手を伸ばす。
ミハイルは息を呑んだ。恐怖、困惑……そして、妙な温度の混じった視線。
ゾラにはその反応の根拠が理解出来ない。
無造作にシャベルを土へ突き立てる。魔法なら一瞬で済む作業を、敢えて指先を汚して行う。
――たかがこんな単純作業に何の情緒が宿るというのか。これはただの効率化。ついでに、彼の状態を観察するための距離を確保しただけ。
ミハイルもまた、遅れて作業に加わる。
先ほどまでの緩慢な死体のような動作が、ゾラが隣にいるという事実だけで、嘘のように律動を取り戻していく。
視線は何度も横顔を盗み見る。怯えと、仄かな安堵。その奥に、奇妙な熱のようなもの。
(……不気味ね)
ゾラは思考を冷やす。
ただ隣で土を弄るだけで、彼の絶望は緩和されるのか。この花は誰の為に用意されたものか。その答えは、彼のこの視線が雄弁に語り過ぎている。
私への媚び、或いは献上品のつもりか。
それが彼をここまで壊した要因の一端なら、切り込むべき場所は決まっている。
作業はすぐに終わった。
土を払い、ゾラは立ち上がる。足元には、場違いなほど愛らしい花が頼りなげに揺れている。
ミハイルはその花を見ていた。先ほどまでの悲壮感は消え、ただ静かに頬が緩んでいる。まるで自分が救われたとでも言うように。
――理解不能。だが、今の彼なら核心へ届く。
「それで。街で何があったの?」
突然、中心へ踏み込む。
弛緩していたミハイルの表情が一瞬で凍りついた。唇が震え、喉から空気が漏れるだけの音が響く。
「言えないの?」
「それは、その……」
「私に隠し事をする使い魔は、運用上のリスクよ。言うことを聞けない道具は処分するしかない」
静かな宣告。
その言葉の効き目は残酷なほど鮮明だった。ミハイルの顔から表情が抜け落ち、次いで、絶対的な恐怖で塗り潰される。
彼は知っている。ゾラが本当に自分を切り捨てる存在だということを。
ゾラは無言で見下ろす。慈悲など与えない。彼自身の手で傷口を開かせる為に、敢えて冷酷な沈黙を落とした。
音が失われた。代わりに、古い記憶の扉が軋む。
『じゃあ、どうやって生きていくつもり?』
ニカエラの声が蘇る。
苛立ちの中にも慈しみを含ませた声。けれど、ゾラの言葉はもっと冷たく響く。
――情けない。
あの日、ゾラはそう言った。蚊を潰すような無関心で。
その響きがさらに古い、封印したはずの光景を引きずり出す。
霞んだ部屋。泣きじゃくる少女の影。
『どうしてそんなに情けないの?』
エヴァンジェリン。
彼女は何かを叫んだ。けれどもう思い出せない。ただ、その声の奥にあった憎しみだけが今も胸を抉る。
そしてその傍らで、レオナールは黙って見ていた。その沈黙が一番……痛かった。
ゾラの顔が遠のく。声だけが残り、過去と今とを曖昧に繋げた。
「要らない」
彼女の唇がそう告げたように見えた。幻聴だとは分かっていても、その言葉だけが何度も何度も、彼を殺してきた。
(捨てられる)
呼吸が過呼吸気味に引き攣る。
(ゾラに見限られたら、僕は――)
血の供給が絶たれる恐怖ではない。そんな生物的な死よりももっと根源的な、自分の存在意義の消失。
ゾラに見捨てられたら、あの家族へ引き戻される。
それだけは。それだけは、嫌だ。
ミハイルは震える体を必死で制御し、顔を上げた。
目の前に立つゾラは、ニカエラではない。エヴァンジェリンでもない。
けれど、今ここで口を開かなければ、彼女もまた自分を「不要」と断じるだろう。
「見つかったんです……家族に」
喉から絞り出した声は、祈りに似ていた。
「僕が……ゾラの、使い魔になったことが……」
告白は、夜の静寂に吸い込まれるように消えた。
ミハイルはその場に崩れ落ち、額を地面に擦り付けるように平伏した。糸の切れた人形のように。
風が止まっていた。虫の音さえ途絶えた庭で、ゾラはただ静かに足元の震える背中を見下ろしている。
家族。
その言葉が落とす影は、合理的で冷徹な魔女の内に波紋を作る。かつて彼女自身が置き去りにされた記憶の澱を、夜風が撫でる。
長い、或いは一瞬のような静寂の後、ゾラの唇が動いた。
「そう。彼らが連れ戻しに来る、と」
温度を持たない、硝子細工のような声だった。
ミハイルの肩がびくりと跳ねる。
次の瞬間、
「彼らが何を言おうと、退けるわ」
ただ淡々と事実を述べただけの声音。
ミハイルが弾かれたように顔を上げる。
月明かりの下、ゾラは無感動な瞳で彼を見返していた。
「あなたは私の使い魔よ。みすみす渡したりはしない」
それは慈悲ではなかった。愛でも、同情ですらない。ただの所有の宣言。
だがその所有こそが彼にとっての救いであり、何よりも渇望していた居場所の証明だった。
ミハイルの顔が歪む。張り詰めていた糸が切れ、絶望に凍り付いていた表情が、歓喜と安堵でぐしゃぐしゃに崩れていく。
「っ……、ぁ……」
言葉にならない呼気が漏れた。
頬に泥がついているのも構わず、彼は縋るようにゾラを見上げる。その瞳に浮かぶのは、神を崇める信徒の狂熱にも似た、倒錯した喜び。
「ありがとう……ゾラ……っ、ありがとうございます……」
ゾラはその感謝を受け取らなかった。
取引にも、責任にも還元されない空虚な音。彼女はただ、足元で涙を流すこの壊れた「機能」を、冷ややかに、けれど追い払うこともなく見つめ続けていた。
二人の間に奇妙な熱が漂う。
支配する者と、支配される者。その歪な形だけが、この夜の静けさの中で確かに噛み合っていた。




