愚かな花の理由
兄の笑い声がまだ耳の奥に残っている。
あの含みのある言葉、あの挑発的な視線。
そして――床に残るゾラの血を、指でなぞり、舐めた。
わざとらしく、見せつけるように。
その全てがミハイルの胸に重く沈み込んでいた。
後悔だけが渦を巻き、どうしてここに来てしまったのかという問いが喉の奥を締め付ける。
数日前。魔女の会合の帰り道で、ゾラがふと零した溜息。
『反吐が出るわ』
ぽつりと零された稀有な本音。
常に完璧で冷徹な彼女が垣間見せた、等身大の疲労と嫌悪。
その瞬間、胸が高鳴ったのは不敬だと分かっていた。
だが、秘密を共有したような錯覚が確かにあった。
彼女も疲れている。安らぎを求めている――そう信じた。
あの殺風景な庭に花が咲けば、或いは。
照れ屋な彼女が素直に喜ばないことは分かっている。けれど、そう思ってしまうだけの理由もあった。
彼女の庭に、野兎が迷い込んだことがある。薬草を齧る害獣だと追い払おうとしたミハイルを、ゾラは静かに制した。
彼女はただ、兎が葉を食む姿をじっと見ていた。その横顔が、どうしようもなく優しく見えたのだ。
――可愛いものを愛でる心が、彼女にもあるのだと。
だからこそ、強張った眉間がふと緩む瞬間が見られるなら、それだけでよかった。
勝手な親近感と、奉仕の精神。
自分が彼女の特別に近づきつつあるという思い上がり。
夜の闇に紛れて彼は一人、ゾラの棲家を後にした。
その足取りは軽い。街へと向かう道のりも、花選びのことで頭が一杯だった。
しかし街が近づくにつれ、空気はざわめき、人の気配が増していく。
闇に揺れる灯り。濃く漂う生の匂い。その眩しさが、あの夜の記憶を一気に呼び覚ます。
血。下卑た笑い声。そして、自分を蝕んでいくあの不快な痛み――
「ひっ……!」
喉の奥から不覚にも小さく呻き声が漏れた。身体が震え、背中を冷たい汗が伝う。吐き気が込み上げ、その場にへたり込みそうになる。
だが、目立つわけにはいかない。吸血鬼である自分がここで醜態を晒すことは許されない。ゾラの使い魔として、その名を汚すわけにはいかない。
彼は必死に顔を歪ませ、口を固く閉じ、漏れそうになる声を押し殺した。胸の奥で叫びが暴れ、目頭が熱くなるが、涙を流すことすら許されない。
(違う、僕は……もうあの時の僕じゃない……!)
必死に言い聞かせ、足を進める。
花を選んで、ゾラを喜ばせる――その為に。
気づけば、足は無意識に一つの場所へ向かっていた。
朽ち果てた廃墟――彼が救われた場所。
屈辱と救いが同時に刻まれた場所。痛みと聖性が同居する、彼にとっての裂け目。
まるで磁石に引き寄せられるかのように、廃墟の入り口へと吸い込まれていく。
腐敗と血の匂い。けれどその奥底に、あの甘美な魔力の残滓が澱んでいる。
ミハイルは深く息を吸い込んだ。未だ残るゾラの気配だけが、確かな現実のように胸を満たす。
酷い震えが嘘のように引いていく。ここなら、息が出来る。ここだけが、自分を許容してくれる。
そんな安堵に浸り、無防備に最奥へと足を踏み入れたその時。
そこに“誰か”が居るとは、思いもしなかった――
……動けないまま、暫く呆然としていた。
レオナールが去った後、ミハイルはその腕の中から滑り落ちた麻袋に目を向けた。
花の苗が転がり落ち、土が溢れ、根が露出している。すぐにでも植え付けてやらなければ枯れてしまうだろう。
だが、“ゾラを喜ばせたい”という想いは、もうどこか遠い場所へ消えてしまったようだった。
ミハイルは黙々と、土に塗れた苗を拾い集めた。
彼の手の中で、花の苗はただの重荷に変わっていた。愛の証ではなく、自分の愚かさと、兄に踏みにじられた事実を示す証拠品のように。
じきに朝が来るだろう。
このままここに留まる意味はない。それよりは棲家に帰り、全て忘れるように眠ってしまいたかった。
ほんの一瞬、朝日に焼かれて死んでしまえば――そんな考えが胸を掠める。この煩わしい全てからの解放……或いは、逃避。
しかし、ゾラがそれを望むだろうか?
その問いだけが彼を現実に繋ぎ止めた。馬鹿な考えを振り払うように、力なく首を振る。
「帰ろう……」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、掠れて消え入りそうなものだった。




