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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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名もなき甘露を喰む

 好奇心こそが彼の原動力だった。

 だからこそ、この城に満ち始めた異変の気配がたまらなく愉快だった。


 ミハイルが姿を消した。


 たったそれだけの事実が、絶対君主である女帝の理性を食い荒らしている。

 彼女のお気に入り――唯一の愛の対象が手元から消えたのだ。領地全体を蜂の巣のように突き回すのも無理はない。

 ここ数日、見覚えのない顔が城を頻繁に出入りしている。恐らくはニカエラの協力者か、あるいは情報の運び屋か。

 同族であったり、人間(えもの)であったり。使えるものは何でも使うという、女帝の焦燥と執念がそこかしこに滲んでいた。

「随分と慌ただしい……これじゃ休めもしない」

 不満げに肩を竦めたのはエヴァンジェリンだった。

 城内に充満する獲物の匂いに牙が疼く。それはエヴァンジェリンだけでなく、レオナール自身も抱える“歯痒さ”だった。

「異分子が増えるのはいただけないけど……しかしね、エヴァンジェリン。愉快なことが起こりそうで、少しは胸が躍らないか?」

 軽口に見せかけた問いを投げる。

 妹は小さく息を吐く。

「……ここまでの騒ぎは中々無いのは確かね」

 捕食者と獲物が互いに不可侵のまま同じ空間に閉じ込められている。その異常な緊張感。

 だが、ニカエラの定めた掟は絶対だった。

 この城では、客人はすなわち彼女の所有物だ。その鉄律だけが彼らの飢えを辛うじて縛りつけていた。

「騒ぎが収まるまで、どこかへ避難した方が賢明かしら」

「おや、つれないね。愛する兄さんを置いて行くのかい?」

 レオナールはわざとらしく首を傾げ、唇の端で笑った。

「……私は兄様と違って、この状況を祭りのようには楽しめないだけ」

「真面目だねぇ」

 軽薄な響きに、エヴァンジェリンはもう答えなかった。

「まぁ。外の空気を吸って気分転換するのも悪くない」

 それは妹への提案であり、己への言い訳でもあった。

 ふらりと踵を返し、レオナールは扉へ向かう。

「お出かけするの?」

「俺もたまには、ね……」

 妖しい笑みを夜の闇に溶かし、彼は背を向けた。

「……珍しいこと」

 妹はそう呟き、所在なげにその場に立ち尽くしたが、やがて自室へ戻っていった。


 帳の向こうで月が薄雲を泳いでいた。

 部屋の空気は冷たく澱んでいた。余韻すら凍りついている。

 魔女はシーツから剥き出しの背中を晒したまま、気怠げに身を起こす。

 大きく開けてずり落ちた襟元、露わになった首筋や肩に散る赤い痕。それは享楽の痕跡というよりは、獣同士が喰らい合った名残に近い。

 牙による穿孔なのか、或いは愛欲の鬱血か……どちらでもいい。

 彼女は裸足のまま瓶を傾け、グラスに真紅を満たす。その動きは緩慢だが、手慣れていた。

 これが初めてではない。互いに名も知らぬまま、こうして肌を重ねるのは何度目だったか。

 レオナールは枕に凭れ、女の肢体に刻まれた己の噛み痕を半眼で眺めた。

 痛みも快楽も、ここでは等しく消耗品だ。

 血を啜り、身体を貪り、果てた瞬間に訪れる虚脱――それだけが、欠伸が出るほどの退屈をほんの一時誤魔化してくれる。

 言葉すら要らない。互いに退屈という病に冒された、ただの同類……それだけで十分だった。


「この間の会合でね。久しぶりに顔を出した子がいたのよ」

 魔女はワインの香りを揺らしながら、窓辺を指でなぞった。上気した顔とは裏腹に、その口調は天気の話でもするかのように淡々としていた。

 レオナールはグラスを受け取り視線を半分だけ彼女へ向ける。

 興味があるわけではない。だが、沈黙は退屈の味方をする。だから音を埋めただけ。

「へえ。……相変わらず、気まぐれな連中だ」

 レオナールは鼻で笑い、シーツの上で指を遊ばせた。

「もっとも、君も中々に気まぐれだけどもね」

 皮肉を投げると、魔女は妖艶に唇の端を吊り上げた。否定はしないらしい。

「そういう()()()()な女の方が、貴方はお好きでしょう?」

「違いない」

 短く応じると、彼女はグラスを傾け続きを紡ぐ。

「相変わらず飾りっ気のない格好でね。でも……妙に綺麗な使い魔を連れていたわ」

「綺麗?」

 レオナールはふと視線を下げ、女の太腿に残る赤い鬱血痕――自らがつけた証を、指先でなぞった。

「この俺よりも?」

「うーん。違う種類の美しさね」

 魔女は小さく首を傾げた。

「あなたは火傷しそうな熱の塊。けれどあの子は……真っ白だった。静かで、儚くて。凍りついた夢の欠片みたいに」

 魔女の声には熱がない。ただ事実をただ並べただけの響きが、逆に不気味な艶を帯びて鼓膜を撫でる。

「凍った夢、ね。抱くには寒そうだ」

「ええ。でもね、寒さは人を酔わせるわ。ぬるい退屈よりはまし」

 レオナールは杯を揺らしながら、薄く唇を歪めた。

 退屈。

 その言葉だけが、舌の上に残ったワインの澱のようにへばりついた。

 それきり魔女は語らず、彼もまた乞わなかった。

 ……白く、儚く、綺麗。

 ありふれた形容詞だ。それ以上でも以下でもない。凡庸ですらある。

 けれど、どういうわけか。“白い使い魔”という響きだけが、レオナールの胸に微かなざらつきを残した。

 女の寝息が聞こえ始めた頃、彼は静かに立ち上がる。乱れた衣服を整えながら、ふと、滲んだ血の匂いを鼻先で弄ぶ。

 別れの言葉も情けもいらない。あるのは、また渇けば戻ってくるだろうという気怠い予感だけ。

 ただ、あの魔女の言葉が城へ戻る彼の背を軽く押した。


 扉を開けた途端肌を刺すような冷気が頬を打つ。僅かに残っていた微熱さえも、幻だったかのように溶けていく。

 ……城のあの物々しい雰囲気も、そろそろ鎮まった頃合いだろうか。

 帰路につく途中にも、指先に残る小さな棘のような違和感が離れない。

 この“愉快な混乱”。その始まりは何だったか? 思考を巡らせると必然、記憶はあの一夜へと巻き戻る。

 あの夜、レオナールは珍しくニカエラの自室に呼びつけられた。いつもなら、あの女が自らの聖域に()()を入れることなどない。

 けれど、彼女は一枚のメモを差し出しミハイルに渡せと告げた。

 愛しい弟にならどんな時でも自ら会いに行く――それがニカエラだった。

 ……何故、あの夜だけは自分を介したのか? その小さな綻びが今も胸の奥に燻っている。

 一見ただのお使いメモ。

 だが、あの紙に漂っていた香りを、レオナールは忘れていなかった。

 彼女の手癖でも筆跡でもない。もっと曖昧な、妙な歪み。

 彼は思い出す。ミハイルがそれを受け取った時の、あの自嘲の滲む微笑みを。

 ――『お使いくらいなら出来る』。

 それすら出来なければどうしようもない、そう言ってやった。

 本当に、あの弟はどうしようもないだけの存在だったのか? ……それとも。あの夜、誰かが“そうなるように”仕組んだのか?

 レオナールは唇に笑みを刻んだ。脚本家が誰かなど、考えるまでもない。あとは答え合わせをするだけだ。

 気付けば革靴の爪先は既に回廊の奥を向いていた。絨毯が足音を吸い込み、影だけが滑るように奥へ伸びていく。

 やがて城の中央――大広間の扉の前で彼は足を止めた。

 重厚な扉の向こうから、硝子を擦り合わせたような嗄れた声が聞こえた。ニカエラだ。

 そしてもう一つ。聞き覚えのない男の声がする。


「特に変わった事はないと?」

 頭を垂れる男を前に、尊大な態度で彼女はそう問うた。

「ええ。我が領地は平穏そのものです」

 男は僅かに眉を上げ、不審げに周囲へ視線を走らせる。一応の礼儀は払っているが、その瞳には腹を探るような粘り気がある。

「しかし、この程度の報告の為に呼び出されるとは。よほどの事態とお見受けしますが――」

「いいわ、下がりなさい」

 男の探りなど聞こえていないかのように、ニカエラは冷淡に告げた。

 知らぬなら、ここに居させる意味もない。

「……何かあれば報告して」

「はっ」

 隣接する領地の者――同族だった。

 ヴァンパイア社会において、領地とは不可侵の聖域だ。

 無益な殺し合いを避け、互いの狩り場を守るための合理的な不文律。長き時を生きる彼らが独自に構築した、平和の為のシステムと言ってもいい。

 ある意味では競合相手である彼らを、無遠慮に呼びつけ報告させる。今のニカエラには体裁を取り繕う余裕すら残されてはいなかった。

 ……誰にどう思われようと、構わない。なりふり構っていられない。

「美しい女王の望みが、早く叶うと良いですね」

 去り際に男が残した言葉は、賛美というよりは憐れみ――或いは、乱心した女王への皮肉に聞こえた。

 だが、ニカエラは何の反応も返さない。それほどまでに彼女は追い詰められていた。

 誰も情報を持たなかった。それも無理はない。ミハイルという存在は、最初から彼らの認知の外にあったのだから。

 皮肉な話だ。帳の奥へ沈められた愛玩具(おもちゃ)は、誰の目にも触れず、故に誰の記憶にも残らない。

 社交の場に連れ出すこともなく、もし他者の目に触れたなら奪われると恐れ、ただ世界から隔絶し続けた。

 病的な独占欲だ。そのツケが今になって回ってきただけのこと。

 諸侯らが認識するリュセリエ家とは、女帝ニカエラと道化の弟、幼く人形めいた妹……その三席だけ。そこに弟の居場所など最初から無かった。

 いなくなって初めて、その幽霊は()()を認められたというわけだ。

「どこに居るの……ミーシャ」

 ニカエラが一人呟く。その言葉は広すぎる部屋の虚空に吸い込まれ、霧散していく。


 レオナールは壁に背を預け、暗がりで微笑を浮かべた。

 恋は滑稽だ。けれど滑稽であればあるほど美しい。

 完璧だった姉が、愛の欠片と共に壊れていく音。それを彼は誰よりも好んでいた。

 けれど。

 今直接問うのは野暮というものだろう。

 笑みを残したまま、彼は歩き出す。

 ――愉快だね。

 舞台はまだ終わらない。

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