振り返らないひと
会場を見渡す。人波の中、彼女の小さな姿を探す。
この時ばかりは縋るような思いで、彼女以外の何も目に入らなかった。
そしてその姿を見つけた瞬間、ひどく安堵した。
会場の端。あの薄暗い一角に、ゾラ達は立っていた。彼女達もまた、僕達を探すように視線を彷徨わせていた。
自然と歩みが早くなる。先に僕達に気づいたのはマレインだった。彼女が軽く手を振る。
その仕草に隣のゾラもようやくこちらを見つけたらしい。彼女は声を上げることも手招きをすることもないけれど、ただ僕が戻るのを待ってくれている。
僕は考えていた。彼女を待たせてしまった、そのことについて。第一声、どんな顔で、どんな言葉をかけるべきか?
けれど、考えれば考えるほどに喉が詰まった。
結局声にならないまま駆け寄ってしまう。そんな僕の心配など知らぬ顔で、ゾラは短く言った。
「行きましょう」
それだけだった。けれど、それで十分だった。
ゾラがそう言った瞬間、視界の端でマレインの赤い髪が揺れた。
彼女はナザヘルに抱きついていた。周囲の目など気にすることなく、甘えるように彼の腕に絡みついている。ナザヘルは相変わらず気怠そうだが、その口元には僅かな笑みが浮かんでいた。
ヴァレリアとゲルドリヒに目を向ければ、二人は言葉を交わすこともなくただ静かに見つめ合っている。やがて視線を逸らした時、ヴァレリアがほんの僅か、安堵したように微笑んだ。
その光景はあまりに自然で、そしてあまりに不自然だった。
ナザヘルの挑発的な笑みも、ゲルドリヒの獣のような怒りも、それぞれの主の前では跡形もなく消え失せていた。まるで、あの争いそのものが幻だったかのように。
……ゾラを見つけて安堵したはずの僕の指先はまだ、あの時の緊張で微かに震えているというのに。
これが格の違い、なのだろうか。
激情を飼い慣らし、役割に徹する。僕みたいにいつまでも引きずったりはしない。
その完璧な切り替えを目の当たりにして、自分の幼さを突きつけられた気がした。
そして同時に、少しだけ羨ましいとも思った。
魔女と使い魔と――彼らにはそれぞれの形があるんだ、と。
けれど、ゾラと僕だけは違った。言葉を交わすでも、視線を合わせるでもなく。ただ、沈黙の中に立っていた。
ゾラが踏み出そうとした時、マレインが声をかけた。
「もう帰っちゃうの? 久しぶりに来たのに」
その声は相変わらず軽やかで、悪意のかけらもない。
「ええ。用は済んだから」
ゾラは短く答えた。
「あら、そう……残念」
マレインは少し口を尖らせる。そして悪戯っぽく微笑んだ。
「でもまた来てね。次は――ミハイルくんも、もっと楽しめるんじゃない? ……大人として」
その言葉に心臓が跳ねた。
次――また、この場所に? 考えたなら、喉の奥が詰まる。社交辞令でも何でも、なにか答えなければいけない気がしたが、声が出なかった。
「次はない」
ゾラが即座に遮った。その声は冷たく、有無を言わさぬ響きがあった。
その瞬間、僕は深く息を吐いた。胸の奥で固まっていた何かがゆっくりと溶けていく。
ゾラが拒絶してくれた。僕の代わりに、断ってくれた。そのことがひどく嬉しかった。
「あなたって人は、本当に……」
溜め息と共にヴァレリアが言った。けれどその声には、先程のような苛立ちはもうなかった。代わりに疲れが滲んでいて、ただ呆れているだけのように聞こえた。
「やーね、冗談よ」
マレインはくすくすと笑う。
ヴァレリアはそれ以上何も言わず、代わりにゾラに視線を向けた。
「ゾラ。また、会えますよね?」
その声には僅かに不安が滲んでいた。
ゾラは少しの間、黙っていた。そして短く答える。
「……どうかしら」
ヴァレリアの顔がほんの少し曇った。けれど、困ったように笑ってこう言った。
「ふふ、ゾラらしい」
その言葉がゾラの耳に届いたのかは分からない。彼女はもう、会場の出口へと歩き始めていた。
僕は慌ててヴァレリアとゲルドリヒに軽く頭を下げてから、ゾラの後を追った。
「またねゾラ。ミハイルくんも」
マレインの声が背中に届いた。けれどゾラは振り返ることなく、迷いなく歩を進めるだけだった。
外に出ると、夜の空気がやけに冷たく感じられた。
あの会場から逃れられたのであれば、そう感じるのも不思議ではなく。あのままあの空気の中に居続けたなら、気がおかしくなってしまいそうだったから。
思い返せば色々なことがあった。甘ったるく湿った空気、人目を憚らない戯れ、知らない魔女、他の使い魔……魔女の長。僕の知らない世界のことが一気に流れ込んでくるような夜だった。
心地良い冷気が清々しくもあるが、身体はひどく疲れていた。それでも、早く帰りたいという気持ちからか足を止める気にもなれなかった。
ゾラは前を歩き、肩のあたりで髪がゆるく揺れている。
その背中を僕は見失わないようについていく――ただ、無言で。
「疲れたでしょう」
不意にゾラがそう言った。最初はなにか、聞き間違いかとも思った。
短く簡潔で、たったそれだけの言葉なのに妙に胸に染みた。慰めでも共感でもなく、けれどそこに彼女の不器用な優しさを見た気がした。
というのも……振り返った彼女の目が、少しだけ疲れているように見えた。いつもの冷静さの奥に、何か重たいものを抱えているような。
「……はい」
僕は素直にそう言った。言い、少しだけ歩く速度を早める。彼女の歩幅の方が小さいのだから、実のところ追いつくのは容易なことだった。
ただ、どうしてもその隣に並ぶことを畏れ多いと僕は考える。
ゲルドリヒだってそうだった。いつでもヴァレリアの後ろを付き従っていた。あの姿こそ、使い魔としてそうあるべき姿なのだろうと感じるのだ。だから僕も、ゾラの後ろを歩くべきと思っていて。
けど今だけは少し……隣に並びたいと考えた。こうして僕を気遣ってくれる彼女の言葉を、一言足りとも聞き逃したくなくて。
躊躇いはあった。僕なんかが隣に行くべきじゃない。それでも、ゾラの歩く速度が僅かに緩んだ気がした。
――待ってくれている、のだろうか?
その一瞬の迷いの後、僕は歩幅を広げた。そして、彼女の隣に並んだ。
「慣れない場でした。だから、すごく緊張してしまって」
でも、それだけじゃない。
思えば、魔女というものについて僕はよく知らなかった。今まで生きてきた中で、関わりを持つこともなくて。
だから魔女といえば僕にとってはゾラだけだった。ゾラしか、知らなかった。
「みんな、もっとゾラみたいな魔女ばかりだと思ってたから……」
「……それはどういう意味?」
少しだけ僕の方を向いたゾラの目は、怪訝そうに細められていた。……失礼に聞こえてしまっただろうか。
「その。あの場には、マレインさんみたいな人たちが多かった……ように思います。でもゾラはそうじゃない」
口ごもってしまう。どう言っていいものか分からなかった。
「ゾラは、どうですか? 僕にはゾラも疲れてるように見えるんです、けど……」
或いは、そう見たかっただけなのかも知れない。ゾラも僕と同じように、疲れているのだと――あの場には馴染めなかったのだと。
けど言ってから、少しだけ口が過ぎたんじゃないだろうかと後悔した。
「すみません。勝手なこと言って」
それから数歩、沈黙が続いた。
息が白い。空気が澄んでいるせいか、靴音だけがやけに響く。
「ありがとうございます」
ゾラが僅かに眉を動かした。
唐突だっただろうか? けれど、どうしても今言わなければならない気がした。
「何が?」
「その……マレインさんが、僕を貸してって言った時。助けてくれて……」
ゾラは短く息を吐いた。
「別に助けたわけじゃない。ただ面倒だっただけ」
その声はいつもの冷たさを保っていたが、ほんの一瞬だけ、彼女が言葉を探しているように見えた。
照れている――そう思った。きっと、そうだ。……そうだと信じたかった。
「見たでしょう、あのマレインの慌てよう」
「え?」
まるで何も分かっていない僕に呆れているのか、或いは憐れんでいるのか。判別のつかない視線を向けられる。
「彼女はあなたを本気で欲しがった訳じゃない。あの男――ナザヘルとの戯れの為にあなたを利用しただけ」
ゾラは軽く肩を竦めた。
「あの手の女のお遊びに付き合わされるのは御免だわ」
「……利用されただけ、ってことですか」
ああ、それを聞いて少しだけ安心してしまった。それなら本気で僕が貸し出されることもなく、ゾラがナザヘルを借りることも無かったのだと。
「それでもやっぱり……、僕は助けられた気がしました」
その言葉にゾラは視線を逸らした。彼女は何かを言いかけて、やめたように見えた。
ゾラが照れているなんてのは僕の思い違いで、ただ自分の見たいように僕は彼女を見ているだけなのだろう。
「正直気分が悪い」
その言葉に、一瞬息が止まった。やっぱり出過ぎた口を利いてしまったのだと――そう思ったが。
「……疲れた」
ぽつりと漏らしたその言葉は、どこか投げ出すようで、それでも妙に現実的だった。
「あんなものになんの価値も見出せない。ただただグロテスクな空間……反吐が出るわ」
続けられた言葉は僕へ宛てたものでなく、会合への嫌悪そのものだった。
僕は少しだけ安堵し、胸を撫で下ろした。でも、あの場を“反吐が出る”とまで言う彼女が、どうして魔女であることを選んだのか? その矛盾に気づいた途端、口をついて出た疑問を止められなかった。
「じゃあ、どうして……魔女になろうと思ったんですか?」
聞くべきじゃなかったのかも知れない。何も言わず夜空を見上げる彼女の横顔がそう思わせた。
けど、少しの間を置いてゾラは答えた。
「それしか道がなかったから」
夜風が吹いた。ゾラの髪が揺れて、月光がその輪郭を一瞬だけ白く縁取った。
その横顔は、触れられないほど遠くに感じられた。
――同じだ、なんて……そんなわけないのに。
けれど、逃げ場のなさを知っていること。その痛みだけは、僕と彼女はきっと同じだ。
靴音が二つ、夜の道に並んで響いた。
不揃いだったリズムがいつの間にか重なっていく。
風が通り抜け、遠くで灯が瞬いた。
僕の世界は、もう止まってなどいなかった。




