怪物たちの社交場
「しかし変わらない顔ぶれだ」
ナザヘルが退屈を滲ませた声でそう言った。その言葉に僕はなにを反応するでもなく、ただ縮こまるように壁を背に立っていた。
この会合のこと、僕としては何も知らないのだから。そもそもゾラ以外の魔女や僕以外の使い魔という存在に出会ったのが、今夜が初めてのことだった。
会場を見渡せば目のやり場に困る光景が繰り広げられており、しかしそれすら見慣れたものというようにナザヘルも、隣にいるゲルドリヒも無反応のようだった。
時折、見知らぬ魔女達が僕達の方を見て妖しく微笑む。その微笑みは大体、ナザヘルに向けられたものだというのがよく分かる。
ナザヘルはただ気まぐれにあしらう。完全に無視を貫くか、軽く手を振って見せるか。気が乗れば笑いかけ、そうすれば魔女は射抜かれたかのようにふらりとよろめく。
遊んでいる。彼なりの退屈の紛らせ方、なのだろうか……。
「応じる気がないのであれば余計な気を持たせるべきじゃないだろう」
刺すようにゲルドリヒが言う。ナザヘルのそういった遊びを咎めるかのように。
「ではこの退屈をどう過ごせという。お前のように“善い子”を演じるべきか?」
「ただじっと待てばいいだろう。それすら出来ないのか」
「俺は彼女たちの夢そのもの、であるからな。少しくらいは応えてやらんでどうする」
沈黙だった。ゲルドリヒもそれ以上は何も言えないのだろう。
夢魔の王と言った。だからきっと、僕達の中で彼が一番“格上”なのかも知れない。けど、ゲルドリヒについては何も知らず……だからこの二人の格について考えるなら、判断は難しいところで。
ただ確かなのは、この中で僕以上に情けない使い魔は居ないだろうってこと。この会場中、どこを探しても狩りすら出来ない吸血鬼以下の使い魔なんてのは存在しないはずだ。
会場に充満する匂い……それも相まって、気分が悪い。格上の存在に挟まれ、緊張していて。どうしてか呼吸をするのもよくない気がして――これを吸い込むと頭の奥が痺れるような感覚を覚えるから。
「お前、初めてか?」
ふとナザヘルが僕の方を向きもせず、そう問うた。
「あ、え……なんのこと、です」
「……会合のことだが。逆に何だと考えた?」
見透かされたようだった。まあ、当然なのかも知れない……僕のように、挙動不審で所在なげな存在はこの場では珍しいのだろう。
それなのに僕はどうしてか、見栄を張ろうとした。はぐらかしたんだ、彼の質問の意味が分かっているはずなのに。
「……はい」
どうしたってそれは誤魔化せるものではなかった。だから素直にそう言う。
「慣れない者にとってここは辛いだろう」
口を開いたのはゲルドリヒの方だった。少しの同情を滲ませるような物言い。どうしてか、これを辛いと感じることを少しだけ許されたような気分になった。
「ハハ、まさに洗礼ってやつだろう。……この香はな、男を駄目にするものだ」
「駄目、に?」
ナザヘルは口元を歪め、皮肉な笑みを浮かべた。
「理性ってのを欲で塗り潰す代物だ。つまり媚薬の類だよ」
「媚薬? そ……、そうなんですか」
この息苦しさの正体がようやく理解出来た。
この香が僕を壊そうとしていたんだ。だから深く吸い込むのを危険だと無意識に感じていたんだ。
「いかにもあの女の好みそうなものだ」
吐き捨てるようにナザヘルは言った。
彼の言う“あの女”というのが誰のことか分からない、けど。それはきっと僕の知るところでもなく、気にしても仕方のないことなのかも知れない。
「何故そんなものを……」
「分からないか? その方が愉しめるから、だ」
理性を強制的に剥がされる――そんなものであるなら、僕は怖いと思った。これをまともに吸い込んでしまえば、僕も会場のそこかしこでまぐわう彼らみたいになってしまうのだろうか?
それだけは絶対に嫌だと思った。こんなのはきっと、どこか間違っている。
「その、ナザヘル……さんと、ゲルドリヒさんは……平気、なんですか?」
僕の問いにナザヘルは呆れたように笑う。
「っは、こんなものが俺に効くとでも? 俺を何だと思っている」
……言われてみれば、彼は“そういう類”の存在だった。女性に夢を見せ、それを喰らう夢魔。であるなら、欲の権化であって淫靡の王。そんな彼に媚薬なんてものが通用するとは思い難い。
「ゲルドリヒさんは……?」
恐る恐る聞いてみる。彼はきっと、その類ではない。けど、なんといったこともないようにしゃんと立っている。
「意思を強く持つことだ」
ただ一言、助言のようにそう言う。
「……僕はどうにも苦しいです、この香り。慣れれば平気なものなんでしょうか」
僕の言葉にナザヘルが笑った。
「苦しい内はまだ理性がある証拠だろう」
「あの。ナザヘルさんのさっき言った“あの女”ってのは?」
「なんだ坊や、存外に聞きたがりだな」
坊や、などと言われ無意識に眉を寄せてしまっていた。彼から見ればそうなんだろうが、事実だとしてもどうしてか……異論を唱えたくなる言葉だった。ナザヘルは自分と歳もそう変わらない見た目をしているから。
けど、それをするには相手が悪いとも思うのだ。僕と違って屈強そうで……どう考えても、彼相手に喧嘩腰になることは避けるべきだろう。ゾラもそれを望まないはずだから。
僕が言葉を継がないからか、ナザヘルは話し始める。
「イシュベルダ――この会合を取り仕切る魔女の長だ。この館の装飾も香も、あれの趣味だろう……相変わらず品がない」
「……詳しいんですね。お知り合いですか?」
「まあ……昔、な」
どこか含みのある返答だった。それが何を意味するのか僕には分からない。ただ、その目が僅かに翳ったように感じられた。
それは不快か、或いは軽蔑の色か。
「まるで娼館だ。魔女と使い魔、どちらが並べ物なのか……実に曖昧だな」
皮肉の笑みでそう言い捨てた。この場合、どちらが正しいのだろう? 僕にはどちらとも愉しんでいるように見えるが、それが香の効果によるものなのか、各々の意思によるところなのか――外側からでは分からない。
沈黙が、少しだけ続いた。
ナザヘルは会場を眺めている。
ゲルドリヒは目を閉じている。
僕は――ただ、息をするのに必死だった。胸の奥が熱い。香りがまだ纏わりついている。
「で、お前」
ナザヘルが唐突に口を開いた。
「交わりを知らないのか?」
「えっ」
世界がひどく静かになった気がした。遠くで笑う魔女たちの声が、まるで別の世界の出来事のように霞んでいく。
鼻を刺す香の甘さが急に強く感じられ、胸が焼けつくように熱い。
ナザヘルの瞳がこちらを試すように細められていて、逃げようとしても視線が動かない。
喉がひりつく。呼吸がうまく出来なかった。
ニカエラ……どうしてか、頭の隅にぼんやりと滲んだ名前。
「ナザヘル」
ゲルドリヒが低い声で制した。
「あまりにも下劣だ」
「下劣?」
ナザヘルは肩を竦め、笑った。
「じゃあ訊くが、お前はどうだった? 忠誠を誓う時、祈るだけで済んだのか?」
「ゲルドリヒさんも……そういうこと、したんですか?」
どうしてか、追撃するように言葉が溢れてしまった。
ナザヘルの眉がピクリと動いた。
ゲルドリヒは目を細め、視線を落とす。
言ってしまってから、ひどく後悔した。単純な興味とするなら趣味が悪く、だけどどうしても気になってしまった。契約にそれが必須であるなら、この人もまたあのヴァレリアさんと――
答えは沈黙だった。ゆっくりと顔を上げるゲルドリヒの方を、僕は直視出来なかった。きっと怒っている。僕を気にかけてくれる彼に、あんな不躾な質問を投げかけてしまった。
「坊や、実にいい質問だ。犬よ、聖女様とどんな契約を交わした?」
笑いを堪えているのか、ナザヘルの声は微かに震えていた。いかにも愉快だと言いたそうに。
「……下衆な王だな」
ゲルドリヒが、低く言い放った。その声には怒りがあった。抑えきれない獰猛な、獣のような怒りが。
「誇りを忘れた愚か者ほど哀れなものはない」
ナザヘルが目を細め、鼻で笑う。
「誇り、か。お前も知っているだろう? 忠誠も愛も、結局は欲の言い換えに過ぎないことを」
楽しそうに肩を竦める彼とは対照に、ゲルドリヒはただ静かに口を開く。
その姿は、冷静に見えて――実のところ、そうでない。横目で見た彼は怒りに耐えるように拳を震わせていた。
「こう見えても裁縫は得意でな。そのよく滑る口を繕ってやろうか」
「犬の癖に器用なものだな」
即座に返すナザヘルをゲルドリヒは睨みつけた。
空気が凍ったようだった。僕は思わず息を呑む。
「なぁ、犬よ。お前、門番で居る方が似合うんじゃないか? それが本来の役割だろう」
「何が言いたい」
「その姿は……何だ?」
一拍置かれた。声の底に湿った笑いが混じる。最初、言っている意味が分からなかった。ナザヘルは尋問のように続ける。
「あれがそう在れと望むのか? それとも己を殺す為の偽りか?」
「やはり――その口を縫い合わせておくべきか」
ゲルドリヒの声は低く、だが刃のようだった。
ナザヘルは笑う。
「おお、怖いな。……まだ牙が残っていたとは」
彼は少し身を乗り出し、低く囁く。
「けれど結局は飼い慣らされた犬だ。狼ではない。門の番をするか、触れられもしない女を守るか……その違いでしかない」
口角が、ひどく愉快そうに歪む。
「お前のそれは信仰という名の自慰に過ぎない」
その言葉が胸の奥で鈍く鳴った。殴られたわけでもないのに、息が詰まる。
老紳士の穏やかな顔が歪んでいる。その瞳はぎらりと赤く光を宿していた。
獣の目――ナザヘルが言うように、きっとこの人の正体は見た目通りのものではない。
「……もう一度言ってみろよ」
低く唸るような声。
僕は耳を疑った。それは枯れた老人のものとするなら、あまりに粗野な響きだったからだ。
今にも飛びかからんとする獰猛さを、彼はもう隠そうともしていなかった。
しかしナザヘルは笑う。
「本当の貌が見えてきたな、ゲルドリヒよ」
口の端を歪め、満足そうに。ナザヘルは笑みを保ったまま、声だけを低く落とした。
「お前は自分を誤魔化している」
その声には、冷たい確信があった。
「結局、お前は逃げただけだ。欲に溺れることからじゃない。欲を持つ自分から、だ」
言葉は刃のように静かだった。
誰も返さない。返せない。
空気の重さが、肌を刺すように感じられる。
ナザヘルはふと目を細め、笑った。勝利の笑みではない。理解の果てにある虚無の微笑。
すべて見通した者だけが浮かべる、絶望にも似た静けさ。
その沈黙の中で、喉の奥がひりつく。
何かを言わなければいけない気がして、息を吸った。
「……て、ください」
声が漏れた瞬間、それが自分のものだと気付くのに少し時間がかかった。
囁きとも呻きともつかない、ひどく弱い音だった。
ナザヘルが緩く眉を上げ、視線をこちらに向ける。ゲルドリヒの瞳も、静かに揺れていた。
「何だ? もっとはっきりと言ってみろ」
「……やめてください。もう、聞いていられない」
その瞬間、空気が止まった。
喉が渇く。自分の声が喉の奥で掠れ、震えている。けれど止まらなかった。
「ここで争っても……意味が、ないです……多分」
静寂。
ゲルドリヒはすぐに目を伏せ、怒りの熱を理性の奥に押し込める。
対して、ナザヘルは目を細めた。
「いい度胸だな。無知ほど怖いものはない」
低く嗤い、顎を上げる。
その眼差しは獲物を弄ぶ捕食者のそれだった。だが、すぐにふいと視線を逸らす。
「まあ、意味ならあったさ。退屈は紛れた。……それで充分だ」
ナザヘルは気怠げに髪を掻き上げ、深く長い息を吐き出した。
「興が削がれた」
興味なさげに虚空を仰ぐ。その言葉と共に王は黙した。
そこにはもう敵意すら残っていなかった。
「悪かった、ミハイル。君に見せるようなものじゃなかった」
ゲルドリヒはそうとだけ言って、背を向けた。怒りの余韻を抑え込むように、深く息を吐いて。
違う。悪いのは僕の方だった。
ナザヘルの言うように僕は何も分かっていない。それなのに口を挟んでしまった。
ゲルドリヒの抱えるものがなにか――それすら知らないのに。
僕なんかが言うべきじゃなかったんだ。そう後悔しても、もう遅い。
沈黙が痛かった。
「まあまあ、随分と空気が冷えてるのね」
それは唐突に、知らない声だった。重い空気が霧散するように柔らかく響く、女性の声。
振り返れば、白銀の髪が光を受けて緩やかに揺れていた。
長い睫毛の影、肌の白さ、そして笑うときの口角の上がり方……その全てが、彼女を思わせた。
喉が引き攣り、反射的に背筋が凍る。ここに彼女が居るはずがない。それなのに。
(ニカエラ……?)
その名が一瞬にして脳裏に浮かぶ。心臓が一拍、痛いほどに跳ねた。
あの日、気を失っていた僕を探しに来た彼女。
傘を差し出す姿、抱き起こす腕の温度。
それが鮮明に思い出せるほどに、目の前の女性は似ていた。
けれど、違う。
瞳の色はまるで氷のように淡い青。柔らかい雰囲気の中に、誰も触れられないような透明な隔絶があった。
「あら、ナザヘル。マーちゃんの傍に居ないから、来ていないのかと思った」
「ああ、久しいな。お前もいつまでも変わらない」
「褒め言葉として受け取っておくわ」
返ってきた声は、どこか愉しげに響いた。
「……この方は?」
小声で問いかける。軽く顎を引き、ナザヘルも抑えた声で答えた。
「さっき話しただろう。この女がイシュベルダだ」
……イシュベルダ。
その名を聞いて、胸の奥の震えがようやく落ち着いた。ニカエラじゃない。そう分かって、ほっと息を吐く。
けれど同時に頭の片隅で、“魔女の長”という言葉が浮かび上がってくる。
この人が、ナザヘルをも従わせる存在――そう思うと、彼女の前に立つというだけで息の仕方すら解らなくなる。
「けど貴方、本当に変わらない。あまり感心出来る戯れとは言えないわ」
「見ていたのか?」
「いいえ? 聞こえてたの」
ふと笑うイシュベルダからナザヘルは視線を逸らした。彼もどこか、気まずさを感じているのだろうか。
その笑みは慈愛に満ちていて、けれどどこか冷たく整っていた。まるで優しささえも統べてしまうような、支配の香り。
「お見苦しいところをお見せしました。申し訳ありません、イシュベルダ様」
ゲルドリヒが頭を垂れる。その姿を、彼女はまるで古い知人を眺めるかのように見ていた。
「謝らないで。貴方がそうする姿を見ると……昔を思い出すのよ」
その声音に、微かな愉しみと寂しさが混じる。
ゲルドリヒが顔を上げた時、イシュベルダは微かに笑っていた。
「……お父様にそっくりね。あの方も、怒る時は静かで、そして美しかった」
ゲルドリヒの肩が僅かに揺れる。
「ご存知だったのですか」
「ええ。へレグリナとは親しかったから。貴方の存在も、少しはね」
イシュベルダの声が、過去の名を呼ぶたび薄い霧のように空気を撫でた。
「けれど貴方は、あの人よりも……人の形がよく似合うようになったわ」
その言葉に僕は思わず息を呑んだ。さっき垣間見た、あの赤い瞳と獰猛な声。あれこそが、彼本来の形なのだと突きつけられた気がして。
ゲルドリヒは何も返さず、ただ深く頭を下げた。
そして彼女の視線が僕に向けられた。
「それで、貴方は……。ゾラの使い魔?」
喉が微かに鳴った。
「っ、はい……ミハイルです」
「ふふ。可愛い子」
声は柔らかいのに、その眼差しは冷たい湖面のようだった。僕の皮膚をなぞるように、底の見えない何かが揺れる。
「手を出すのはやめておけ」
鼻で笑うようにナザヘルが言った。
「この坊やは純情だからな」
「へえ……そういうところ、貴方は昔から変わらないのね」
「どういう意味だ」
「さて――どういう意味かしら?」
イシュベルダの瞳が細くなった。その瞬間空気の密度が変わった気がした。
息を吸うのも怖くなるほどの圧。まるで彼女がこの場にいる全員の思考を指で撫でているみたいだった。
体の芯が冷える。何かを見透かされるようで、逃げたくなる。
しかし次の瞬間、イシュベルダは柔らかく笑い、白い手を翻した。
「……また昔みたいに話したいものね。けれど、今夜は主催者の顔をしなきゃならないの」
「お前が顔を作るのは珍しいな」
「憧れで居続けるのは大変なのよ? ……貴方も覚えがあると思うのだけど」
「俺は仮面を外しても愛されるさ」
「ええ、きっと。けどね……貴方の愛は、いつも誰かを壊す」
軽口のようでいて、二人の視線が交わったまま動かないように見えた。
風が通り抜ける。その静けさが、やけに長く感じられた。
「……では皆さん、良い夜を」
彼女の裾が揺れ、白い香りだけが残った。
僕は息を詰めたままその背を見送っていた。
消えた後も、胸の奥がざわめいていた。
ナザヘルが振り返ったとき、その唇の端がほんの一瞬、自嘲にも似た皮肉な線を描いたように見えた。
けれどすぐに、いつもの気怠げな笑みに戻る。
「さて。そろそろ戻るとするか」
彼は踵を返し、会場の奥へと歩き出した。向かうのは、マレインの下だろう。
ゲルドリヒもまた、何事もなかったかのような穏やかさで歩き始めた。
僕は……僕も、ゾラのもとに帰らなければ。彼女の姿を見失ったままでは、落ち着いて呼吸することさえ出来そうになかった。
ナザヘルとゲルドリヒの後に続き、歩き始めた。きっとゾラは彼らの主とまだ一緒に居るだろうから。




