魔女のルール
ふと気づいた時には、使い魔達の姿はもうそこになかった。
ヴァレリアとマレインが互いの主張をぶつけ合っている間に、煙のように消えてしまったのだ。
「あれ……彼らは?」
ヴァレリアが呆気にとられたように周囲を見渡す。
「行ってしまったわよ」
ゾラだけが、彼らが去っていった方向――会場の出口の方を淡々と眺めていた。
彼女にとって、下らない口論は時間の無駄だ。彼らが去ることを阻止する理由も、留まることを促す理由も見出せなかった。ただ、使い魔という記号が自ら退出を選んだのを見て、それを事務的に是認したに過ぎない。
無駄なことに付き合う必要はない。それはゾラがミハイルに送った、無言のメッセージだった。感情の一切を欠いた、ただの合理的な判断だ。
残されたのは魔女三人だけ。
ヴァレリアは小さく溜息をつく。マレインを睨みながら、気まずさを紛らわせるように自身の服の裾を直した。
「まったく、あなたって人は……」
その声には明らかな非難の色があった。
しかしマレインは悪びれもせず、近くにあった飾り台にだらしなく背中を預けた。行儀悪く足首を交差させ、赤い髪を弄ぶ。
「何よ、リアちゃん。あたしが何かした?」
「魔女としての品位を少しは考えてほしいですね」
「品位?」
マレインが鼻で笑った。
「そんなもの誰が決めたの? イシュベルダ様? それとも、もっと古い化石のような誰か?」
その言葉に、ヴァレリアは口を噤んだ。背筋を痛いほど真っ直ぐに伸ばし、マレインのだらしない姿勢を無言で咎めている。
「あたしは自分の生き方を選んでるだけ。リアちゃんだってそうでしょう?」
「私とあなたは違う。一緒にしないで」
ヴァレリアが静かに言った。
「私は伝統を守ろうとしている。あなたは――それを壊そうとしている」
「壊すだなんて。人聞きの悪い」
マレインは会場を行き交う給仕からグラスをひょいと抜き取ると、その赤い液体を光に透かした。
「あたしはただ――楽しんでるだけよ」
二人の視線がぶつかり合う中、ゾラは一人、場違いな異物としてそこに在った。
周囲は絹や宝石で着飾った魔女ばかり。その中で、色褪せた木綿の服に、泥道を歩くための無骨なブーツ。
磨き上げられた大理石の床に、彼女の古びたブーツだけが浮いている。だがゾラは気にした様子もなく、ただ虚空を眺めていた。
「ゾラはどう思いますか?」
同意を求めるように、ヴァレリアが水を向けた。
「どうとも思わないわ」
即答だった。視線すら動かさない。
「それぞれの生き方がある。それだけのことよ」
取り付く島もないその態度に、ヴァレリアは言葉を失う。
「……それにしても」
マレインが鼻をひくつかせた。
「この香り、相変わらず趣味悪いわね」
「ええ、本当に」
その点においてのみ、彼女ら二人の意見は一致したようだ。
「あたしならもっと巧妙に調合出来るのに。こんな風に会場全体に焚き染める必要なんてないわ。ほんの一滴、肌に落として……残り香で男を狂わせるくらいが丁度いいのよ」
「そもそも」
ヴァレリアが声を潜めた。
「この会合に意味はあるんでしょうか?」
「あら、リアちゃんがそんなこと言うなんて。珍しいわね」
「だって、そうでしょう?」
ヴァレリアが少し苛立ったように言った。
「魔女たちが集まって……親密な行為を見せつけ合い、権威を誇示し合い――そんなことに、何の意味があるというんです?」
「ふふ、楽しいじゃない。意味なんてそれで十分よ」
享楽的なマレインの答えに、ヴァレリアは納得がいかないという風に眉を寄せ、視線を伏せた。
この場に馴染めない潔癖な彼女にとって、楽しさなどという理由は不純物に過ぎないのだろう。
「……おばあちゃんが言ってました。昔はもっと儀式めいてて、小規模な集まりだったって」
ぽつりと零したその言葉に、マレインが「ああ」と頷いた。
「私もお師様から聞いたことがあるわ。蝋燭の明かりだけを頼りに地味~にやるのが、この会合の本来の姿ですってね」
奇妙な一致。だが二人はそれを深く追求することなく、ただ互いの知識の正確さを確認し合っただけに留まった。
ゾラは二人の会話を雑音のように聞き流していた。
この場にある全て――権威も、伝統も、快楽さえも、彼女にとっては硝子の向こう側の出来事だ。
「それで――」
不意に、マレインの視線がゾラに向けられる。しかしそこに、先ほどまでのような挑発的な色はなかった。
純粋な好奇心或いは、不器用に見える彼女を心配するかのようなもの。
「ゾラは、どうしてあの子と完全な契約をしていないの?」
その問いかけに、ゾラは――微かに、瞬き一つ分の反応を見せた。
「……必要ないから」
「でも不完全なままだと、魔力の供給効率も悪いでしょ? それに何より気持ちよくないじゃない」
「私には使い魔なんて必要ない」
ゾラが冷たく切り捨てた。
「ただ形式上、必要だっただけ。魔女の条件として、システムとして」
徹底して事務的なその物言いに、ヴァレリアが眉を顰める。
「それでは、ミハイルさんが可哀想じゃ……」
「可哀想?」
ゾラが初めて、明確に感情らしき苛立ちを滲ませた。
「仮に彼が可哀想だとするなら。私も彼もこのシステムの犠牲者ってだけ」
言い捨て、ヴァレリアの視線から逃れるように床の一点を見つめる。
「私は狩りすら知らないあの子に血を与えてやってる――悪い話じゃないと思うけど」
冷徹な理論。だがそれは、どこか自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
それぞれの契約の形。基本的に魔女というのは、他の魔女については不干渉で不可侵で居なければならない。
だからこそヴァレリアとマレインはそれ以上、ゾラの契約方式について言える言葉を持たなかった。
「ねえ、ゾラ」
空気を変えるように、マレインが声を甘くした。
「貴女、いつから魔女なの?」
その質問に、ゾラは僅かに固まった。
「……昔から」
曖昧な答えだった。
それを許さないように、しかし無邪気にマレインが質問を重ねる。
「お師匠様は?」
「居ない」
間髪入れず、拒絶が返る。だがマレインはそれに気づかなかった。
「まさか。貴女ほどの魔女が独学なわけないじゃない」
「死んだわ」
短く、氷を吐き出すように。はっきりと、それだけを言う。
「……どんな方だったの?」
マレインの声が少しだけ慎重になった。
まるで、踏んではいけない場所に足を踏み入れてしまったことに、今更気づいたかのように。
「さあ? あまり長くは習わなかったから」
これ以上聞くな――その無言の圧力を感じ取ったのか、マレインもようやく口を閉ざした。
「そうなんですね……」
そんなマレインの代わりに、ヴァレリアが相槌を打つ形になった。
その時だった。
ざわり、と波が引くように、周囲の喧騒が遠のいた。
誰かが合図をしたわけではない。ただ、圧倒的な「格」の差が、空間そのものを歪めたのだ。
「あら、こんなところに居たの」
鈴を転がすような、けれど絶対に無視出来ない声に、三人は一様に振り返った。
そこに、一人の魔女が立っていた。
白銀の長い髪、透き通るような白い肌。その脇には、音もなく控える幼い双子の召使い。
まるで精巧な調度品のような少女たちを従えたその姿は、この禍々しい会場の中で唯一神聖さすら帯びている。
彼女は慈愛に満ちた笑みを浮かべていた。だがその瞳の奥は、深海のように光が届いていない。
「久しぶりねゾラ。探したのよ? 参加してるなら会いに来てくれても良いのに」
「ご無沙汰しておりますイシュベルダ様」
ゾラが頭を下げる。その声は平坦だったが、警戒心が全身から立ち上っていた。
「長であるイシュベルダ様のことですから……お忙しい身かと思い」
「やーねぇ。遠慮しなくてもいいのに」
イシュベルダと呼ばれた魔女は、慈愛の笑みを浮かべたまま、場の重力を自分に引き寄せた。この会合の本当の支配者が誰かを、誰もが思い出す。
「マーちゃんとリアちゃんも……元気だったかしら」
「はい。イシュベルダ様も変わらずお綺麗で」
「お、お久しぶりです……」
同じくにこやかな笑みで返すマレインと、緊張が隠せない様子のヴァレリア。二人を見ていた瞳は再びゾラに向けられた。
「幾年ぶりに来たんだから。ちゃんと楽しんでいってね」
「ありがとうございます」
淡々と返すゾラの表情は冷めたものだったが、イシュベルダは満足そうに頷き踵を返した。
その背中が数歩離れたところでゾラがぽつりと呟いた。
「……あの婆さん、相変わらずね」
小さな、けれど明確な侮蔑。
「ばっ……!」
ヴァレリアとマレインが慌てたように言葉を詰まらせる。
「何言っ……ゾラ!」
「駄目ですよそんな!」
咎めるように慌てふためく二人とは対照に、ゾラは動じることもなく無表情を貫いていた。
ぴたりとイシュベルダの足が止まった。
二人は心臓が止まる思いだった。
「婆さん、ね……ええ、そうよ。へレグリナとは同期だったもの」
――一拍。空気が凍りついた。聞こえていたのだ。
ヴァレリアとマレインは目を見開き、肩を震わせる。
だが、二人の心配をよそにイシュベルダはあまりにもゆっくりと振り返り、少女のように微笑んで見せた。
その微笑みが逆に、恐ろしかった。
「……リアちゃんのお祖母様よ。私も彼女みたいにそろそろ隠居するべきかしらね?」
イシュベルダは楽しげに、視線を三人に流した。
「誰か、跡を継いでくれるなら――そうね。貴女達の内の誰か……興味ない?」
その笑みは柔らかく、それでいて、値踏みするような艶を帯びていた。
マレインは唇に笑みを浮かべ、ヴァレリアは僅かに息を詰まらせ、ゾラは冷ややかに視線を逸らす。
「若い子たちは皆、慎重ね。けれど、いずれは誰かがこの時代を導かねばならないのよ」
その声には冗談めいた軽さがあったが、否応なく未来を約束させる響きがあった。
「リアちゃん。貴女のお祖母様も、最初は“まだ早い”と言っていたわ」
そう言って微笑む顔は、祝福にも呪いにも見える。
「マーちゃん。貴女の香りは、昔よりずっと深くなったわね。……人を惑わすことを覚えた顔」
マレインは僅かに唇を吊り上げた。
「ゾラ」
イシュベルダの声が、僅かに低くなった気がした。
「貴女は……相変わらず、何にも染まらないのね」
その視線はゾラの瞳を突き抜け、もっと奥にある何かを見ているようだった。
「――楽しみにしているわ、皆」
そう締めくくると、イシュベルダは香の尾を残して去った。その背後を、ただ主人の動きに合わせて流れる影のように、双子の少女たちが音もなく追随する。
彼女達が遠ざかるにつれ、空気がゆっくりと軽くなる。まるで、その存在そのものがこの空間を支配していたかのように。




