甘い毒は、追うように
「あ、居た居た!」
不意に明るい声が響いた。僕が振り返ると、赤い髪が揺れていた。
長く艶やかな赤髪。駆け足で近づいてくるその女性は、まるで炎が人の形を取ったかのような、妖艶で情熱的な美しさを放っていた。豊満な身体のラインを強調する衣装、そして甘い香り。
初め、僕はぎょっとして肩を震わせた。自分に向けられたものだと錯覚したからだ。
だが面識もない女性から手を振られる覚えなどあるはずもなく。
ごく近くまで来て、その視線が背後のゾラへと注がれているのを見た時――ようやく、それが僕の恥ずかしい錯覚だったと理解するに至った。
「ゾラ~、会いたかったわ!」
その女性はゾラを抱き締めた。豊かな胸がゾラの顔の辺りに押し付けられるが、彼女は表情一つ変えずただ一言言うのみだった。
「相変わらず暑苦しいわね」
「そう言わないでよ。久しぶりに貴女が来るって聞いて、楽しみにしてたのよ?」
「マレイン。ゾラが嫌がってますよ」
「あら、リアちゃん。貴女のこともちゃんとぎゅってしてあげるから妬かないで」
マレインと呼ばれたその女性はゾラから離れると、ヴァレリアに向かい腕を広げてみせる。
「いいえ、結構です」
「……ふふ。照れることないじゃない」
ぴしゃりと断るヴァレリアを面白がるように、マレインは妖しく笑んだ。そしてようやく、その視線が僕に向けられた。
「あら……この子がゾラの使い魔くん、かしら? ……可愛い子ね」
思いも寄らない言葉を向けられ、僕は一瞬硬直した。
(かわ、いい……?)
どう反応するべきか迷っていた最中、彼女の背後から言いようのない圧が感じられた。
……明らかに、空気の質が変わった。
魔力の密度が一気に増す。まるで目に見えない重圧が場を覆うように。
マレインの後ろから、ゆったりとした歩みで一人の男が現れた。長身で筋肉質、浅黒い肌に闇色の髪。そして――金色の瞳。
ゾラと同じ色の瞳だが、その輝きは全く異なる。彼女のそれが静かな湖のような深さを持つなら、この男のそれは燃え盛る炎のような、圧倒的な自信と欲望を湛えている。
本能的に悟った。
……違う、理解させられた。この人には敵わない――と。
恐怖で足が竦む。けれど、視界の端で動く影があった。
ゲルドリヒだ。
彼は眉一つ動かさず、滑るようにヴァレリアの斜め前へと音もなく移動していた。主をその禍々しい威圧から遠ざけるかのように、静かに、けれど断固とした意志を感じさせる立ち位置を取る。
その迷いのない背中を見て、僕はまた自分の惨めさを思い知らされる。
彼は場の全員を一瞥し、やがてゾラに視線を向けた。
「マレイン……お前が会いたがっていたゾラというのは、この小さな魔女のことか」
「ええ。可愛い娘でしょ?」
「ほう――」
その瞬間、空気が更に重くなった。
ゾラとその男の視線が交錯する。
最初、その意味が分からなかった。だが、二人の間で確実に何かが起きていた。魔力が静かに衝突し、そして――男の側が先に目を逸らした。
その動作は僅かなものだったが、それが“降伏”を意味することが分かった。
(……、今の)
その後、彼の目が僕に向けられた。それは冷たく値踏みするような視線。
なにか恐ろしい存在に睨まれたような感覚に、身体が強張る。その場に縫い付けられたように僕は動けなくなっていた。
急に不安にもなる。明らか、格上の相手に目をつけられてしまっている状況に。きっと捕食者に睨まれた獲物の気分というのはこのようなものだろうと考える。
「あなたが噂の王様ね。お目にかかれて光栄ですわ」
そんなことを知ってか知らずか、わざとらしくゾラが賛辞を贈った。その口調は優雅で、けれど棘があった。
「いかにも。……夢魔の王、ナザヘルだ」
ナザヘルと名乗る男は、口端を吊り上げてそう名乗り、ふん、と鼻を鳴らした。
「くだらん肩書きだよ。……以後お見知り置きを、小さな小さな魔女殿」
続く言葉は丁寧だが、その響きには隠しようのない侮りが滲んでいる。
「ゾラと言ったか。貴女方は相当な高位の魔女とお見受けしますが」
「あら、恐縮ですわ。その高名な“夢魔の王”に名前を覚えていただけるだなんて」
皮肉交じりの応酬。臆することなくゾラはナザヘルに対面する。二人の言葉の端々が、会場中に蔓延する香の中でゆっくりと絡み合っていく。
彼の視線が再び僕に向けられた。その瞳の奥に、理解の及ばないものを前にした苛立ちがひどく静かに揺れている。
射竦められるように身構える。直後、唐突に声が落ちてきた。
「どうしてこの男を選んだ?」
抑えた低さ。けれどその問いは、喉元に冷たい刃物を押し当てられたような錯覚を覚えさせた。
瞬間、呼吸が詰まる。
触れれば崩れると分かりながら、心の底へ押し込めてきた――蓋をしていたはずの疑念を、切っ先が正確に暴き出そうとしていた。
抗おうとするよりも先に、激しい動揺が思考を塗り潰す。
「必要だったから選んだまで」
ゾラの横顔は変わらなかった。たったそれだけの事実として。
その必要、というのがきっと会合までの間に合わせであることは、その場の誰もがそう捉えるに足る冷たい響きだった。
――まるで使い魔をただの器具とでも言うかのように。
「利点があって選んだのでは?」
「? ……そうね、特には」
ナザヘルの問いに“思い浮かばない”と続きそうな言葉で応じる。だがゾラは、どこか含みのある笑みを見せた。
「ほう。では、こいつは特別ではないと?」
ナザヘルは笑いながら、視線をゾラからこちらへと落とす。
「例えば、その余裕。ベッドの上では剥がされてしまうのではないか」
空気が止まった。
無遠慮で無配慮、そして下劣なその問いかけ。マレインは笑いを堪えるように顔を背け、ヴァレリアは絶句したように固まる。
そしてゾラは目を細めたが、怒りの代わりに薄い笑みを浮かべる。
「どいつもこいつも同じね」
「高貴な魔女様にも秘密がある。マレインもそうだ。恥じることではない」
「っ、ちょっとナザヘル! それは言わない約束でしょ……!?」
矛先を向けられたマレインが慌てて口を挟もうとする。余裕のあった表情が一転し、焦燥に染まる。
だが、ナザヘルは片手を軽く挙げるだけで、それ以上の抗議を許さなかった。
尊大な態度は、会合の主役たる魔女という存在に対して取るべきものではない。しかし彼はもう取り繕うのさえ忘れるほど、この問答を愉しんでいた。
「私が施したのは血だけよ。それ以外は何も与えていない」
面白く無さそうにゾラはそれだけ言う。
「っ、そんなことは……ないです」
咄嗟に僕はそう口にしていた。
血だけ、なんてのは事実とは違って。それだけじゃない――そう証明したくて。
「ゾラは、僕に部屋をくれました……」
一瞬の間があった。皆の視線が僕に注がれているのが感じられる。不用意に注目を集めてしまったせいか、顔が熱くなるのを感じる。
そして少しの後、堪え切れなくなった様子でナザヘルは肩を震わせ笑い出した。
「っ、ははは……。随分とプラトニックなものなのだな、貴女達の関係は」
彼はひとしきり喉を鳴らして笑うと、呆れたような溜め息を一つ溢した。
だが、その愉悦は終わらない。
獲物を探すような金色の瞳が、今度は静かに控える老紳士へと滑る。
「――いや。ゲルドリヒも、か。どいつもこいつも……くくっ」
見た目通りの枯れた関係だと決めつける、下卑た嘲笑。
けれど、その浅薄な推量こそがヴァレリアにとっては何よりも許しがたかった。
「彼を侮辱しないで」
震える声で、けれど毅然と言い返した。
「私たちのことは、あなたにはきっと理解出来ることじゃない」
顔を真っ赤にして、まるで汚いものを見るようにナザヘルを睨む。
それは拒絶であり、明確な線引きだった。
ゲルドリヒは、主の言葉に感謝するように一瞬だけ目を伏せたものの、ナザヘルの挑発には一切乗らず、ただ彫像のように静寂を保っている。
その沈黙こそが彼の矜持であると言わんばかりに。
「ナザヘル。あまりこの子達を苛めるのはやめて」
助け舟的にマレインが口を挟むが、ナザヘルは尚も止まらなかった。
「いや、しかしな? マレイン……この二人の契約は不完全なものということになるぞ。今語った事が真実なら、な」
「不完全……?」
僕は思わず、そのままを口に出していた。
不完全――その言葉が胸の奥に小さな軋みを生じさせる。
「ねえ、使い魔くん」
最初、それが誰を指すものか……分からなかった。
呼びかけたマレインの視線が自分を捉えているのに気付くと、反射的に返事をしていた。
「は、はい」
その瞬間に少しだけ、嫌な予感を感じていた。
「貴方、本当に何も知らないのね」
呆れたような、それでいてどこか甘く絡みつくような声。硬質なヒールが磨かれた床を高く鳴らし、その鋭い音がゆっくりと近づいてくる。
「ほんと、可愛いわね。……名前は?」
「あ、ミハイル……です」
答えると同時に、マレインが傍に寄っていた。ふわりと漂う香りが鼻腔を擽る。
官能的な香り。会場に焚かれた香とは違う、けれど何かしらの男性的な欲を刺激するような――甘く、危険な匂い。
「ふふ。ミハイルくん……ちゃんとした契約に必要なコト。お姉さんが教えてあげましょうか?」
その声が囁くように耳元で響いた。
思考が一瞬、停止する。
「へ……?」
情けなく声が裏返る。心臓が激しく鼓動し、呼吸が乱れる。嫌な汗が背中を伝って流れ落ちる。
マレインの細い指先が僕の頬から顎へ、そして唇へと滑っていく。その触れ方は、あまりにも――
(これって、その。つまり……)
その意味を理解した瞬間、顔が一気に熱くなった。
「ちょっと、マレイン! そんな。あまりにも破廉恥です!」
見かねたヴァレリアが割って入ろうとする。
「……ねえ、リアちゃん」
マレインは僕の唇から指を離さず、視線だけをヴァレリアに向けた。
その目は笑っているようで、有無を言わせない冷徹さを秘めている。
「貴女には関係のないことよ。これは私とゾラの正当な商談、なんだから」
その言葉に、ヴァレリアはぐっと息を詰まらせた。何かを言いかけて、けれどその正当という響きに縛られたように口を閉ざす。
僕は助けを求めるようにゾラを見るが、その瞳に浮かぶ色はなんの感情も映してはいない。
「ねぇ、ゾラ。この子、貸してくれない? 良いでしょう? ……一晩だけ、おねがーい」
甘い声音でねだるようにマレインは言った。
(一晩って、……やっぱり)
僕は焦るしかなかった。
ここでゾラが何と答えるのか? 貸して、という意味がもし自分の想像通りなら?
「……ということは」
ゾラはゆっくりと口を開いた。その時間は僅かな間であったが、僕にとっては永遠のようにも思える時間だった。
彼女は続ける。
「私がナザヘルを借りることになるのね」
(そんな、まさか……)
脳裏を様々な可能性が過った。
契約に必要なこと、とは。一晩……マレインと何をするのか。
そして代わりにゾラの元には――本来自分が居るべきゾラの傍には、このナザヘルという男が。
そこまで考え、僕は目をぎゅっと閉じ、激しく首を振った。その、最悪の考えを頭の中から追いやりたくて。
ゾラは本当にナザヘルを? いや、僕を……マレインに?
縋る思いでゾラの方を向けば、彼女は眉を寄せ、思案していた。そして少しの後、ゆっくりと口を開いた。
「そうね、何をさせようかしら? ……その、夢魔の王たるナザヘル様に」
彼女は薄く笑みを浮かべながら、まるで買い物する物品を思いついていくように指折り言葉を紡いでいく。
「家の掃除、庭の手入れ……洗濯、あとは……薪割りなんかも良いわね、丈夫そうな身体つきしてるもの」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
だが、ゾラだけは何も気づかぬ風で指先の埃でも払うように淡々としていた。まるで自分が生んだ緊張を他人事のように眺めている。
自身の男性的魅力に絶対の自信を持っていることが明らかなナザヘルを、彼女はただの雑用係として扱うと言ってのけた。
「……俺を侮るか」
低く冷たい声だった。
ナザヘルの目が細められ、光を帯びる。その視線だけで相手を焼き切るような、静かな怒り。
やがて、唇の端が僅かに持ち上がった――笑っているようで、決して本心からは笑ってはいない。
「わ、わかった! 貸し借りの話はナシ! ね、ゾラ。あたしが悪かったから……」
ひりつく気配を感じ取ってか、ナザヘルの言うのを遮るようにマレインが止めにかかった。
ナザヘルは、それ以上の言葉を続けなかった。ただ、世界の温度がほんの少し下がった気がした。
彼が笑っているのに、怖かった。いや、笑っているからこそ……怖かった。
僕はただ呆然としていた。
「……ホントですよ。相変わらずあなたって人は破廉恥そのものですね」
緊迫した糸が切れた瞬間、ヴァレリアが深い溜息と共に口を開いた。
さっきは“商談”という言葉に封じられた非難の気持ちを、今こそ吐き出すように。
「いくら双方の合意があれば許されるとはいえ。会って間もない相手をそんな風に誘惑するのはふしだらです!」
「あらお堅いこと。ほんとリアちゃんってば、お子様なのね」
「その呼び方はやめてって言ってるのに!」
「やーよ。可愛いじゃない、リアちゃん」
ヴァレリアの声が少し上擦る。マレインは口元を隠して笑っていた。
そんな二人をゾラは遠巻きに眺めている。笑ってもいない。
僕はただ立ち尽くして、その小さな輪に入ることも出来なかった。
やがてナザヘルがゆっくりと踵を返す。その背中には、聞くに耐えないという無言の空気があった。
ゲルドリヒも小さくヴァレリアを振り返った後、無言でナザヘルの後に続く。
僕は一瞬、足を止めた。魔女たちの間に留まるべきか、それとも……。
けれど、ゾラの視線がふとこちらを掠めた。
その目には「行っておいで」と言うような、微かな合図があった。
僕は小さく息を吸い、二人の後を追った。




