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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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水底の亡霊

 光が痛かった。

 扉が開いた瞬間、天井から落ちてくる光が目を刺した。刃のように鋭く、容赦がない。

 見上げれば目が焼け、視線を落とせば磨き上げられた大理石の床がまた光を跳ね返してくる。

 鏡のような床面に自分の姿がぼんやりと映り込んでいた。血の気のない亡霊のような、場違いな存在が。

 どこにも影がない。

 影がない場所で、吸血鬼(ぼく)はどうやって息をすればいいんだろう? ……そんなことを考えるくらいには、息が詰まっていた。

 音もどこか遠く――談笑や囁き、全て水の底から聞こえてくるような錯覚に襲われる。

 ゾラの背中が遠かった。

 彼女はもう歩き出していた。僕が立ち尽くしている間に、どんどん先へ行ってしまう。淀みのない足取りで、会場の奥へ奥へと。

 彼女はこの場所を知っている。僕は知らない。

 慌てて追いかける。近づき過ぎても遠すぎてもいけない。彼女の背中までの距離を測りながら、僕は会場の中へ足を踏み入れた。

 そしてようやく周囲が見えてきた。

 何組もの魔女と使い魔のペア。彼らは優雅で自信に満ち、その振る舞いは堂々としていて、まさに今の僕が参考にするべきものなのかも知れない。

 魔女たちは談笑し、使い魔たちは彼女らの傍に控えている。

 けれどそれだけではなかった。

 会場のそこかしこで、魔女と使い魔が露骨なほど親密に触れ合っている。

 魔女が使い魔の首筋に唇を這わせていたり、別のところでは使い魔が魔女の髪に顔を埋めていたりして。もっと露骨なのだと、身体を密着させ囁き合うようにしていたり。

 このようなことは、本来二人きりの時、密かな秘め事のように行うものであるはずだ。だがここでは、それが当然のことのように隠されることなく行われている。

 顔が熱くなる。視線をどこに向けて良いか、分からない。

 そんな瞬間、一人の使い魔と目が合ってしまった。

 彼はソファに深く腰掛け、甘えるように身を寄せる魔女を抱き留めていた。

 けれど、主の肩越しに――ふと、彼と視線が絡んだ。

 心臓が止まりそうだった。見てしまったことを、後悔した。

 何より恐ろしかったのは、彼の目には何の感情も浮かんでいなかったことだ。

 熱に浮かされているはずなのに、その瞳だけが冷え切っている。

 ――空虚な、人形のような目。

 主の熱を受け止めながら、彼はただ無関心に、通り過ぎる僕を見ていた。

 それが、どうしてか怖くてたまらなかった。

 思わず助けを求めるかのようにゾラを見るが、彼女は振り返ることすらしなかった。ある一点を目指すような、真っ直ぐな足取りで歩みを進めていく。僕はただ彼女に置いていかれないように必死だった。

 会場に充満する香りが、ようやく意識に上ってきた。バニラのように甘ったるく、でも腐りかけの花のような。

 深く吸い込んでしまえば、何か害がある危険なもののようにも感じられる。それでもどこか抗い難く、もっと吸い込みたいような気にもなってくる。

 胸の奥がじわりと熱く、頭が少し霞む。息をするたび、体が沈んでいくようだった。

 水底にいるのは自分の方だったのだろうか? ……どこを見ても、呼吸の仕方を忘れるような場所であったから。


 ゾラが辿り着いたのは、会場の端――人もまばらな、薄暗い一角だった。

 近づくにつれて空気が軽いことに気付いた。会場全体を覆っていた重苦しさが、ここにはない。甘ったるい香りもここでは薄れていて、少しだけ呼吸が楽になった。

 それから、視覚が追いついてきた。

 そこに二人の人影があった。

 一人は魔女だと分かる。だが、会場の他の魔女たちとは明らかに違っていた。華美な装飾も、誇示するような態度もない。ただ静かに、佇んでいる。

 もう一人は使い魔、なのだろうか? 使い魔というより執事という出で立ちの、老齢の男性。ある意味では彼もまた“場違い”な印象を受けるが、僕のそれとはまた違った意味であり……。

「ゾラ」

 魔女が彼女の名を呼んだ。

 その声には安堵が滲んでいた。僕にも分かるほど、はっきりと。

「良かった。来てくれたんですね」

 ゾラは短く頷いた。

「約束したから」

 それだけの言葉だったが、魔女は微笑んだ。まるで、それで十分だと言うように。

「初めまして。私はヴァレリア。こちらは私の使い魔、ゲルドリヒ」

 ゲルドリヒと呼ばれた老紳士が、静かに頭を下げた。

 その仕草には他の使い魔たちのような、あの空虚さがなかった。

 意思がある。自分の意志で、主の半歩後ろに控えている。

 ……ああ、これが。

 これこそが、本来あるべき「使い魔」の姿なのかもしれない。

 ただの道具でも、奴隷でもなく、誇り高き従者。

 その佇まいの美しさに目を奪われると同時に、惨めさが込み上げた。

 それに比べて、僕のこの様はどうだ。ただ怯えてゾラの背中に隠れているだけの、出来損ないの吸血鬼。

 彼のようになりたいと願うことすら、おこがましい気がした。

「あなたは――ゾラの使い魔?」

 ヴァレリアが僕に視線を向けた。優しく、微笑んで。

「よろしく。慣れない場所で……大変だったでしょう?」

 その言葉に思わず息を呑んだ。

 分かっているのだろうか? この会場が僕にとってどれほど息苦しかったか。

「……ミハイル・リュセリエです」

 そう名を告げた瞬間、ヴァレリアの眉が僅かに動いた。

「リュセリエ? どこかで聞いたような……」

 その横で、ゲルドリヒが影のように口を開いた。

「吸血鬼の名家でございます。現在は……あまり耳にしませんが」

 老成した言い回しなのに、語尾だけ微かに整い切っていない。

「あぁ、そうです! そうでした」

 ヴァレリアが合点がいったとばかりに瞳を輝かせた、その時。

 ゾラが横目でミハイルを一瞥しただけで言った。

「あなた、ファミリーネームがあったのね」

 乾いた声音。興味も軽蔑も混ざらない。ただ、本当に知らなかったというだけの反応だった。

 ヴァレリアの目が、そこで微かに揺れた。

「……ゾラ、知らなかったんですか?」

 驚きというより、戸惑いの色。

 使い魔と主は互いの素性を把握しているものだ、という常識が音を立てて崩れる。

 ゾラは気にも留めない様子で軽く肩を竦めた。

「ええ。必要無かったから」

 ――やっぱり、そうだ。

 僕が名乗ったことの意味なんて、彼女にとっては何の価値もない。

 胸の奥で何かが静かに沈む。

 僕は視線を落とした。

「でも、本当に良かった」

 ヴァレリアが改めてゾラへと微笑みかけた。

 言葉の温度が、僕の内側には届かないほどに優しかった。

「使い魔を得られるかどうか。正直、心配していたんですよ。もしあなたが今回も来られなかったら、私は……」

 そこで、彼女は少し言葉を濁した。

「流石にこれ以上は庇いきれないですから」

 ようやく、事情を察した。

 ヴァレリアはゾラのために便宜を図っていた。これまでの欠席を何とか誤魔化してくれていた。

 だから今回、ゾラが来なければ――彼女にも迷惑がかかったんだろう。

 そういう構造だったんだ。

 少し申し訳なく思った。ゾラが使い魔を得られなかったら、ヴァレリアが困ったことになっていたかも知れない。

 僕がここに居ることで、彼女の心配が軽くなるのなら……それだけでも、ここに来た甲斐はあった。

 でも、同時に。

(僕で良かったんだろうか)

 そんな不安も僅かに湧いてくる。

 僕はゾラの使い魔として、彼女たちの期待に応えられるんだろうか?

「あなたに迷惑をかけるのは本意ではないから」

 ゾラが淡々と言った。

「だから来た」

 その言葉を聞いて少し切なくなった。「ただの義務」――そう聞こえるから。

 でも分かっている。ゾラが約束を守ったこと。それは、ただの合理性じゃない。彼女なりの優しさなんだ。

「ええ、分かってます」

 ヴァレリアは柔らかく笑った。

「でも、それでも……あなたが来てくれたことが、嬉しいんです。約束を守ってくれてありがとう」

 ゾラは何も答えなかったが、ほんの少しだけ表情が和らいだような気がした。錯覚かも知れない。でも、僕自身はそう思いたかった。

「感謝されるほどのことでもないわ」

 ゾラが短く答え、ふと僕の方を見た。

 一瞬のことだった。

 視線が交わる。彼女は何も言わなかった。ただ、確認するように。僕がちゃんとそこにいることを確かめるように……それだけだった。

 でもそれだけで良かった。

 僕はここに居る。彼女の傍に、居る。

 その事実が伝わったなら、それで良かった。

 会場の喧騒はここまで届かなかった。親密な行為も、空虚な視線も、甘ったるい香りも。

 この場所だけはまるで聖域のように、静かで清浄だった。

 身体が先に呼吸を思い出した。心はまだ追いつけない。

 ……それでも。

 僕はようやく――少しだけ、息が出来た。

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