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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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隣に立つために

 テーブルには二つの皿があった。

 最初はそうじゃなかった。ゾラだけが食事をして、僕はただその向かいに座り、彼女が食事をする様子を眺めていた。

 ある日、テーブルに置かれたパンに手を伸ばした。それは無意識の動作だった。

「あなた、食べるの?」

 ゾラの声に手が止まる。彼女の瞳には、驚きというより単なる興味が宿っていた。

 僕は少し躊躇い、それから頷いた。

 ――彼女と同じ時間を過ごしたかった。ただ、それだけだった。

 翌日から二つの皿が並ぶようになった。

 ゾラは何も訊かなかった。

 僕も何も説明しなかった。

 それでよかった。


 スープを一口啜る。温かさは分かる。けれど、味はぼんやりとしか感じられなかった。

 それでも僕は食べ続けた。ゾラが淡々と食事をしている。その仕草を見ながら、同じようにスプーンを動かす。

 血さえあれば生きていける僕らにとって、こんなものは本来必要ない。

 いわば、人の真似事に過ぎない。

 それでも、こうして彼女と同じ時間を過ごしている――その事実だけが嬉しかった。

 グラスに手を伸ばし、ワインを一口含む。

 ――これだけは、はっきりと分かる。喉を通る熱、舌に残る渋み。

 ニカエラがこれを愛した理由も、今なら少し分かる気がした。

 そんなことを考えていた時だった。

「明日の晩、出かけるわ」

 ゾラが唐突に言った。視線は皿の上に落ちたまま、表情を変えない。

 スプーンが皿に触れる小さな音だけが響いた。

「え?」

 一瞬、意味が分からなかった。

 ここに来てからというものの、ゾラが外出するということは今までなかった。

 だから彼女の出かけるなんて言葉が、僕には意外なものとして聞こえた。

「珍しいですね」

 率直な感想だった。珍しい、なんて……ゾラのこと、殆ど知りもしない癖に。

 そして続けられた言葉にまた僕は驚くことになる。

「あなたも一緒よ」

 ただ簡潔に言う。いつも通り、ゾラの言葉には一切の無駄がない。

 けれども僕は、たったその一言でひどく浮かれてしまう。

 心臓が跳ねた。思わず顔が熱くなるのを感じて、僕は視線を落とした。

 ゾラは相変わらず僕を見ていない。

 これは……もしかしたら、もしかするのか。二人で出かけるということ、その特別感にどうしても期待してしまう。

「あの」

 声が少し上擦った気がして、軽く咳払いをする。

「どこへ、行かれるんですか?」

 ゾラの手が止まった。スプーンを置き、ゆっくりと顔を上げる。

「魔女の会合」

 その声はいつもと変わらず淡々としていた。

「あなたには、使い魔として同行してもらう」

 ……まるで僕の期待を見透かしたかのように、浮ついた心ごと釘を打たれた気がした。

 ゾラは再び食事に戻る。何事もなかったかのように、淡々と。

「会合……」

 噛み締めるように口に出していた。落胆したのが明らかな声になってしまい、妙に恥ずかしくなる。

 何を期待していたんだろう?

 僕は彼女の使い魔なんだ。特別な“誰か”じゃない。ただの、契約の相手……分かっていたはずなのに。

 僕は視線を皿に落とした。スープが冷めていた。

 誤魔化すようにグラスを手に取り、ワインを一口含んだ。おかしなことに、今は何も感じられない。

 沈黙が落ちたまま、暫くの間、時間だけが過ぎた。

 やがて堪え切れずに口を開く。

「……、その」

 声が出し難かった。あくまで冷静に――そう考えれば、考えるほどに。

「会合、というのは?」

「魔女たちが集う場よ」

 ゾラは僕を一瞥した。その視線には何の感情も浮かんでいない。

「あなたは隣に立っていればいい」

「それだけ、ですか?」

「それだけ」

 即答だった。その一言が妙に胸に刺さった。

 何も求められていない。それは楽なことのはずだったのに、心のどこかで失われたものを探していた。

 “隣に立つだけ”――その言葉が、慰めのようにも拒絶のようにも聞こえた。

 けれど。他の者たちの目がある場だというなら、そうも言っていられない。使い魔として彼女の隣に立つなら、それなりの格好をしなければ。

 ああ、でも。

「今からだとその……服、間に合わないんじゃ」

 ゾラが顔を上げた。

「服?」

「その、会合に相応しい格好、というのが……」

 彼女は少し首を傾げた。まるで、何を言っているのか理解出来ないという風に。

 僕の焦りなんてのはゾラには全く伝わっていないようだった。

「別に何でもいいわ。今の格好で充分」

 あっさりとした即答。興味が無いのか、そういう場に……それとも、僕に。

 そこまで考えて、それは当然のことだと自分で自分に言い聞かせた。

「でも――」

 言葉に詰まる。どう説明すればいいんだろう?

 姉のニカエラは社交の場に出る時、必ず完璧な装いを整えていた。

 仕立て屋を城に呼び寄せ、新しいドレスを誂えて……髪から爪の先まで一切の隙が無いように。

 それが貴族の礼儀だと、僕は教えられてきた。

 けれど今の僕はどうだろう?

 あの夜、姉さんに頼まれて出かけたままの姿――それだけだった。

 簡素な服、地味な外套。人間の蔓延る街に溶け込む為だけの一張羅。そんなものが、ゾラの隣に立つに相応しい格好とは思えなかった。

「あなたはそのままでいい」

 ゾラは短く言った。その声はいつもと変わらず冷静だった。

「どうせ見ているのは私だけだから」

 胸が詰まった。それは、優しさにも突き放しにも聞こえた。

 けれど――結局のところ、どちらでもよかった。

 彼女の隣に居られる。それだけで今は充分だった。


 ――そんな会話を交わしたのが、昨夜のことだ。

 今の僕は、自室の寝台に横たわっていた。今夜の会合までに睡眠を取ろうとしていた。

 しかし眠れない。眠れるわけがない。

 緊張している。当然だろう。

 厚いカーテンの隙間から微かに光が漏れていた。外は明るく、眠るのに絶好の時間だというのに。

 何もしなくていい、ゾラの隣に居さえすれば……頭では分かっていた。何も求められていないこと。

 けれど、それでも……城に居た頃には、社交の場には無縁だったから。そういう場でどんな格好をして、どんな風に振る舞うのが正しいのか分からない。

 そこに集まるのが魔女や他の使い魔達だと言うのだから、尚更。失礼があってはいけない。ゾラに恥をかかせてはいけない。

 そう、恥を――僕は出来損ないの吸血鬼だ。だから、ニカエラはそういった場に僕を連れて行くことがなかったんだろう。

 そんな存在を公にするなら、リュセリエ家の品位が疑われるだろうから。

 いくらニカエラ達が完璧な装いをしたところで、僕なんかが出ていけばそれも台無しだろう。

 記憶にあるのは、ニカエラが台座の上で裾の長さを直されている姿。仕立て屋が忙しなく部屋を出入りし、大きな三面鏡が彼女の姿を映していた。

 彼女は、ドレスを新調する場にいつも僕を同席させていた。

「私にとって、ミーシャの意見が一番大事なのよ」

 そう言い、僕に笑いかけた。色はどうか、形はどうか、似合っているか……そんなことを聞かれた。

 僕は言った。似合ってる、なんて。それしか言えなかった。多分、彼女ほど真剣に考えもしなかったから。

 それでも、その答えにニカエラは満足そうにしていた。

「おまえは本当に正直で優しい子ね」

 きっと、本当のところ……僕の意見なんてのは、どうでも良かったんじゃないかと思う。その場に僕を連れて行くことは無かったんだから。

 それでも毎回、出かける前に。ニカエラは振り返って僕に笑いかけた。

「すぐ戻るわ。いい子にしていなさい」

「あぁ、弟くんは今回もお留守番か」

 レオナールが冗談めかして言うのは、もう何度も聞いた台詞だった。

 エヴァンジェリンだけは僕を見ることもなく、無言だった。まるでこの場に僕という存在なんて初めから居ないもののように。

 扉が閉まる音。その音だけが、やけに耳に残っている。

 ……その記憶の続きがいつも霞んでいる。僕はその間城に一人きりで、どう過ごしていたのかすらもう思い出せない。

 けど、今夜は違う。

 自分も、そういった場に出ていくんだ。ゾラの使い魔として、隣に立って……。

 それだけのことなのに、胸が少しだけ高鳴った。僕なんかが何を期待しているんだろう。

 この扉を出ていく背中を見送る側ではなく、共に扉をくぐる側になれる。

 もし、彼女の隣で恥ずかしくない振る舞いが出来たなら、あの城で「お留守番」だった惨めな自分も、少しは報われる気がしたのだ。

 誰かに見せたいわけじゃない。ただ僕自身の為に――自分が連れて歩くに値する存在だと、証明したかったのかも知れない。

 目を閉じて思い描いてしまう。ゾラの隣に立つ自分の姿を。そうしてしまうから、眠れやしなかった。

 天井の木目を数え、寝返りを打ち、高鳴る心臓を持て余す。

 そんなことを繰り返すうち、張り詰めていた糸がぷつりと切れたのだろうか。緊張が限界を超え、意識が泥のような微睡みへと沈んでいった。


 ……夢を見たような気もする。けれど、その内容は思い出せなかった。


 不意に、現実の音が鼓膜を叩く。ドアが叩かれる音だ。弾かれたように飛び起きて外を見たなら、辺りは既に暗くなっていた。

「早く準備なさい」

 扉の向こう。淡々と告げるゾラは、普段と変わらない格好をして立っていた。

 色褪せた木綿の服に、使い古した黒い外套。足元は泥道を歩くための無骨なブーツ。

 夜会へ向かう魔女というより、それはまるで、井戸へ水を汲みに行く田舎娘そのものだった。

 その姿にがっかりしたなんて言えない。彼女もまた、僕と同じに()()()()だった。

 愚かにも、二人で出かける時間のことを、特別なものだと思い込んで。

 普段とは違う、彼女の着飾った姿を見られるかも知れないと……少しの期待を抱いてしまっていたのだから。

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