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ヴァンパイアは暁に夢む  作者: 静杜原 愁


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獣と少女

 夜は、全てを隠す黒い布地だ。

 その闇の中を一体の影が彷徨っていた。影というよりは、最早本能だけが辛うじてその躯を動かしている獣。

 喉は焼けつき、臓腑が捩れるような飢餓感が全身を苛む。視界は赤く染まり、思考は粘つく泥のように鈍い。

 その男は、自分が何者であるかすら曖昧になっていた。

 ただ、何かを。温かく、滴る何かを。この乾ききった身体に流し込みたい。その衝動だけが、彼を道の端へと追いやっていた。


 男の耳が何者かの足音を捉える。ほんの微かだが、確かな響き。

 その音のする方には――血の匂い。それも……かなり上等な。

 獲物だ。

 身体が、命令もなく動き出す。低く唸り声を上げながら、闇に溶け込むように、彼はその音の元へ忍び寄る。

 そこにいたのは少女だった。外套に包まれた華奢な輪郭。

 だが、その足取りには警戒というものが微塵もない。まるで、この闇が自分のものであるかのような――或いは、この世界に恐れるものなど何一つ無いかのような、傲慢なほど静かな歩み。

 月明かりが一瞬その横顔を照らし、男は飢えた獣の本能のまま――獲物として認識した。全身の血が沸騰し、衝動が理性を焼き尽くす。ただ、目の前の命に食らいつきたい……それだけだった。

 唸り声を上げ、彼はその少女に飛びかかる。爪を立て、牙を剥き出しに、その細い首元目掛けて。

 だが、次の瞬間――空間が歪んだ。

 いや、歪んだと認識する間もなかった。目に見えない何かが、まるで巨大な掌のように彼の全身を掴み、軽々と投げ捨てた。骨が軋む。肺から空気が絞り出され、背中が地面に叩きつけられる。

 魔法、という言葉すら浮かばない。ただ、圧倒的な、理不尽な力の発現。思考が一瞬にして白くなる。

 呻きながら顔を上げると、先程の少女が、まるで何もなかったかのようにそこに立っていた。

 その表情には、恐怖も、驚きも、苛立ちさえも見当たらない。ただ、底の見えない湖のような、静かな無関心だけが浮かんでいる。

 女は、転がる男を見下ろす。そして、ふと、その眼差しに微かな色――それは好奇心、或いは侮蔑、或いはその両方か――、が宿ったように見えた。

「なにかしら。狼? ……いやヴァンパイアか」

 静かな声が降ってくる。その声にはただ、目の前の存在の状態を淡々と把握しただけの響きのみがあった。

 男は答えられない。身体が動かない。飢えと、そして今受けた衝撃によって、全身の力が抜け落ちていた。

「……まるで駄犬ね。躾のなってない犬」

 何を言われても彼の中には響いてこなかった。ただ、その少女から発せられる、得体の知れない力の気配だけを感じて、本能的な恐怖に身体が震える。

 少女はそんな彼を観察し、一人考察するのみだった。

「ヴァンパイアにしては……こうも飢えてるのはおかしい。獲物すらろくに狩れないのかしら」

 その隣で蒼い灯が息づくように浮かぶ。それはまるで、彼女の言葉に呼応するような動きを見せた。

 それをちらと見やり、静かに呟く。

「ああ、そう……どちらにせよ極限状態、と」

 言い終えると同時に、少女はどこからともなくナイフを取り出した。少しの間自分の人差し指を見つめると、右手のナイフで傷を創る。

「噛みついたら殺すから」

 冷ややかに言い、膝を折った少女はそっと、血の滲む指先を男の口元に差し出した。

 しかし、彼にはもうその施しを拒否する力はなかった。いや、それ以前に、あの赤い輝きから目を離すことが出来なかった。

 喉の渇きが痛みを超え、存在そのものを脅かす。理性が完全に沈黙する。

 彼は、少女の指先に顔を寄せた。焦がれるような表情で少女を見上げると、口を開く。

 道端に倒れた野良犬に施しを与えるような仕草で、少女は滴る血を男の口へと落としていく。ちらりと牙が覗き、それを見てこれが吸血鬼であることを確信する。

 たった一滴だった。しかし、その一滴が渇いた身体に染み渡った瞬間、世界の色が変わった。

 それはただの血ではなかった。濃厚で、それでいて淀みがなく、全身の細胞の一つ一つに力が漲っていくのを感じる。視界の赤みが引き、鈍っていた思考が急速にクリアになっていく。

 何よりも、あの地獄のような飢餓感が嘘のように消え去っていた。

(ああ……なんて……)

 満たされる。

 身体だけではない。魂までもが、その僅かな雫によって救われたような錯覚。

 そして、その命の源を与えてくれた存在への、言いようのない強い感情。それは感謝、尊敬、畏怖、そして――美しい、とすら感じた。

 朦朧とした意識の中で、男は少女の顔を見た。

 闇夜に溶け込むような外套の下の、白い肌。月の色をしたその髪と、瞳と。

 その全てが、彼の心臓を鷲掴みにした。救世主、女神……或いは、この飢えを満たしてくれる、唯一無二の存在。

 この瞬間の彼にとって、この少女の存在はただ血を与えてくれた者以上の何か――言葉にはならない、焼きつくような想いの残滓だった。

 だがその想いに名が与えられるよりも先に、この血の与えた抗い難い“甘美”が、彼の全てを支配していた。

 たまらず彼は舌を伸ばす。浅い呼吸が繰り返され、その舌で少女の指を絡め取るようにする。どこか恍惚とした表情の彼を少女は突き放した。

「欲しがりすぎ。弁えて」

 その瞬間、見えない力が彼を突き放した。

「ぎっ……!」

 後方へと弾かれるように仰け反り、崩折れる。

 足元に突っ伏すようになった彼の姿を、少女はただ冷ややかに見つめていた。

「……情けない吸血鬼も居たものね」

 男の意識は泥のように沈んでいく。

 それは衝撃から来たものではなく、急速な眠気だった。飢餓が癒えた身体は、一気に弛緩する。瞼が重い。

 最後に覚えているのは、自分を見下ろす少女の、あの底の見えない瞳の色。そして、全身を駆け巡った、あの血の抗い難い甘さ。

 名前も知らない。顔も、はっきりと覚えていない。

 ただ、自分を奈落の底から救い上げてくれた、圧倒的な力を持つ存在。その存在によって心に刻みつけられた、熱く、甘く、切ない、朧気な想い――それだけが、意識の淵に残り続けた。

 男は、闇の中で眠りに落ちた。目の前に、少女がまだ立っているのかどうか――彼は知る由もなかった。




「何が言いたい?」

 誰も居ない夜の中。それは独り言のようであったが、確かに誰かに語りかけるような口調で。

「……施しなんかじゃない。ただ、死を与えなかっただけ」

 そう言った少女の表情は、どこまでも冷静そのものだった。

「優しい? それはお前の思い違いよ」

 隣に揺れる蒼い光が、ほんの少し輝きを増した。まるで、彼女の言葉に応えるように。

 ただ、少女は何故自分でもあのようにしたか――分かってはいなかった。

 気まぐれだろう。ただ、それだけの。

 そう、放っておいたなら後は死を迎えるだけの哀れな命。ヴァンパイアだろうが、なんだろうが。

 飢え死にせずとも、このまま朝が来たなら、日の光に焼かれ絶命するだろう。

 ただ考えた。あそこまで飢えた個体を見たことはなかった。どいつもこいつも優雅ぶった青白い顔をしているものだと思っていた。

 一日二日でああなるのは考えにくく、本来ならあそこまで飢える前に獲物にありつくのが先だろう。

 そうなると、彼は……狩りすらままならない落ちこぼれか、それとも吸血行為に抵抗があるのか。

 だが血を与えた瞬間のことを思い出せば、後者もあり得ない。そうなれば本当に――

「……いや、まだ分からない」

 それだけ言い、ただ夜の道を歩いていた。蒼い光は、ふらふらと彼女の隣で揺れる。

 まるでその迷いを示すように。

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