第四章 第1話 虚無の種子 ――問わぬ世界に芽吹くもの
――光が消えて、百日が過ぎた。
理が土に還ったあの日から、
世界は静かに、しかし確実に変わっていった。
人々はもはや“理”を口にしない。
祈りも誓いも、名も――曖昧なまま。
季節は巡り、雨が降り、子どもが生まれる。
だが、誰も“なぜ”と問わない。
アリュスはひとり、丘の上にいた。
風が吹くたび、遠くの街の音がかすかに届く。
それは笑い声でもなく、悲鳴でもなく、
ただ「無音に近い生活のざわめき」だった。
彼は胸に手を当てる。
そこにあった“再定義の杖”はもうない。
けれど、その鼓動だけは、まだ胸の奥で続いていた。
「……世界は、ちゃんと息をしてる。
理がなくても、生きていける。」
そう呟きながらも、どこかに小さな棘が残っていた。
問いを持つことのない世界は、穏やかで、
同時に――どこか、寂しかった。
リアナは彼の隣に座り、空を見上げた。
「やっぱり、理を手放して正しかったの?」
アリュスは少し笑った。
「正しいかどうかを決める“理”が、もうないからね。
でも、静かすぎるのは……ちょっと怖い。」
「沈黙が増えると、世界は眠る。
それを師匠も恐れてた。」
そのとき、地の底から、かすかな振動が伝わった。
風が一瞬止まり、空の色が鈍く変わる。
リアナが立ち上がる。
「……いまの、感じた?」
「うん。
大地が――“脈打ってる”。」
丘のふもと、土がわずかに盛り上がっていた。
アリュスが近づくと、そこに一本の小さな芽が生えていた。
淡い灰の茎。先端には、黒に近い花弁のようなもの。
「花……?」
だが、その花は揺れもせず、風を拒むように閉じている。
リアナが息を呑む。
「違う。これは――“理の種”。
でも、芽吹くのが早すぎる。
アザゼルが還した理は、百年は眠るはずだった。」
花弁が震え、低い囁きが響く。
《――問ウナ。眠ラセヨ。》
アリュスの背筋に冷たいものが走る。
「……いま、声が――」
《問ウ者ハ、再ビ滅ビノ理ヲ呼ブ。》
地面がひび割れた。
灰の風が吹き荒れ、丘の下にあった村が霞のように揺らぐ。
リアナが叫ぶ。
「アリュス、後ろ!」
影が立ち上がった。
人の形をしているが、輪郭がぼやけている。
顔も、声も、心もない。
ただ、そこに「存在の残り香」だけがあった。
「……“虚無の種子”」
リアナの声が震える。
「理を失った世界で、“問い”を拒んで生まれた存在。
“無の理”そのものよ……!」
影が一歩、近づいた。
《――問イガ、余計ナ痛ミヲ生ム。
オマエガ解キ放ッタ理ハ、再ビ“恐レ”ヲ撒イタ。》
アリュスは唇を噛む。
「……やっぱり。
理を消した世界でも、“恐れ”は生まれるんだ。」
「恐れがある限り、問いも生まれる。
そして問いが生まれれば、理はまた形になる。
……終わりなんてなかったのね。」
影が、腕のようなものを伸ばした。
《――理ハ循環スル。
問ウ限リ、世界ハ滅ビ、
問ワヌ限リ、世界ハ眠ル。
選ベ。再生者。》
風が荒れる。
アリュスの髪が舞い、空に灰色の火花が散った。
その中心で、彼はまっすぐ影を見据える。
「……どちらも選ばない。
理を壊すでも、眠らせるでもなく――
“人の中で揺らぎ続ける理”にする!」
地面を蹴る。
胸の鼓動が杖の残滓を呼び起こす。
掌から淡い光が生まれ、それが風の形を取った。
「再生の理――“恐れは滅びの証ではなく、始まりの灯だ”!」
光が弾け、影の体が割れる。
《――始マリ……? 終ワリ……?》
「同じだよ!」アリュスが叫ぶ。
「終わりと始まりは、循環するんだ!
理は閉じるためじゃなく、“繰り返すため”にある!」
影が崩れ、灰の花弁が風に散った。
丘の上には、ひとつだけ残った黒い種が転がっている。
リアナが拾い上げた。
「……これが、“虚無の種子”の核?」
アリュスは頷いた。
「この中に、“問わぬ世界”の答えがある。」
空が晴れる。
風が音を取り戻す。
けれど、地の底ではまだ微かに脈が続いていた。
リアナがぽつりと呟く。
「アザゼルの時代には、“問いが世界を変えた”。
でも今は、“問いが世界を守る”時代なのかもね。」
アリュスは小さく笑った。
「なら、僕たちは問いつづけよう。
たとえ、世界がまた沈黙しても。」
丘を渡る風が、どこか懐かしい旋律を運んでいく。
それはまるで、かつての再定義者の声のようだった。
――〈理は終わらない。問いがある限り、世界は続く〉
(つづく)
次回・第四章 第2話「灰の空と無の祈り」




