第三章 第2話 理なき地の旅立ち
――風が逆巻いていた。
砂のような灰が舞い、空は鈍色のまま動かない。
その中を、アリュスとリアナは歩いていた。
世界はかつての理を失い、ただ「生きるための言葉」だけが残っていた。
だが、その言葉さえ今は崩れつつある。
人々は“理”を語ることを恐れ、沈黙こそが正義だと信じはじめていた。
丘を越えた先に、黒い谷が見えた。
谷底では、灰色の衣をまとった人々が集まっている。
焚き火も灯さず、声も上げず、ただ地面に印を刻んでいた。
リアナが眉をひそめる。
「……“空語の民”。理を拒んだ者たちだ」
「理を拒む?」
「彼らは言葉そのものが災いを生むと信じている。
“言葉は世界を上書きする毒”――それが彼らの教えだ」
「……でも、それじゃ何も伝えられないじゃないか」
「そう。だからこそ、彼らは“伝えないことで救われる”と信じる」
二人が谷に近づくと、民の一人が顔を上げた。
頬は痩せこけ、目は深い闇のようだった。
「旅人……名を、語るな」
「なぜだ?」
「名は呪い。名づければ、存在が固定される。
理が戻れば、再び滅びる」
アリュスは言葉を失った。
世界がここまで“理”を恐れるようになっている。
それは、かつてアザゼルが恐怖を再定義した時の“反動”のようにも思えた。
リアナが静かに言った。
「理を失った世界は、言葉の重さを見失う。
だから、恐れを忘れた分だけ、沈黙が広がるの」
夜。
焚き火を囲むこともできず、二人は谷の上で休んでいた。
アリュスがぽつりとつぶやく。
「言葉って……そんなに危ないのかな」
「危ういさ。理は言葉でできている。
定義するたびに、世界は変わる。
だが――」
リアナは星の見えぬ空を見上げた。
「それでも私は、言葉を信じる。
師匠が最後に残したのは“問う力”だった。
それは、沈黙よりもずっと人を生かす」
アリュスはうなずいた。
「僕も、あの杖の声を信じたい。
問いを持てって、あれが言ってたから」
翌朝。
谷の底から、奇妙な光が立ち昇っていた。
空語の民が輪になり、祈りとも呪詛ともつかぬ沈黙の儀を行っている。
その中心に、一人の男が立っていた。
「我らは沈黙に還る。理を断ち、言葉を燃やす。
世界を静寂に戻すことで、再び苦しみから解き放たれるのだ」
その手に、一本の“黒い杖”があった。
リアナが目を見開く。
「……“虚無の杖”。アザゼルの杖の、反転体……!」
男が振り下ろした瞬間、地面が波打ち、空が裂けた。
声を出した者たちが次々と倒れ、言葉が“消されていく”。
アリュスの喉が焼けるように痛む。
「な……なんだこれ……!」
「言葉を発すれば、存在が削がれる……沈黙の理だ!」
リアナが立ち上がり、杖を構えた。
「沈黙は恐怖の否定ではない――聴くための余白だ!」
白光が迸り、黒い波動と衝突する。
音が消え、世界が二つに裂ける。
アリュスが叫ぶ。
「再定義――“沈黙は終わりじゃない、始まりを待つ呼吸!”」
その瞬間、黒い杖が軋み、粉々に砕けた。
沈黙の民たちが一斉に息を吸う。
初めて“音”が戻った。
泣き声、笑い声、風の音。
それは、百年ぶりに蘇った“世界の呼吸”だった。
儀式のあと、リアナはアリュスの肩に手を置いた。
「今のお前の言葉……理として響いた。
再定義の力が、お前の中で目覚めている」
「僕が、再定義者に?」
「そうかもしれない。
だが、理を語るということは、同時に“世界を壊す”ことでもある」
アリュスは拳を握る。
「それでも――僕は問いたい。
言葉が滅びる世界を、もう見たくない」
リアナは微笑んだ。
「なら、行こう。
次の地、“鏡の都イルノート”――
理が最初に記された場所へ」
空にかすかに青が差し、灰の風がやんだ。
アリュスは杖を掲げた。
その光は確かに、かつての再定義者の輝きに似ていた。
――沈黙は破られた。
言葉は、再び世界を動かし始める。
(つづく)
次回・第三章 第3話「鏡の都イルノート――再定義者の影」




