第二章 第8話 記憶を食べる森
森の入口で、風が止んだ。
緑の海のように広がる木々が、まるで“何かを飲み込んでいる”ように沈黙している。
ナナが呟く。
「……ここ、音がないですね。鳥の声もしない」
「“記憶樹海アローネ”だ」
私は杖を軽く突く。土が柔らかく沈む。
「この地では、悲しみを森に捧げる。
人々は“忘れること”を平和と呼ぶようになった」
最初に出会った村人は、笑顔のまま言った。
「ようこそ旅人さん。ここは穏やかな国ですよ。
誰も争わず、泣きもしない。過去はすべて森が食べてくれますから」
「森が……食べる?」
リアナが問い返すと、男は誇らしげに頷いた。
「ええ。“記憶樹”がね。
人が悲しみを抱くと、木がその記憶を吸い上げるんです。
そして、夜になると――」
彼は森の方を見た。
木々の間に淡い光が揺れている。
「泣いているように、枝がきしむ。
あれは“記憶を消化している音”なんですよ」
リナが息を呑む。
「……それって、泣いてるのは“森”なんじゃ?」
「泣くのは、思い出を残している証だ。
それを知らぬ者は、もう涙すら出ない」
夜、私たちは村の外れにある“供樹祭”を見た。
人々が一列に並び、木の幹に手を当てている。
ひとり、またひとり。
「夫の死を忘れたい」「罪を消したい」「悲しみを手放したい」
囁くたび、木の根が淡く光り、記憶が吸い取られていく。
ナナが拳を握る。
「こんなの……悲しいです。
だって、忘れたら、その人が生きてた証まで消えちゃう」
「だが人は、耐えられぬ痛みを忘れたがる。
それもまた、理の一端だ」
リアナが顔を上げた。
「でも、この森……もう飽和してます。
記憶を吸いすぎて、自我を持ちはじめてる」
「察しが早いな」
私は森の奥を見た。
夜の闇の中、巨大な木の根が蠢いている。
翌朝。
森の中心へ向かう途中、空気が急に冷たくなった。
霧の向こうから、声がする。
《――どうして忘れないの?》
姿はない。
だが、無数の“他人の声”が混ざり合い、囁いている。
《――忘れれば、痛みはなくなる。
どうして抗うの?》
リュカが剣を抜いた。
「姿が見えねえ……!」
「見えぬのが当然だ。
この声は“記憶そのもの”――森が喋っている」
足元の根が動く。
大地が裂け、巨大な樹が姿を現した。
幹に無数の人影が浮かび、苦悶の表情を見せている。
《――わたしたちを、返して。》
「記憶樹……いや、“記憶そのものの亡霊”か」
私は前へ出た。
「忘れられた悲しみが、再び己を取り戻そうとしている」
リアナが声を震わせる。
「師匠……どうすれば……!」
「再定義する。だが、これは“痛み”を伴う」
ナナが前に出た。
「痛いのは、もう慣れました。
忘れたくないんです。だって、忘れたら優しさもなくなっちゃうから」
私は頷いた。
「よく言った。――ならば、始めよう」
杖の先に光を宿す。
「再定義――“記憶は癒えぬ傷ではなく、生の証”」
森が唸りを上げた。
枝が一斉に揺れ、涙のような樹液が流れ出す。
《――痛い……熱い……でも……思い出せる……》
幹に浮かぶ人影が、次第に薄れていく。
代わりに、花が咲いた。
淡い白の花弁。記憶の欠片が形を変えたもの。
「記憶は消せぬ。
だが、抱え方は選べる。
忘れるのではなく、“別の姿で残す”ことができる」
森が静まる。
風が吹き、光が枝の間を通り抜けた。
人々はその花を見上げ、涙を流した。
誰もが、何かを思い出しているようだった。
「ねえ、師匠」
ナナがそっと言う。
「もし師匠が忘れたいことって、あります?」
「ある。だが、忘れたら私は私でなくなる。
だから、私はその痛みを“燃やす薪”にする」
「じゃあ、私も」ナナが笑う。
「悲しいことがあっても、火にして進みます」
「いい生徒だ」
森を出ると、空が柔らかく光っていた。
背後では、花を咲かせた木々が風に揺れている。
悲しみを抱えたまま、それでも前を向く――
それが、“忘れないこと”の本当の意味だった。
(つづく)
次回・第二章 第9話「終焉の書庫と再定義者の罪」




