第二章 第5話 夢を忘れた王国
――風が止んだ。
それは、まるで世界そのものが呼吸をやめたかのようだった。
北方にあるその国は「夢無の王国」と呼ばれていた。
長く続く文明の中心地であり、学問も産業も繁栄している。
けれど、そこにはひとつの異変があった。
人が夢を見なくなったのだ。
「……空が、変ですね」
リナが馬車の窓から見上げる。
厚い雲が途切れず、夕暮れも朝も曖昧だった。
空は常に“灰青”で、時間が止まったように見える。
「天候操作陣の副作用だ」
私は静かに言った。
「この国では、天候も季節も理によって制御されている。
“夢”――つまり、制御不能な想像をすべて排除した結果だ」
ナナが頬を膨らませた。
「そんなのつまんないじゃないですか!
だって夢って、未来を作るものでしょう?」
「その未来が暴走すると恐れたのだろう。
理は安定を好む。だが安定の果てに、命は眠る」
夢無の都は、完璧だった。
道は真っすぐ、建物は均等に並び、人々は同じ服を着ている。
露店の果物も同じ形、同じ色。
美しいが――美しすぎる。
リアナが呟く。
「整いすぎた街は、棺のようですね……」
「よく見ろ」
私は中央の塔を指差した。
「“観想塔”。あれが国を支配する理の核だ」
塔の頂には巨大な水晶球があり、常に淡く光っている。
それが国民の思考を“均一化”する装置――“夢除けの器”。
夜になると、夢を制御し、脳から不確定な映像を削ぎ落とす。
塔の下、静かな広場で一人の少年が倒れていた。
顔は青白く、目を閉じたまま震えている。
私は近づき、魔力の流れを探る。
「……夢を“見ようとして”拒絶されたな」
「夢を見ようとしただけで、倒れるんですか?」
ナナが声を上げる。
「この国の理は、夢を“異常信号”として排除する。
心が夢を描けば、脳が自らを切断するんだ」
リアナが震える声で言った。
「そんな……それじゃ、想うことさえ罪じゃないですか……」
「そうだ。恐怖と同じく、今度は“希望”が否定された」
夜。
私たちは塔に潜入した。
螺旋階段を登るたび、壁の光が脈動している。
階層ごとに人々が眠っていた――まるで展示品のように。
呼吸は浅く、夢の痕跡は完全に消えている。
最上階に辿り着くと、王が待っていた。
若い女王――「夢無の女王・シオン」。
白いドレスを纏い、まるで彫像のように立っている。
「再定義者。ようこそ、夢無へ」
声は穏やかで、どこか“眠り”のように緩やかだった。
「あなたの名は知っています。
恐怖を受け入れた方。けれど、夢は違います。
夢は、恐怖よりも危険。人を狂わせる幻想です」
「幻想は罪ではない。
夢は未来への問いだ」
「問いは混乱を生む。私は、国を静かに保ちたいだけ」
彼女は水晶球に手をかざした。
光が走り、塔の壁が震える。
「夢は毒。見なければ平穏が続くのです」
リナが前に出た。
「陛下、私たちがここに来る途中で、
夢を見ようとした少年が倒れました!
その子は、ただ空を飛ぶ夢を見たかっただけです!」
シオンの瞳が微かに揺れた。
「空を飛ぶ……夢?」
「ええ。
怖がりながらも、羽ばたこうとしてたんです。
――それって、悪いことですか?」
女王は唇を噛んだ。
ほんの一瞬だけ、抑えていた感情が表に出た。
だがすぐに、それは消えた。
「私も、昔は夢を見た。
けれど、夢は叶わなかった。
だから、もう二度と――誰にも夢を見せたくない」
「……それが“恐怖”だ、シオン」
私は静かに言った。
「夢を失う恐怖に怯え、夢そのものを封じた。
お前もまた、恐怖に支配されている」
塔の光が激しく揺らめいた。
水晶球が割れ、夢の残滓が溢れ出す。
空が歪み、色とりどりの“幻”が空間を満たした。
笑う子ども、泣く母、飛ぶ鳥、燃える太陽――
国民の眠りの底に押し込められた“夢”が、一斉に覚醒していく。
女王が膝をつき、頭を抱えた。
「だめ……! こんなに多くの想いが……!」
「それが人だ」私は言った。
「夢は恐怖と同じ、“不安定な理”だ。
だが不安定だからこそ、命は前へ進む」
リアナが手を伸ばし、女王の肩に触れた。
「夢を見るのは怖いけど、誰かが見てる夢に救われることもある。
だから、消さないでください」
女王の瞳に、涙が滲んだ。
「……夢って、まだ……見ていいの?」
「見ろ。
理があるからこそ、夢が意味を持つ。
夢があるからこそ、理は生きる」
夜明け。
夢無の空に、初めて“朝焼け”が戻った。
淡い赤が雲を照らし、人々が目を覚ます。
誰もが泣き笑いしながら、同じ空を見上げていた。
シオン女王は王座に立ち、宣言した。
「夢を封じる理を廃止します。
夢は罪ではない。――夢は、生きる力です」
民の歓声が響く。
誰かが空を見上げ、こう言った。
「今日の空、少し違って見える」
その夜、私たちは野営地で火を囲んだ。
ナナが微笑む。
「夢も恐怖も、どっちも“心が動く”ってことなんですね」
「そうだ。理は心を縛る鎖ではない。
恐怖も夢も、理の翼になる」
リュカが空を見て呟く。
「……師匠、あの雲、竜みたいに見えます」
「そうだな。なら、お前の夢の中で飛ばしてやれ」
空は遠く、風は柔らかい。
――理と夢が、同じ空に混じる夜だった。
(つづく)




