第二章 第3話 恐怖を忘れた王女
谷を抜けて三日後、私たちは南の丘陵地帯に入った。
風は穏やかで、空はよく晴れている。
だが、行き交う旅人の顔には不思議な影があった。
笑わず、怒らず、泣かない。
まるで感情の色が抜け落ちている。
リナが馬車の窓から覗く。
「……変ですね。みんな、穏やかすぎる」
「穏やかというより、“静かに整いすぎている”な」
私は呟く。
「ここが“アルメラ”か。噂の通りだ」
アルメラ王国――
恐怖も悲しみもない国、として知られていた。
治安は良く、飢えも争いもない。
病人さえほとんどいない。
それでも、どこか生の匂いがしない国だった。
街に入ると、子どもたちは声を立てずに遊び、
商人たちは無表情のまま取引をしていた。
笑い声がない世界は、奇妙なほど整っている。
リアナがそっと言った。
「……ここ、本当に幸せなんでしょうか」
「“痛みを知らぬ幸福”は、幸福と呼べるかどうかだな」
王都の門で名を告げると、すぐに通された。
「再定義者アザゼル。陛下があなたをお待ちです」
兵士の声も平坦で、まるで詩を読むようだった。
白い大理石の宮殿。
中央の階段に、少女が立っていた。
歳は十五、髪は銀糸のように輝き、瞳は淡い金。
その表情は、喜びとも冷たさともつかない。
「ようこそ、再定義者。私はアルメラ王女、ルティナ。
あなたの噂を聞きました。“恐怖を理解に変えた方”だとか」
「恐怖を変えたわけではない。恐怖を“隣に置いた”だけだ」
「それができるのは幸せですね。
私は、恐怖そのものを持てないのですから」
その声には、震えが一切なかった。
呼吸の抑揚もなく、完璧に均整の取れた“音”だった。
謁見の後、ルティナは私たちを中庭へ案内した。
そこには色鮮やかな花が咲き乱れ、
噴水の水音が響いていた――しかし、どこか“人工的”だ。
ナナが囁く。
「きれいだけど……全部、同じ高さに咲いてる」
「まるで、“恐怖を抜いた花”だな」
ルティナは微笑む。
「この国では、感情を制御する術があります。
“恐怖抑制の印”――この首飾りが、心を穏やかに保ちます」
彼女の首元で、小さな水晶が光っていた。
「この印を持つ限り、痛みも怒りも感じません。
恐怖も、失望も、悲しみも。
人は皆、穏やかに生きられるのです」
リナが小さく眉を寄せた。
「それって……心を“削ってる”だけじゃ」
「削るのではなく、整えているのです」
ルティナは淡々と答えた。
「恐怖を知らなければ、争いは起きません。
国民は皆、幸福です。――少なくとも、そう定義しています」
その夜、私は王城の客間で書をめくっていた。
古い記録には、こう記されている。
> 《アルメラの王血は、千年前の“沈黙の神殿”より生まれた。
> 恐怖を拒む加護を受け、声なき理を継ぐ。》
「沈黙の神殿……?」
前章で訪れたセレンの谷の名が、脳裏をよぎった。
彼らが棄てた“声の理”の断片が、この国に形を変えて残ったのだ。
だが、問題はそれだけではなかった。
王城の地下に、不自然な魔力の流れがある。
静かすぎる――まるで、何かが“止められている”。
夜半。
私は単身、城の地下へ向かった。
杖の光を頼りに階段を下りると、空気が冷たくなる。
壁には幾重もの封印紋。
その中心に、巨大な黒い鏡が立っていた。
鏡の前に、ルティナがいた。
寝衣のまま、無表情に鏡を見つめている。
「眠れぬのか」
「……はい。眠る必要が、あまりないので」
「恐怖を持たぬ者の夜は、長い」
彼女はゆっくりと振り向いた。
「この鏡の中に、“私の恐怖”が封じられているそうです。
先祖の代から、王族の恐怖は受け継がない決まり。
代わりに、この鏡が引き受ける」
「なるほど。恐怖を器に封じたか。
だが、それは“死なない傷”だ」
私は杖をかざす。
鏡の表面に波紋が走る。
そこには――“泣いている少女”の姿があった。
金の瞳、銀の髪。ルティナと同じ顔。
「――私?」
ルティナの声が初めて震えた。
鏡の中の少女が、唇を動かした。
《たすけて》
その一言で、空気が割れた。
魔法陣が光を放ち、鏡が砕ける。
封印されていた恐怖が、形を取り戻した。
それは黒い霧となり、王女の体に流れ込む。
「――あぁっ!」
ルティナが膝をつく。
彼女の表情に、初めて“痛み”が宿った。
恐怖の色、涙の味。
彼女は震える声で言った。
「これが……こわい、ということ……?」
「そうだ。恐怖は、生きている証だ」
私は手を差し出した。
「それを受け入れろ。
恐怖を知ってこそ、理解は形になる」
ルティナはゆっくりと顔を上げ、涙を零した。
「……こわいです。でも、これが“生きている”なら――嬉しい」
翌朝、アルメラの街に、
子どもたちの笑い声が戻った。
泣き声も、喧嘩の声も混じっていたが、
それは確かに“生命の音”だった。
王女は王座に立ち、静かに宣言した。
「今日より、恐怖抑制の印を廃止します。
恐怖は罪ではなく、心の形です。
この国はもう、痛みを恐れません」
人々は最初、戸惑った。
だが、幼い少女の涙を見て、誰かが小さく拍手をした。
そしてそれが、次第に広がっていった。
城を出ると、弟子たちが並んでいた。
ナナがにっこり笑う。
「師匠、今回の授業も成功ですね」
「成功ではない。――ただ、“恐怖”を返しただけだ」
リアナが微笑んだ。
「でも、それが理解の第一歩ですよね」
「そうだ。理解とは、恐怖と並んで歩くことだ」
私は空を見上げた。
雲間から陽が射す。
その光の下、ルティナが民の中に立ち、
笑っていた――涙の跡を残したままの笑顔で。
それを見届けて、私は旅の杖を再び握った。
(つづく)




