第1話 封印、開く。
黒曜の棺が、地下の湿気を押しのけるように軋んだ。
封印術式の光は千年を経てなお残っていたが、その結び目が一つ、また一つとほどけていく。
――目覚めよ、アザゼル。
遠い昔の呼び名に応じて、私はゆっくりと瞼を開いた。崩れた天井。ひび割れた祭壇。淀んだ風――のはずが、鼻腔に入った匂いは見知らぬ甘さを含んでいる。果実でも香だかい樹脂でもない。人工の、軽い甘さ。
「……毒か?」
棺から身を起こし、ふらつく足で地上へ続く階段を上る。石段を抜けた先、夜。星は昔よりも少ない。代わりに、地上には無数の灯りが満ちていた。
塔というより箱を積んだような建物群。光は窓から、道から、奇妙な標識からあふれている。人々は軽装で、掌に光る薄板を携えていた。薄板はときおり鳴き、喋り、持ち主の指先になぞられて世界を動かす。
足元で、銀の筒が転がった。拾い上げ、封をひねると、内側から泡立つ音とともに冷気が指にまとわりつく。一口含んだ瞬間、舌が弾け、思わず目を細めた。
「……新しい毒だな。愉快な毒だ」
私は銀筒――缶ジュースとやら――を飲み干し、視線を上げる。目の前に、白と緑の光を掲げた小さな神殿があった。戸口は明るく開き、人が出たり入ったりしている。戸口の横には奇妙な紙札の束、色とりどりの飴や、パン、見慣れぬ器に満たされた液体――。
扉の上に掲げられた看板には、こう書かれていた。
《コンビニエンス・ストア》
言葉の意味は分かる。便利。小さな市場。だが、戸口に立った瞬間、別の意味でも理解する。
――これは祭祀だ。
壁際にずらりと並んだ箱は冷気を吐き、瓶や食物を霜で包む。温熱の箱には肉が回り、香りが漂う。カウンターには女神官の装束に似た衣――いや、制服をまとった若者が立ち、来訪者の持ち物を一つずつ“祝詞”で浄める。
祝詞は短い。透明な板を翳し、赤い光が走り、低い音とともに祓いが済む。
「いらっしゃいませー。……え、えっと、コスプレ……ですか?」
若者――短い金髪の少女が私のローブと黒曜の首飾りに目を丸くする。
私は祭壇の前に進み、銀の筒をもう一本取り、さらに三角の包みに入った“おにぎり”とやらを手に取って、置いた。
「我は旅の者だ。祓いを頼む」
「祓い……バーコードスキャン、ってことですかね。……あの、袋、温めますか?」
「温めろ」
「はい。あ、すみません、その杖、加熱機の中に入れないでください。火花出そうなので」
少女は“祝詞板”(スキャナ)を鳴らし、数字を唱え、箱でおにぎりを温め、紙の小片を差し出した。紙には数字と“ポイント”と呼ばれる加護の値が記されている。彼女は微笑み、祓いの最後に小さく囁いた。
「今日も良い加護がありますように。――あ、これ、今キャンペーン中で、ポーション二本買うと三本目が半額なので……」
「ポーション?」
彼女が示した冷気の箱を覗き込むと、小瓶に入った青い液体が並んでいた。《回復》と書かれている。私は一本を取り、封を切る。舌に触れた瞬間、つい噴き出した。
「薄い。これは水だ。神官見習いの祝福より薄い」
「え、ええと……それ、炭酸水に色つけただけのやつなので……ガチのポーションは、向かいのドラッグストアの調剤コーナーでないと……」
「調剤……コーナー……。神殿が増えたのか。この世界は進歩したな」
少女は困ったように笑い、指で空をなぞる。
薄板――スマホ――の画面をこちらに向けると、そこには派手な文字と踊る符号があった。
《冒険者アプリ/本日のクエスト》《怪異発生・駅南口広場/危険度D/討伐報酬:5000クレジット》《配信者特別ボーナスあり》
私は目を細めた。怪異、討伐、報酬。見慣れた語だが、並びが異質だ。
「お前たちは、怪異の依頼を……その薄板で受けるのか」
「え? 今どきみんなそうですよ。ギルド窓口より時短だし、配信連動でバズるとスポンサーつくんで。あの……お兄さん、配信者ですか?」
「……悪魔だ」
「キャラ作り徹底してる……!」
少女の目がきらりと輝く。
彼女はカウンターの脇に置かれた紙札を一枚取り、私に渡した。片面には店の印、もう片面には小さな四角い呪具――黒白の編み目の符(QRコード)が描かれている。
「うちの店、駅南口の怪異、協賛してるんで。これ、スポンサー割。アプリ入れて読み込むと参加でき……」
「アプリは持たぬ」
「じゃあ……これ、紙で。読み込みは私がやります。お兄さんの名前、教えてください」
名は、呪である。古代より、名を告げることは己の半身を渡すに等しかった。私は一瞬だけ逡巡し、千年前の戦場で誰も呼べなかった名を、久しく動かしてみる。
「アザゼル」
少女が薄板の画面に文字を打ち込む。彼女の指は軽やかで、術者が祝詞を紡ぐときのそれに近い。
だが、次の瞬間、画面が震え、赤い文字が現れた。
《その名前は使用できません》
少女が小さく首を傾げる。「有名配信者にいますね、アザゼルさん。商標……いや、ユーザー名かぶりで弾かれたみたいです。どうします?」
「……では、アザ」
《その名前は使用できません》
「――ゼ」
《その名前は使用できません》
私は笑ってしまった。千年の時を越えて、私の名は誰かに先に取られている。力ずくで奪うのは簡単だ。だが、目の前の少女は真剣に画面と向き合い、私のために別の名を考えている。
「じゃあ、“旧式魔法おじさん”で」
「やめろ」
「すみません。じゃあ、“旧世代の人”。略して“旧人類”。あ、だめだな……。――“旧魔王”」
「もうそれでよい」
私は溜息を混ぜながら、紙札を受け取る。
コンビニの自動扉が開いた瞬間、冷たい夜気の底に、別の匂いが混ざった。鉄の焦げた匂い。古い呪具のきしみ。私は無意識に身をひるがえし、空を見上げる。
駅の南口――光が集まる広場の天蓋に、目に見えない亀裂が走った。
風が後ろ向きに吹き、影の角度が逆転する。空気が一段沈み込むその感覚を、私はよく知っていた。
「裂け目が開く」
「え?」
少女が顔を上げるより早く、広場の上空で光が捻れ、薄い布を裂くような音がした。
ぬめる影が垂れ、零れ、地面に着く前に人々の悲鳴があがる。薄板のレンズが無数にこちらを向いた。
《生配信開始》《#駅南口の穴》《#怪異Dランク》
私は杖を抜いた。
黒曜の先端に宿した星の欠片は、千年前から一度も濁っていない。指先で軽く撫で、古語の詠唱を口の奥で転がす。
だが、術が喉を下りた瞬間、世界が微かに拒む。
――名が、ない。
私の深層に刻まれた“真名”の一部が、どこかで欠けているのだ。封印の代償か、あるいはこの時代の“神々のアルゴリズム”とやらに剥ぎ取られたのか。
術は起動する。だが、溶接の火花のように弱い。千年前なら一息で焼き払えた程度の影が、舌打ちするほど残る。
「ちょ、ちょっと! お兄さん危ない!」
制服の少女がカウンターを飛び越え、私の袖を引く。彼女の手は震えていたが、目は私の背後、広場に向いている。
影は一体。竜でも天使でもない。名もしれぬ小型の餓鬼。だが裂け目は続いている。二体、三体――。
彼女の手に、紙札の束が握られている。
割引券、レシート、抽選券。端には黒白の符が印刷され、中央には店の印がある。いずれも、簡略化された現代の“招霊・退散”の符――コード。
「それを」
「え?」
「貸せ」
私は彼女から紙札を掴み取り、地面に散らす。四角い符が夜気を吸い、ざわり、と微かに震える。
古代の陣は円だった。だが今や、世界の“言語”が変わっている。
私は加熱機の前で見た簡略化を思い出し、紙札を四方に置き、彼女の薄板の光を中央に立てた。
「お願い、ペイッ……ペイで払います?」
「支払いではない。祓いだ」
私は息を吸い、古語と現代語の間に橋をかける。
短い祝詞。コードの読み上げ。紙札の番号。店の印。少女の名前。――名は呪だ。ならば現代の名もまた、呪である。
「此処は市の社、市は印。印は結び、結びは鍵。旧き名は欠けても、新しき名は在る――」
光が、立った。
紙札の四隅から薄い帯が伸び、薄板の画面に結び付く。画面に映る“#”の文字が、古語の“鎚”—―打ちつける音――に変わり、影の首を叩く。
餓鬼が一体、霧になった。
二体目が躊躇い、三体目が裂け目の縁に引っかかって身をよじる。私は足を踏み出し、杖で地面を軽く突いた。
「退け」
音だけで、影が逆流した。裂け目は薄くなり、ひびのように空へ消える。
広場に残ったのは、涼しい風と、無数の薄板が発する歓声だった。
《神回》《今の何?》《QR陣ってマジ?》《旧魔王すげえ》
制服の少女が、大きく息を吐いた。
近づいてきて、私の手をぎゅっと握る。その体温は生々しく、千年前の戦場の血の熱を思い出させた。
「助かりました。……ありがとうございます。えっと、お兄さん、いや、旧魔王さん」
「礼は要らぬ。汝の紙札と薄板が優秀だっただけだ」
「紙……札……。はは。――あの、配信、伸びてますよ。スポンサー、ワンチャン。うちの店もバズるかも。店長、泣いて喜ぶ」
彼女の笑いに、私も口元をほころばせる。
薄板の画面には、私の仮の名《旧魔王》とともに、数字がみるみる増えていく。フォロワー。視聴者。投げ銭。誰かがコメント欄で「旧式魔法、熱い」と書いた。別の誰かは「チートより渋い」と言った。
私は夜空を見上げる。
星は相変わらず少ない。その代わり、街が星になっている。
千年前、神々は名を独占した。名は力で、力は名だった。今、この世界では、名はユーザー名で、力はアルゴリズムで、神殿はコンビニで、神官はバイトで、祝詞はバーコードだ。
――よい。
欠けた真名の縁に、微かな疼きがあった。どこかで、私の名を食ったものが笑っている。いずれ取り返す。取り返す前に、学ぶ。
旧い力は、強い。だが、旧いままでは弱い。ならば――。
「時代遅れと呼ぶなら、書き換えてやろう」
私は少女の薄板を借り、アプリの「ギルド登録」を開く。
職業欄には、いくつも選択肢が並んでいる。剣士、魔導士、僧侶、ハッカー、アーキビスト、アーティファクト管理官、配信者――。
「職業、どうします?」
「悪魔」
「それは……職業、というか……ジャンル?」
「では、再定義者だ。旧き魔法を、現世に再定義する者」
少女は目を丸くし、すぐに笑った。
「かっこいい。じゃあ、それで申請しときます。――あ、駅南口の件、報酬、うちのアカウント経由で入るんで、店長に分け前、くださいね?」
「半分やろう」
「やった!」
コンビニの自動扉が、再び開いた。
蒸気を吐く肉の香り。薄い毒の甘さ。祓いの音。世界は、千年前より雑然としていて、千年前より優しかった。
黒曜の杖を肩に、私は夜の街へ踏み出す。
――最強のはずが、時代に置いてかれた。
だからこそ、面白い。
(つづく)




