余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした
「花嫁に看取られる権利を売ってカネにしようというわけだな」
目の前で契約書にサインを終えたばかりの父の言葉に、私ーーフィリーは思わず眉をひそめた。
まあ、事実その通りなのだけれど、もう少し言い方というものがあるのではないだろうか。まるでこれから私にやらせようとしていることが、悪魔に魂を売るような行為だと証明しているかのようだ。
話の当事者はミリオ辺境伯。
若くして財を成した大富豪として社交界でも有名人だった。貿易業で巨万の富を築き、その功績で爵位を得た傑物。きらびやかな噂には事欠かないけれど、彼にはたった一つ、致命的な問題があった。
原因不明の病に侵され、余命いくばくもないと宣告されてしまったのだ。
あれほどの財産を築きながら、彼には身寄りが一人もいなかった。
天涯孤独の身で、広すぎる屋敷で一人静かに死んでいくのはあまりに寂しい。そう考えた彼は、常識外れの募集をかけた。
『私の最期を穏やかに看取ってくれる妻を求む』と。
もちろん、ただ働きではない。彼が亡くなった暁には、その莫大な遺産のほとんどが、妻となった女性に相続されるという破格の条件付きで。
まるで甘美な毒のような話だ。
彼の財産を喉から手が出るほど欲しがっている貴族は多い。けれど、死にゆく男の遺産目当てで娘を嫁がせるなど、貴族としての品位を疑われる行為。外聞が悪すぎる。
そんなわけで、多くの家が唾を飲み込みながらも静観を決め込む中、ただ一軒、勢いよく手を挙げたお馬鹿な……もとい、勇気あるお家があった。
そう、我が家である。
私の実家は近年になってようやく貴族の仲間入りを果たしたばかりの新興貴族だ。商才が認められてのことだったけれど、好事魔多しとはよく言ったもの。新たに始めた事業がものの見事に傾き、今や家計は火の車。馬車どころか馬も売ってしまったので、我が家の移動手段はもっぱら徒歩である。
伝統も格式もない、失うものなど何もない我が家だからこそ、このあまりにも不謹慎な話に飛びつくことができた、というわけだ。
目の前のテーブルに置かれた契約書には、こう記されている。
『ミリオ辺境伯の最期を、妻として穏やかに看取ること。その対価として、死後、辺境伯の遺産を相続する権利を有する』
内容はひどく単純明快。
けれど、私の心は少しも晴れなかった。
傾きかけた家を守れるという使命感と、人の死を利用して富を得ようとしている罪悪感。二つの感情が胸の中で渦を巻いて、今にも吐き出してしまいそうだった。
そんな私の葛藤など露知らず、父は私を値踏みするように見ながら言った。
「まぁ、お前も奇行にさえ走らなければ、見た目だけは良いからすぐに返されることもないだろう」
なんて失礼な言い草だろうか!
まるで私が普段から奇行に走っているとでも言いたげなその口ぶり。心外だ。
父は昔からそうだ。いつも私の完璧な論理に基づいた行動を、奇行だと言わんばかりに溜息混じりに見つめてくる。その評価には全く納得がいかない。私のこれまでの人生、いつだって目標に向かって最短距離を駆け抜けてきたつもりなのだ。
例えば、そう。あれは私がまだ幼かった頃のこと。
◇
なぜそうなったのか、子供らしい些細な理由だったはずだが、私はとあるパーティーで侯爵令息のスポールと取っ組み合いの喧嘩になったことがある。今思えば、我が家とは比べ物にならないほど格上のご長男によくもまあ喧嘩を売ったものだと自分でも感心する。
結果は私の惨敗。地面に投げ飛ばされ、得意げな顔で私を見下ろす彼を、私は涙目で睨みつけた。あの屈辱は、私の人生の汚点の一つだ。
悔し涙をこらえながら、私は敗因を分析した。
体を掴まれたせいで、投げられて負けてしまったのだ。
ならば、体を掴まれないほどに肌をつるつるのぬるぬるにすれば良いのだ!
我ながら完璧な作戦だ。
絶対そうしてやる、今決めた!
屋敷に帰るや否や、私は侍女頭を捕まえて詰め寄った。
「どうすれば、体がすべすべになりますか!?」
鬼気迫る私の様子に一瞬目を丸くした侍女頭だったが、すぐに何かを察したのか、微笑ましそうな、それでいて慈愛に満ちた目で私を見つめると、肌をとにかく滑らせるための秘訣をそれはもう丁寧に伝授してくれたのだった。
私の突然の肌磨きへの熱意に、父は少しにやにやしながら尋ねてきた。
「なんだフィリー、スポール君が気になるのか。お年頃だなぁ、恋する乙女は綺麗になるというからな」
恋する乙女がなぜ出てくるのかは分からなかったが、私は父の言葉に頷いた。
「はい、確かにやつを許しません!二度と負けないよう、研鑽を積んでいるのです!」
「……ん?負けない?」
「はい!肌を滑らせ、二度と投げられないようにするのです!」
そういうと、父は一瞬きょとんとした後、不思議そうな顔をした。「え、投げられ……?肌?え?」と混乱していたが、その時の私に父の声は聞こえていなかった。
それから数年後。私は再びスポールと顔を合わせる機会を得た。
彼は私を見るなり驚いたような顔をし、見る見るうちに顔を赤くしてうつむいてしまった。
隣に控えていた侍女頭が、私の耳元で「数年間の肌磨きの成果、抜群です、お嬢様!」と興奮気味に囁いた。
ふふん、私の変わりように、今度は負けるかもしれないと恐れをなしたに違いない。
「前回の恨み、今こそ晴らさせてもらう!」
私はそう叫ぶなり、彼に掴みかかった。彼はひどく困惑した様子だったが、勢いに押されるまま、はずみで私の腕を掴んだ。
しかし、彼の手が私の腕に触れた瞬間、まるで雷に打たれたかのようにその動きを止めた。きっと、私の腕を掴んだ瞬間に、そのあまりのすべすべさにつるりと滑ってしまい、これでは投げられないと悟ったのだろう。彼はなすすべもなく立ち尽くし、私はその隙をついて彼を押し倒し、見事勝利を収めたのだった。
物陰から、侍女頭の「きゃぁ!お嬢様、大胆です!」という興奮した声が聞こえる。
その通りだ。私はいつだって大胆に勝利を収めるのだ。
そして次の日から、なぜかスポールが何かと私の世話を焼いてくるようになった。
夜会で飲み物を取ってきてくれたり、庭園で会えば「偶然ですね」と頬を赤らめながら話しかけてきたり。きっと、私に敗北して舎弟になりたがっているに違いない。
私は「鍛え直してから出直してきなさい」と全力で見下し続けた。
父にそのことを得意げに話すと、「政略的にも申し分なかったのだが……娘がこれではかえって失礼か……」と、残念そうな、いや、残念なものを見るような顔をされた。娘をこれ呼ばわりとは、失礼な父である。
父のあの残念そうな顔には、どうにも納得がいかない。私の行動はいつだって論理的なはずなのに。
そういえば、私が料理の練習をしているときにも同じような顔をされた。特にジャム作りは苦手で、作るたびに鍋の底を真っ黒に焦がしてしまうのだ。
「フィリー、また鍋を炭にしたのか。お前にかかれば鉄の鍋すら炭になるのだな。いっそ炭職人にでもなるか?」
父のからかい半分の言葉に、私はカチンときた。
見ていなさい、絶対に美味しいジャムを作って見返してやる。
絶対そうしてやる、今決めた!
私は敗因を分析した。
焦げるのは、水分が飛んで糖分が鍋にこびりつくからだ。ならば、極限まで保湿しながら超弱火で煮詰めればいいのでは?
我ながら完璧な作戦だ。
私は早速、鍋に大量の蜂蜜と、保湿といえばこれだろうと蜜蝋をたっぷりと投入し、そこに果物を加えてひたすら混ぜ続けるという奇抜な調理法を敢行した。
しかし、完成したのはジャムとは似ても似つかぬ、ほんのり果物の香りがする艶やかな塊だった。どう見ても、柔らかい蝋燭のようなものだ、これ。
また失敗だ……。
私は悔し紛れに、味見のために指でそれをすくい、おそるおそる口に含んだ。唇がべとべとになる。
「おいしくない……」
その時だった。
「まあお嬢様!なんて艶やかで美しい唇でしょう!」
いつの間にか背後にいた侍女頭が、なぜか目を輝かせて褒めてくる。
ちょうどそこへ通りかかったスポールも、私の顔を見るなり、さらに顔を赤くして足早に去っていった。
きっと、ジャム作りに失敗した私を馬鹿にしているんだわ!
私はその後もジャム作りに挑戦し続けたが、なぜか必ずこの柔らかい蝋燭のようなものが出来上がってしまう。もうジャム作りは断念しようと思ったのだが、その度に侍女頭が「お嬢様、そのお姿こそ、お嬢様の魅力を最大限に引き立てますのよ!」などと訳の分からないことを言って、なぜか私にこの美味しくない蝋燭を唇になすりつけながら食べさせ続けるのだった。
そのことを父に愚痴ったところ、
「お前を美しくしようという、亡き妻の怨念すら感じる話だが……これを食べ物と認識するお前にはがっかりだよ」
などと、また残念そうな顔をされる始末。
失礼な!実際にジャムを作ったはずなのだから食べ物で合っている!
相変わらず、父の言うことには納得がいかない。
「そのように、はしたなく色香を使って……スポール様を誑かしたのね!」
ある日、因縁をつけてきた令嬢がいた。彼女は言った。
「唇を強調するようなお化粧までして、はしたない!」
心外だ!
私は彼女に、これはジャム作りの失敗作で、仕方なく食べているだけだと説明した。すると彼女は面食らったように言ってきた。
「では、あなたのその妙にきめ細かいお肌は……」
「これは、憎きスポールに掴みかかられないように改良を重ねた結果で……」
「では、そのきらきらと輝く髪は……」
「これは、防虫剤の失敗作をなぜか侍女が毎日髪につけてきて……」
私が聞かれたことに正直に答えていると、だんだん彼女が残念なものを見るような目になっていく。
「あなたは……その、少々常識から外れた方のようですのに、美の女神には愛されているのね……」
あれ、今なんだか失礼なことを言われなかったかしら?
それに、美の女神ではなく、貧乏神の間違いではないだろうか。
「その……美味しくないジャム、少しだけ分けていただけないかしら?」
彼女は頬を染めながら、おずおずと尋ねてきた。
いらないから全部あげるけど……。
それからも度々ジャムもどきをもらいに来るその令嬢は、「毎回フレーバまで変わるのがなんとも憎いですわね」などと言っていた。
私の行動はいつだって論理的なはずなのに、なぜか周りは不思議な反応をする。父もなんとも言えない、残念なものを見るような顔をしてくる。
今回の一件も、そんな父の訳の分からない偏見から任されたに違いない。
契約を結んだ後、父が私を呼び止めた。
「フィリーよ、くれぐれも頼むぞ。途中で返品などされたら、我が家は終わりだからな」
「返品とは失礼な!私は物ではございません!」
「ふん。脳みそは十歳ぐらいで止まってるところがあるくせに、なぜか見た目だけは綺麗になっていきおって……」
「なんですって!?」
脳みそ十歳とは、あまりにも失礼ではないだろうか!
「まあ、長い結婚生活は無理でも、余命の短い時間であればお前のその……奇行もごまかせるだろう」
奇行など行ったことはないのに!
そんな会話をしながら、今回の件について私は思う。
本来、辺境伯の資産は彼が一代で築き上げたものだ。それを、死を待って我が家がかすめ取るなど、あまりに不正義ではないだろうか。
そんな罪悪感に苛まれていた、その時。私の論理的思考が完璧な解決策をひらめいたのだ。
そうだ、辺境伯には、私が結婚している間に人生の贅という贅を尽くしてもらえばいい!
遺産など一欠片も残らないほどの贅沢をさせて満足して逝ってもらうのだ。そうすれば、我が家が不正に金品を受け取ることもなく、すべて丸く収まるではないか。
我ながら完璧な作戦だ。
絶対そうしてやる、今決めた!
◇ ◇
ミリオ辺境伯の屋敷に到着した私は、早速彼の寝室へと案内された。
天蓋付きの大きなベッドの上で、これから夫となる人が体を起こしていた。あからさまに顔色が悪く、頬もこけている。これは確かに、余命が短いというのも頷ける。痛々しい姿だった。
「ようこそ、フィリー嬢。噂には聞いていたが、確かに見目麗しいお嬢様だね」
彼は穏やかに微笑んでみせたが、その声には力がなかった。少し驚いたような顔をしているのは、私の容姿が予想と違ったからだろうか、それとも、こんな状況に飛び込んできた物好きを珍しがっているのだろうか。
「ご歓迎いただきありがとうございます、ミリオ様。本日より妻となりますフィリーです。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく頼むよ。……短い間かもしれないがね」
彼の諦観の滲む言葉に、私は首を横に振った。
「短い間と決まったわけではありません。私、ミリオ様には一分一秒でも長く生きていただき、贅の限りを尽くしていただくことに決めましたので」
私の言葉に、ミリオ様だけでなく、周りに控えていた使用人たちも目を丸くした。
「……てっきり、僕にはすぐにでも死んでほしいと願っているものだとばかり」
「その認識が、そもそも不健全だとは思いませんか?」
私は言い切った。
「この、遺産相続のために嫁いできたという状況そのものが不健全なのです!妻となったからには、ミリオ様には一分一秒でも長く生きていただき、これでもかと言うほど贅を尽くして、思い残すことなど何もないという心持ちになっていただくのが、私の務めです!」
燃えるような決意を込めてそう語ると、先程まで生気なく横たわっていたミリオ様が、くつくつと喉を鳴らして笑い始めた。
「ははっ、面白い娘が僕の妻になったものだ」
「ええ、面白いだけではありません。これから、あなたの資産をすべて使い切るほどの贅沢をして、『もう贅沢はたくさんだ』と音を上げるまで付き合わせてさしあげます。覚悟してください!」
私の辺境伯夫人としての日々は、こうして始まった。
そして私の計画は、宣言通り、その日の午後から早速実行に移された。
「まずは、一日の大半を過ごす寝台から豪華にしなければなりません!」
私が真っ先に向かったのは、ミリオ様の寝室だった。
ただでさえ最高級に見える天蓋付きのベッドを指さし、私は執事に命じる。
「これではいけません。すぐに国一番の職人を呼びなさい。王族ですら使ったことのないという幻の木材と、天使の羽で織ったと噂の生地で、至高の寝具を誂えるのです!」
私の突拍子もない命令に、執事は目を白黒させている。ミリオ様はといえば、ベッドの上で体を起こしたまま、面白そうに私を見ていた。
「君の分はどうするんだい?」
「私?私はそこの床に藁でも敷いていただければ十分です」
私の答えに、ミリオ様はとうとう声を上げて笑った。
「仮にも妻に藁で寝ろと?それじゃあ僕の寝覚めが悪い。君の分も同じものを用意させよう」
数日後、王族もかくやという豪華絢爛なベッドが二つ、寝室に運び込まれた。
私までこんな贅沢なベッドで寝るのは気が引ける……と思いつつも、ミリオ様に見守られながら恐る恐る腰を下ろしてみる。
「ふわっ!?」
体が雲に包まれたかのような心地よさに、思わず変な声が出た。ミリオ様が肩を揺らして笑っているのが視界の端に入る。――恥ずかしい。
次は食事だ。
私は料理長を呼びつけると、世界地図を広げさせた。
「東の国の香辛料、西の海の珍味、南の島の果実、北の山の恵み!手に入る限りの美味を、毎日食卓に並べなさい!量は食べきれないほどに!」
その日の夕食、テーブルには見たこともないような料理がずらりと並んだ。
ミリオ様がベッドの上で、給仕された料理にゆっくりと手を付けるのを確認し、私は満足して席を立とうとする。
「フィリーは食べないのかい?」
「はい。私はその辺のカエルでも捕まえて食べますので」
またしてもミリオ様は楽しそうに笑った。
「そういうわけにもいかないだろう。君も一緒に食べよう」
そんな!
この作戦に、私の精神的ダメージまでは考慮していなかった!
彼に贅沢をさせるのは良い。しかし、私がその贅沢を享受するのは話が別だ。罪悪感で食事が喉を通らない。
しかし、辺境伯の言葉に逆らうわけにもいかず、私はおずおずとナイフとフォークを手に取った。
一口、肉料理を口に運ぶ。
……おいしい。
とろけるような食感と、口いっぱいに広がる豊かな風味に、思わず頬が緩むのが自分でも分かった。
はっと顔を上げると、ミリオ様が嬉しそうに目を細めて私を見ていた。その視線に気づき、私の顔にカッと熱が集まる。
衣服もすべて新調した。
肌触りの良い絹の、それも極上のものだけを選んで、毎日違うデザインの服をミリオ様に着せる。
山のように積まれた新しい服を前に、ミリオ様が尋ねてきた。
「フィリーも同じものを着ないのかい?」
「いえ、さすがに服は持参したものを着用します。好きなものを着させてください」
さすがに服まで好き放題に買っては、罪悪感で押しつぶされてしまう。
ミリオ様は少しだけ残念そうな顔をしたが、その目の奥が怪しく光った気がした。
ーーそうだ、ついでに薬も用意させよう。
私はこっそりと執事を呼びつけた。
「世界中から、不治の病も治すという薬があるなら、すべて取り寄せなさい。金に糸目はつけません」
「奥様、しかしそのようなものは眉唾かと……」
「構いません。せっかく贅を尽くしているのですから、薬代にも糸目をつけずに景気よく使いましょう。ただし、このことはミリオ様には内密に。彼が知ったら、きっと止めるでしょうから」
執事は心得たとばかりに恭しく頭を下げた。
日に日に減っていく資産目録の数字を眺めながら、私は満足げに鼻息を吐いた。
計画は順調だ。
ベッドの傍らで本を読んでいたミリオ様が、そんな私を見てくすりと笑う。
「君は本当に面白いね。毎日見ていて飽きないよ」
その声は、初めて会った日よりも少しだけ、力強い気がした。
気のせいかもしれないが、彼の顔色も、ほんの少しだけ良くなっているように見える。
ふふん、最高の贅沢は最高の薬でもあるということか。それとも、あの怪しげな薬のどれかが効いたのだろうか。
この調子で、どんどん資産を使い果たしてもらわなければ。
私の贅沢作戦が始まって一月が経った頃、ミリオ様を診るために屋敷にやってきた医師が、信じられないという顔で首を傾げた。
「これは……なんということでしょう。辺境伯様の脈が、明らかに力強くなっている。奇跡としか言いようがありません!」
興奮気味に語る医師の言葉に、隣で聞いていたミリオ様も驚いた顔をしている。
そんな都合の良いことがあるはずがない。
そんなわけはないだろう……そう思って考えを巡らせた私の論理的思考は、一つの結論に達した。その瞬間、まるで稲妻に打たれたような衝撃が私を貫いた。
これは、死ぬ前の最後の輝きに違いない!
白鳥は死ぬ前に最も美しい声で歌うとされている。これも似たようなものなのだ!
いけない、のんびりしている暇はない。残された時間はあとわずかなのかもしれない。私はますます計画に邁進することを心に誓った。
「今日は気分が良いんだ」
そう言って、ミリオ様が車椅子を押されて庭を散歩する時間が増えた。
ならばと、私は庭師を集めて庭園の大改造を命じた。世界中から珍しい花々を取り寄せ、噴水には宝石を散りばめ、小道には金粉を撒かせた。
「やりすぎじゃないかい?」
「いいえ!辺境伯様が最期に見る景色は、天国よりも美しくなければなりません!」
私の言葉に、ミリオ様は呆れたように笑っていた。
長らく療養生活を続けていた彼のために、王都一の楽団を定期的に屋敷に呼び、二人で音楽を聴く時間も作った。美しい旋律に耳を傾けながら、穏やかな時間を過ごす。
そんな生活の中で、彼の楽しそうな様子を見ていると、私まで楽しい気持ちになっていることに気づいた。ミリオ様も、私に穏やかな笑顔を向けてくれることが増えた。
けれど、たまに彼はふっと真剣な、どこか暗い顔をすることがあった。
その表情を見るたびに、私は胸が締め付けられるような気持ちになる。
そうだ、私たちの関係は、ミリオ様の死を前提にしたもの。ここで私が彼に特別な感情を抱いてしまったら、それは彼を裏切ることになるのではないか。彼もきっと、私に情を移してはいけないと、そう考えているに違いない。
お互いに本当に言いたいことには触れられない。そんな、もどかしい空気が私たちの間に漂っていた。
◇ ◇ ◇
そんな、ある日。
私が辺境伯夫人になったという噂を聞きつけたスポールが、屋敷に乗り込んできた。
「フィリー!死にかけの男から君を救い出しに来た!」
庭園でミリオ様と散歩をしていた私たちの前に、息を切らして現れたスポールはそう叫んだ。
なんだこの無礼者は!
私はその失礼な物言いに、冷たい視線を送る。
「舎弟の分際で、辺境伯邸に乗り込んでくるとはいい度胸ですね。それとも、また私に投げ飛ばされたいのですか?」
「ち、違う!僕は君を心配して……!」
言い募ろうとするスポールを、ミリオ様が穏やかに制した。
「スポール侯爵令息。私の妻とは幼馴染だったそうだね」
「ミリオ辺境伯……!こんな人質のような結婚はあんまりだ!」
「人質とは心外だな。妻のことを心配してくれたのだね、ありがとう。だが、これは双方の家で合意の上での結婚なのだよ」
「ですが……!」
「幼馴染が心配なのは分かるが、人の屋敷に押し入るとは少々礼を欠くのではないかね?」
ミリオ様はにこやかにそう言ったが、その目は全く笑っていなかった。
スポールは何か言いたげに口を開きかけたが、ミリオ様の静かな迫力に気圧されたのか、結局何も言えずに執事に連れられて帰っていった。
いつも穏やかな彼にしては、随分と堅い態度だった。
これはもしかして、親しげに会話する私とスポールを見て……。
「嫉妬、してくださったのですか?」
思わず、口からそんな言葉がこぼれていた。
ミリオ様は少し驚いた顔をしたが、すぐに悪戯っぽく笑う。
「さて、どうだろうね」
はぐらかされてしまったけれど、なんだか胸がそわそわするような、温かくなるような感じがした。
私は自分自身に困惑していた。
どうしてこんな気分になるのだろう。
この感情の名前を、私はまだ知らなかった。
私の贅沢作戦が始まってから、数ヶ月が過ぎた。
ミリオ様の屋敷での生活は、驚くほど穏やかに、そしてあっという間に過ぎていく。
そんなある日のこと。
私はふと、ベッドの傍らで本を読んでいるミリオ様の横顔を見て、首を傾げた。
あれ……?
気のせいだろうか。初めて会った頃に比べ、明らかに顔色が良い。血の気が戻っているというか、頬のこけ方もずいぶんとましになっている気がする。
それに、最近では車椅子を使わず、杖一本で庭を散策する時間も増えた。この間など、私が庭園の改造計画について庭師と熱弁を交わしていると、背後から現れて「また面白いことをしているね」と笑いかけてきたのだ。
……おかしい。
私の計画では、今頃はもっとこう、人生の終焉に向けてしめやかな雰囲気に包まれているはずなのに。むしろ日に日に元気になっていないだろうか?
私の中で何かが警鐘を鳴らすが……
まあ、死ぬ前の最後の輝きが少し長引いているだけだろうと、無理やり自分を納得させた。
そんな日々が続いていたある午後、ミリオ様に呼び出された。
「フィリー。近々、王城で恒例の夜会が開かれるのだが、僕の名代として君に出席してもらえないだろうか」
「私が、ですか?」
「ああ。ご存知の通り、僕はまだ医師から長時間の外出を止められていてね。だが、辺境伯家からもできれば誰か出席した方が良い」
なるほど、それはそうだ。
誰が出るかと言えば、妻として私がその役目を果たすのは当然のことだろう。
「承知いたしました。辺境伯家の名に恥じぬよう、努めてまいります」
「ありがとう。頼んだよ」
ミリオ様はそう言うと、満足げに微笑んだ。
そして、侍女に合図を送ると、奥の部屋から大きな箱が運び出されてきた。
「これは?」
「君への贈り物だ。夜会で着ていくといい」
箱が開けられると、中から現れたのは、夜空に星を散りばめたような、深く美しい瑠璃色のドレスだった。繊細な銀糸の刺繍が施され、スカートの裾には宝石が縫い付けられている。私がこれまでミリオ様のために誂えさせたどんな衣服よりも、明らかに高価で、手の込んだ逸品だと一目で分かった。
「こんなに素晴らしいものを……。ですが、私の服は持参したもので十分だと申し上げたはずです」
「もちろん覚えているよ。でも、これは僕からの我儘なんだ」
ミリオ様は、少し悪戯っぽく笑いながら言った。
「僕は医師から大事を取って出席しないように言われているが、本当は君と一緒に行きたかった。それが叶わないのなら、せめて、会場の誰よりも君を最高に輝かせたいんだ。どうか受け取ってほしい」
彼の真摯な眼差しに、私は言葉を失った。
その時、ふと私の頭にある考えがよぎる。私は執事に目配せし、こっそりと最新の資産目録を持ってこさせた。
そこに記された数字を見て、私は息を呑んだ。
底が、見えている。
私の数ヶ月にわたる贅沢作戦と、このドレスの代金が、ついに辺境伯家の資産をほぼ食い尽くしていたのだ。
その事実に気づいた瞬間、私の論理的思考が、完璧な答えを導き出した。
――ああ、そうか。
ミリオ様は、もうご自身の最期が近いことを悟っているのだ。
だから、残されたすべてを使い、人生の最後に、妻である私へ最高の贈り物をしたくなったに違いない。
なぜだろう。
計画が最終段階に至ったというのに、胸が締め付けられるように痛い。目の奥が熱くなって、視界が滲みそうになる。
いけない、ここで泣いてはだめだ。彼の最後の願いを、悲しい顔で受け取るわけにはいかない。
私はぐっと涙をこらえ、精一杯の笑顔を作って彼に向き直った。
「……ミリオ様は、本当にしょうがない人ですね」
そう言ってドレスを受け取ると、彼は心から嬉しそうに微笑んだ。その笑顔が、私の胸に深く突き刺さる。
分かった。分かったわ、ミリオ様。
あなたの最後の我儘、私が最高の形で叶えてみせる。
このドレスで夜会に出席し、あなたの妻がどれほど素晴らしいかを皆に見せつけ、辺境伯家の品位を天高く轟かせてみせるのだ。
絶対そうしてやる、今決めた!
◇ ◇ ◇ ◇
夜会の当日、私は侍女たちの手によって完璧に着飾られ、王城へと向かった。
瑠璃色のドレスは私の肌の色をより白く見せ、銀糸の刺繍は動くたびにきらきらと輝く。ミリオ様の最後の我儘。その想いを胸に、私は背筋を伸ばして会場へと足を踏み入れた。
その瞬間、ざわめきが起こった。
なぜだろう、会場中の視線が突き刺さるように私へと集まっている気がする。まるで見世物にでもなったかのような心地だ。
まあ、それもそうか。
死にかけの辺境伯に嫁いだ貧乏貴族の娘。皆、好奇の目で見ているに違いない。
「フィリー様……!」
声をかけてきたのは、以前私に因縁をつけてきた令嬢だった。彼女はなぜか顔を真っ赤に紅潮させながら、うっとりとした表情で私を見つめている。
「もともと、美の女神に愛されているかのようなご尊顔でしたけれど、本日はそのドレスも相まって、本当に女神が舞い降りたかのようですわ……!」
「……はあ」
世辞にもほどがある。きっと、もうすぐ未亡人になると聞いて、最後の憐れみをかけにきたのだろう。可哀想なものを見るような、そんな目だ。
そんな同情の視線が飛び交う中、ずかずかと私の前に躍り出てきた男がいた。スポールだ。
「フィリー! やはり君は、死にかけた人間に捧げるような人生を送るべき人じゃない!さあ、僕の手を取ってくれ!」
「なっ何ですか、急に!」
彼は私の返事も聞かず、強引に私の腕を掴んでダンスの輪へと引き込もうとする。舎弟の分際で、なんて横暴なのだろう。こんな時のために鍛えた(?)肌で、その手を振り払って張り倒そうとした。
その時だった。
「――私の妻に、気安く触れるな」
凛とした、けれど氷のように冷たい声が響き渡った。
スポールの腕が、背後から現れた手に力強く掴まれ、私から引き剥がされる。
会場が、水を打ったように静まり返った。
誰もが信じられないという顔で、その声の主を見つめている。
そこに立っていたのは、病で不参加のはずだったミリオ様だった。
彼はいつもより力強い足取りで私の隣に立つと、私の腰を抱き寄せ、スポールを射殺さんばかりの眼光で睨みつけた。
「ミ、ミリオ辺境伯……!? なぜここに……病のはずでは……」
「見ての通り、至って健康だが? それよりも侯爵令息。人の妻を無理やり誘うとは、随分と礼儀を弁えないのだな」
ミリオ様の静かな、しかし有無を言わせぬ迫力に、スポールは顔を青くして後ずさる。
周囲の貴族たちも、彼のあまりの変貌ぶりに息を呑んでいた。あの余命いくばくもないと言われていた男と、目の前の力強く立つ男が、同一人物だとは到底思えなかったのだろう。
もちろん、私も目を丸くしていた。
「ミリオ様……! どうして……お体は……!」
「ああ、君には嘘をついていた」
彼は悪戯っぽく笑うと、私の耳元に顔を寄せた。
「私が出席しないというのは、あれは嘘だ。本当はこうして衆人の前で、僕と君の仲を見せびらかしたかったんだ」
「なっ……!」
「それにね、フィリー」
彼はさらに声を潜め、甘い響きを乗せて囁く。
「君と一緒にいると、毎日が楽しくて仕方ない。死んでいる場合ではなくなったんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で、すべてのピースが繋がった。
――ああ、そうか。やはり、そうだったのだ。
これは、無理を押して来てくれたのだ。もう死期がすぐそこまで迫っているのに、最後の力を振り絞って、私を守るために。そして、私との最後の思い出を作るために。
そう思うと、今まで必死に堪えていたものが、堰を切ったように溢れ出した。
ぽろろと、大粒の涙が頬を伝って流れ落ちる。
「……ミリオ様は、本当に、馬鹿ですね……っ」
嗚咽混じりにそう言うと、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐにふっと優しく微笑んだ。
「ああ、そうだよ」
彼は私の涙を指で優しく拭うと、愛おしむように私のことを見つめる。
「君のことになると、僕は自分の全財産を使い果たしてしまうほど、馬鹿になるんだ」
その愛の告白は、私の心に深く、温かく染み渡っていった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
夜会から屋敷に戻った次の日の朝、定期検診のために訪れた医師が、ミリオ様を診察するなり目を剥いた。
「し、信じられません……! 脈、呼吸、血色、どれをとっても健康そのもの! まさに奇跡だ! 辺境伯様、あなたは……完全に、完治なされたのです!」
興奮して叫ぶ医師の言葉に、私は呆然と立ち尽くした。
え……? 完治?
死ぬ前の最後の輝き、ではなかったの……? 本当に、死なないの?
その事実がようやく脳に染み渡った瞬間、喜びが爆発した。
「ミリオ様っ!」
私は彼の胸に飛び込んでいた。涙が後から後から溢れてきて、止まらない。
「よかった……! 本当に、本当によかった……っ!」
「ああ。心配をかけたね」
私を優しく抱きしめ返すミリオ様の腕の中で、私はしばらくの間、ただただ泣き続けた。
何が良かったんだろう? あの、えり草とかいう怪しげで高価な薬だろうか?それとも、やはり贅沢が最大の薬になったのだろうか?
けれど、喜びの涙が少し落ち着いてくると、私の思考が急速に再起動を始める。
……あれ?
だとしたら、この結婚は?
彼の死を看取ることが条件だったはず。
遺産相続の話も、当然なくなる。
ということは、我が家への資金援助は……って、待って。その資金、私が全部使い尽くしてしまっていなかったかしら!?
私の顔からさっと血の気が引いていく。
「ミリオ様、あの、その……」
「ん? どうしたんだい?」
「この結婚は、どうなるのでしょうか……? それと、我が家への援助は……」
私のしどろもどろな問いに、ミリオ様は困ったように笑った。
「ああ、すまない。本当は、回復の兆しが見え始めた頃に、僕のための贅沢を止めるべきかとは思ったんだ。だが、君があまりにも楽しそうに僕の財産を使い果たしていくものだから、つい言い出せなくてね。君との生活が、あまりに楽しすぎたんだ」
「た、楽しすぎたって……! 私はミリオ様の最期を最高の形で飾るために必死で……! って、そうではなくて! 大変です! 援助のお金が! 私が全部使ってしまいました!あれ、でも元々その計画だった?それでいいんでしたっけ?」
頭を抱えて大混乱に陥る私を見て、ミリオ様は「まあ落ち着いて」と私の肩を優しく叩いた。
「大丈夫だよ。僕に考えがある」
「考え、ですか?」
「実は毎日君と顔を合わせていて、ずっと思っていたんだが……君の作る『それ』、途轍もなくお金になるんじゃないか?」
彼が指さしたのは、部屋の隅に置いてあった、私の失敗作の数々だった。
そんなものが売れるわけがない。
そう思っていた私の予想は、ものの見事に裏切られた。
ミリオ様は、私がジャム作りを失敗して生み出したほんのり果物の香りがする蝋燭もどきを『リップグロス』と言う名で、
スポールに投げられないために開発した肌をつるつるにする白い粉を『ファンデーション』と言う名で、
そして防虫剤の失敗作であるきらきら光る液体を『ヘアオイル』と言う名で売り出したのだ。
さすがは一代で巨万の富を築いただけある。彼の商才は凄まじかった。
あれよあれよという間に、私の失敗作たちは社交界の貴婦人や令嬢たちの間で瞬く間に評判となり、飛ぶように売れていった。
まさか、私の奇行……もとい、奇行ではない!断じてない!
……私の失敗作達が、こんな形で評価されるなんて。
いつしか私は、その美容品を開発した手腕と、余命いくばくもなかった辺境伯を奇跡的に蘇らせた(と噂されている)ことから、『美と健康の女神』などと呼ばれるようになっていた。
「違うんです! あれは全部失敗作で、夫が元気になったのは本人の生命力のおかげです!」
私がそう叫んでも、誰も聞いてはくれない。
むず痒いことこの上ないけれど、私の手元には、あっという間に巨万の富が転がり込んできた。
傾きかけた実家の問題も、綺麗さっぱり解決したのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
事業が軌道に乗り、辺境伯家の資産が以前よりも豊かになったある日のこと。
私は書斎で帳簿を眺めていたミリオ様に、ずっと疑問に思っていたことを尋ねた。
「ミリオ様。この事業で得た資産は、どう考えても事業を立ち上げたミリオ様のものであるはずです。なぜ、すべて私のものだとおっしゃるのですか?」
私の問いに、彼はペンを置き、穏やかに微笑んだ。
「フィリー。この事業の源泉は君から生まれたものたちだ。僕がしたのは、それに名前をつけて、市場に流しただけだよ」
「ですが、それがなければただの失敗作です! 私には過ぎた大金です!」
私がそう反論すると、彼はくつくつと楽しそうに喉を鳴らした。
「大丈夫だよ。経営の管理は僕がする。でも、富はすべて君のものだ。それにね」
彼は悪戯っぽく目を細める。
「君が最初に言ったんだろう? 『もう贅沢はたくさんだ』と僕に言わせるのが目的だって。君のおかげで、僕は本当にそうなってしまったよ」
からかうような物言いに、私の顔に熱が集まる。
「僕はもう、これ以上の贅沢はいらないんだ。ただ、君がそばにいてくれれば、それでいい。だから、これからも僕の贅沢は、今まで通り君が決めてほしい」
――ずるい。
なんて、ずるい言い方だろうか。
そんな風に言われたら、断れるはずがないではないか。
私が言葉に詰まっていると、彼はすっと立ち上がり、私の前に跪いた。
そして、私の右手を取り、その甲にそっと口づけを落とす。
「フィリー」
真剣な眼差しが、私を射抜く。
「君は、僕の命の恩人だ。一度は諦めたこの命を、君が救ってくれた。だから、僕の残りの人生、すべてを君に捧げたい。君を守るためだけに使わせてほしいんだ。……改めて、僕と結婚してください」
ずるい。本当に、ずるい。
そんなの、断れないに決まっているじゃないか――
こうして、私たちの結婚は、最初の契約書を暖炉の火にくべて、新しいものへと書き換えられた。
『ミリオ辺境伯の生涯を、妻として隣で見守ること。その対価は、辺境伯の遺産ではなく、彼からの生涯をかけた愛と、彼の持つ全てとする』
私はこの新しい契約書に、ある一文を付け加えるべきだと思って交渉する。
「ミリオ様、一つだけ、条項を追加していただいてもよろしいでしょうか」
「なんだい?」
「ここに、こう書き加えてください。『代わりに、妻はミリオ辺境伯へ生涯にわたり贅沢をさせる義務を負う』と」
私の提案に、ミリオ様は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがてたまらないというように笑い出した。
その交渉が、最終的にどういう形で決着したのか。
それは、私たち夫婦だけの、ささやかな秘密である。
【用語紹介】
えり草
かつて一人の天才が生涯の全てを懸けて生み出した奇跡の薬。虹色に輝くその液体は、いかなる難病であろうと瞬時に浄化し、死の淵にある者も蘇らせる力を持つと伝えられる。
しかし、製法は創造主の死と共に永遠に失われ、真物は歴史の闇へと消えた。市場に出回るものは色を似せただけの贋作ばかり。どんなに大金を用意しても、本物を引く確率は百万分の一か……
なお、フィリーは名前を勘違いして『草』だと思っているが、複数の素材から作られる合成薬である。