Rainy Day Story
その日は、いつもより下校するのが遅かった。雨の教室にずっと座っていた。窓際の僕の席には、雨が連れてきた匂いがする。グラウンドの土の匂い。駐車場の隅に生えている雑草の匂い。夕方の営業をはじめた近くの中華屋の換気扇からの匂い。それらの匂いにどこか懐かしさを感じて、一体どういうことだろうと考えているうちに僕は教室にひとりきりになっていた。
机に片肘を突き、掌の上に顎を載せて、僕はじっと窓の外を眺めて過ごした。その間にも灰色の低い空から、遠くの方で何度も雷の音がした。
早く家に帰るようにと見回りに来た数学教師が言った。
「この様子だと、梅雨明けも近いな」
そうですね、そうみたいです、と僕は言って傘を持ち、教師の脇を抜けて教室を出た。気を付けて帰れよ、と後ろから声がかかったので、軽く会釈をした。
玄関で靴を履き替えていると、隅っこに女子が立っているのに気付いた。僕と同じクラスの坂口さん。髪が長くて眼鏡を掛けた、内気な生徒だ。もっとも、内気と言えば僕も内気だ。
靴紐を結び直していると、向こうも僕に気づいたようで、俯いているものの、少しもじもじしながら立っている。
「どうしたの、いま帰り?」
「うん。図書館で調べものをしてたの。気づいたらこんな時間になっちゃって」
その頃はまだスマホは存在していなくて、調べものといえば自宅のパソコンか、まだまだ学校の図書館もその候補の一つだった。坂口さんの両腕の中には何冊かの料理の本があった。
僕は、
「本、濡れちゃうね。ほら、使いなよ」
と言って坂口さんに傘を渡した。え、でも、と戸惑っている坂口さんに、
「僕は家、近いから。走って帰ればすぐなんだ」
と言って、半ば押し付けるように傘を手渡し、僕は雨の中に駆け出した。あっ、と言う坂口さんの声を振り切るように。
次の日の朝、僕の席に、小さなタッパーが置いてあった。「昨日は傘、ありがとう。もしよかったら、食べて」と書かれた付箋が貼られていた。昼休みにそのタッパーを開けると、きれいな卵焼きとプチトマトが彩り鮮やかに入っていた。
その日の放課後も、雨だった。窓と外の境界を曖昧にする、霧のような雨だった。一面の風景の輪郭を失わせる、そんな雨に見とれていると、僕の頭の中もぼんやりとしてきて、気づいたらまた教室にひとりきりになっていた。
雨は、音もなく降り続いた。まるで降っているのではなく、漂っているかのような降り方だった。遠くの方で車が走る音が聞こえてくる。その音も、霧雨に包まれて、くぐもって聞こえる。僕は何かを考えるのだけれど、その考えも霧雨に包み込まれるように、音もなく、僕の中で輪郭を消していった。
僕と坂口さんは、どちらからともなく、毎日ではないが一緒に帰るようになった。坂口さんは玄関で僕の下校を待っていて、大体、立ったまま何かの本を読んでいた。僕を見つけると、坂口さんはそそくさと本を鞄に仕舞い、
「わたしも今、帰るところなの」
と俯きながら言った。決まって雨の日だった。
坂口さんの家は丘の手前で、僕の家はその先だった。坂口さんも僕も、学校の話はあまりしなかった。全くしないわけではないけれど、それよりも、雨が連れてくる匂いだったり、雨に濡れる木々の青さだったりを話した。お互いに無理に上手に言おうとしないで、稚拙な表現であっても頷きあって歩いた。
それから少しして、梅雨が明けた。放課後、教室に残っていても西日ばかりが強くて、僕はすぐに帰るようになった。時々、夕立が降るくらいで、ほとんど雨も降らなくなった。
僕は家に着くとすぐに、日中、父親が干した洗濯物を取り込む。僕には母親はいない。父親が個人タクシーの運転手をして僕を育ててくれた。帰って来る時間は不規則で、早い時もあるが、最近は深夜になるときも多い。僕が大学に進学するためのお金を、長い時間タクシーを走らせて稼いでくれているのだろうと思う。
だからいつも夕食は僕が作ることになっていて、今日は生姜焼きを作った。父の分はラップをして冷蔵庫に入れておく。僕は茶の間で夕方のニュース番組を見ながら自分の分を食べた。小学生の頃から、夕食はいつもこうだ。それでも朝食は、父がいつも、どれだけ遅く帰ってきても作ってくれる。朝起きて学校へ行くまでの短い時間だけれど、何気ない会話をしながら僕たちは一緒に朝食を食べる。
その年は、戻り梅雨が長かった。雨が降り、その度に坂口さんと一緒に帰った。家で一人、夕食を食べながら見るニュースの天気予報を、特別な感情を抱いて見ている自分に気づきだしたのもこの頃だった。
二日降っては一日晴れ、また二日降る、といった日が続いていた。その日も僕と坂口さんは傘を差しながら並んで歩いていると、地下道のある大きな交差点で、下校途中の小学生の列に遭遇した。黄色い傘を差した小さい子どもたちが歓声を上げながら走って僕たちの横を囲むように追い抜いていく。
「ねぇ、まるでお花畑の中にいるみたい」
坂口さんは言った。黄色い、菜の花畑にいるみたいよ、と。僕も立ち止まって、坂口さんが本物の菜の花畑にいる姿を想像した。美しい光景だった。
すると、急に列の中から男の子が飛び出してきて、僕たちの前に立ち止まった。
「お兄さんとお姉さんはさ、付き合ってんの?」
子ども特有の、からだ全体から発したような大きな声だった。そしてこの質問に呼応するように小学生たちは、さらに歓声を上げた。
僕と坂口さんは一瞬だけ目を合わせた。すると坂口さんの頬っぺたは桃のように赤くなり、すぐに俯いて、何も言わず足早に地下道へと消えていった。
それからはずっと晴れの日が続いた。時折、驟雨はあったが、急に降っても、すぐに止む雨ばかりだった。梅雨前線は東北あたりまで北上し、本格的な夏が到来した。
夏休みに入る前、担任の数学教師が僕に、個別面談をしないかと言ってきた。今日の放課後に職員室に来るようにとのことだった。
職員室に入ると、数学教師は期末テストの答案用紙に丸付けをしている最中で、机の上には書類やら資料やらが山積みになっていた。ちょっと突けば簡単に雪崩が起きそうなくらいだったが、数学教師は僕に気づくと、その書類の山を器用に移動させて、僕との面談のスペースを作った。
「なぁ、宮部よう」
数学教師はそう言うと、テストの丸付けで凝った右肩をぐるぐると回した。
「本当にあの大学でいいのか?いや、悪い大学ではないさ、あの大学も。この県では一番の国立大学だしな。でもよ、お前の地頭なら多分、もう少し勉強すれば東京の有名私立にだって入れるんだぜ。どうだ、この夏休み、一生懸命勉強してみるってのは」
数学教師は机に片肘を突いて、ぐいっと顔を僕に近づけて言った。以前もお話したと思いますけど、と僕は言った。それ以上は言いたくなかった。僕は父の口から、お金の心配事は一度も聞いたことがなかった。もちろん大学進学に掛かる費用のことも。だから僕も、お金の事は言いたくなかった。
「僕はこの大学が良いんです」
そうとだけ言って、僕は用意されたパイプ椅子に座って、俯いたままジッと床を見ていた。自然と膝に置いている手が固く握りしめられてくるのを感じた。数学教師が僕のためを思って言ってくれているのは十分に分かる。この個人面談だって、クラスの中で僕だけにしか実施していないはずだ。忙しい合間を縫って、僕のために時間を割いてくれている。
「わかった」
数学教師はそう言った。それを聞いて僕は顔を上げた。ゴーッという爆音が職員室に響いてきた。数学教師の後ろの大きな窓の外の空に、旅客機が飛行機雲をたなびかせて飛んでいく。青空だった。そのとき僕に見せた数学教師の、澄み切った笑顔のような、青空だけが僕の脳裏に焼き付いた。
高校3年間で、僕が友達と呼べるのは、安田ことヤッさんだけだった。3年生の時に同じクラスになって、初めてお互いの存在を知った。そのくらい、ヤッさんも教室の隅っこが似合う男子だった。
成績は優秀で、大学は隣の県の国立大学へ進むと言っていた。僕が行く予定の大学よりはるかに難しい大学だ。それなのに、ヤッさんが勉強している姿を僕は見たことがなかった。授業中は眠っているか、漫画を読んでいるか、隠れて弁当を食べていた。きっと家では勉強しているのだろうけれど、僕と話していても勉強の話題にはほとんどならない。ヤッさんと話すときは、大体僕から話題を提供することが多かった。例えば僕がその頃からハマり始めていた、ボブ・ディランのことを話すと、次の日にはヤッさんもボブ・ディランのことをどこからか調べ上げてきていて、
「知ってるか?ボブ・ディランってのは芸名なんだぜ。本名は『ジママン』って言うんだ」
とか、
「大学を中退して、ヒッチハイクで真冬のニューヨークに行ったらしいんだ。ジママン君はね」
などと、インターネットが無かった時代にどうやって調べたんだろうと思うことがヤッさんには多かった。僕が知っていることは大抵、ヤッさんも知っていたのだけれど、その知識をひけらかせたり、自慢気に話したりすることは無かった。「ある筋からの情報によるとね」それがヤッさんが僕と話し始める時の枕詞だった。昼休み、教室の隅っこでヤッさんと向かい合って弁当を食べながらボブ・ディランの話をするのが僕はとても楽しかった。放課後はヤッさんは誰よりも早く下校することをモットーにしていて、いつも走って教室を出て行ってしまうので、一度も一緒に下校したことが無かった。そもそも僕の家とは反対方向だったのだけれど。
その夏は、よく雨が降った。日中は晴れていても、夕方、急に大雨が降ることがよくあった。そうなると僕は傘を差して、近くの大きな公園に行った。人気が無く閑散とした公園を散策するのが楽しかった。木々の緑は雨で洗われて、普段より濃く見えたし、公園全体を覆っていた塵みたいなものが洗い落されて、清潔になったような印象を受けた。誰かとどこへ行くでもなく、僕は夏休みの間じゅう、雨の公園へ行った。
夏休みが明けると、クラスは受験モードになっていた。休み時間も机から離れず、問題集を解いている生徒ばかりで、僕は息が詰まった。それでも相変わらずヤッさんは眠っているか漫画を読んでいるか、弁当を食べていた。昼休みでも弁当を食べながら参考書を読んでいる生徒ばかりの中、僕たちは教室の隅で、ヤッさんの仕入れたボブ・ディランの話で盛り上がった。そして僕たちが少しでも笑い声を上げたりすると、周囲から睨まれ、ちょっとした顰蹙を買うのだった。僕たちは、申し訳なさそうに肩をすくめるのだけれど、また次の日もヤッさんは面白い話をして僕をクスクス笑わせてくれた。
下校時刻になると、皆、一斉に教室から出ていくようになった。図書室で自習をしたり、塾に行くのだろう。もちろんその中でもヤッさんは先陣を切って教室から出て行った。
雨降りの放課後、誰もいなくなった教室で、僕はいつものように窓の外を眺めていた。雨は夏のように、ボタボタとではなく、軽い音をたてて降った。僕は母の葬式のことを思い出した。あのときも、こんなような雨だった。小学生だった僕にも、母の死ということがどんな意味を持つのか分かっていた。
「大丈夫です」
涙ながらに心配して近寄って来る親戚のおじちゃんやおばちゃんに、僕はそう返事をし続けたのを覚えている。
父はあの頃、地元では有名な、特許の会社に勤めていた。しかし僕を育てる為に、時間の自由の利く個人タクシーをはじめた。特許の会社に勤めていれば、再婚もできただろうけれど、父はそれを選ばなかった。なぜなのか、僕は一度も訊いたことはないけれど、父にとって最愛の人はたった一人で良いし、その人との子どもを自分の手で育て上げることが遺された自分の役目だと思っているみたいだった。どれだけ仕事が遅くなっても、授業参観や運動会にも来てくれたし、弁当も作ってくれた。だから僕は、あまり寂しい思いをしなくて済んだ。それでも、こういう雨の日は、窓から見える灰色の空に、幼い頃に見た母の顔をぼんやりと思い出す。
玄関に行くと、坂口さんが隅っこで本を読んでいた。僕は靴紐を結び直し、傘を持つと、坂口さんも本を鞄に仕舞った。
傘を差しながら並んで歩きだすと、坂口さんが訊いた。
「宮部くんは、どこの大学を受けるの?」
そう言えば、担任の数学教師以外に僕が受験する大学を言っていなかったことに気づいた。ヤッさんにもだ。
「…そうなんだ」
僕が受ける大学を言うと、坂口さんはそう言って少し俯いた。
「宮部くんらしくて、すごい」
私は、かなわないな。坂口さんは、自分は東京の私立に行くと、付け加えるように言った。誰もが知っている、最難関の私立大学だ。
一体僕の、どこがすごいのか。そして、坂口さんがどうして僕にかなわないのか。
さっきまで小雨だったのが、本降りとなり、雨粒が僕のビニール傘に当たって内側から弾け連なる音がしはじめた。横断歩道の信号は赤で、僕たちは止まった。目の前の幹線道路を、しぶきを上げて車が通っていく。坂口さんが隣で、何かを言い出そうとしているのが気配でわかる。でも僕は、信号が青になるまでジッと前だけを向いていた。
それからしばらくの間、雨は降らなかった。雨が降っても、僕は教室に残らず、すぐに帰った。
どれだけ仲良くなっても、どれだけ雨の日に一緒に帰っても、あと数か月もすれば僕と坂口さんは離ればなれになる。そしておそらく坂口さんは東京で就職し、東京で暮らし、東京で結婚する。だから僕は坂口さんにとって単なる通過点でしかない。それは坂口さんの口から「東京の大学を受ける」と言われる前から分かっていた。
分かっている。
分かっているのに、どうして僕は今頃になって坂口さんへの自分の気持ちに気付いてしまったのだろう。
数か月後、僕は大学に受かり、坂口さんも受かったみたいだった。卒業式の日、坂口さんは友達と輪になっておめでとうと言いあっていたから、そうだ。
ヤッさんが僕に、どうだ、受かったか?と訊いてきた。
「何とかね」と僕が言うと、
「俺もだ。首の皮一枚だったぜ」
と、ヤッさんは唇をとがらせて言った。実にスリリングな体験だったよ、と言い残して教室を去って行った。
ヤッさんが帰ってしまったので、僕も荷物を纏めていると、坂口さんが目の前に立った。
「今日も、降らないね。雨」
僕は荷物を纏める手を止めて、うん、とだけ頷いた。
「でもね、ここは、ずっと雨が降ってるの」
ここ?僕は顔を上げると、坂口さんは両手で自分の胸を押さえていた。ちょうど心臓のあたりだ。そこに固く握りこぶしをつくって押さえて言った。
「しとしとと降る時もあれば、急に降り出す時もあるの、ザーッて。自分じゃあ止められないの。でも、そういう時は宮部くんのことを考えるの。傘を差して宮部くんと一緒に帰った時のこと。そうするとね、どんなどしゃ降りの中だって、平気なの。だから…」
そこまで言うと坂口さんは一旦、俯いてキュッと口を噤んだ。そして再び顔を上げると、その眼鏡の奥の、実はくりっとしている瞳に涙をいっぱいに湛えて言った。
「だから、もう…」
「僕は大丈夫だから」
その言葉に、坂口さんの肩はわずかに震えた。坂口さんが何を言ってほしいのか、僕にも分かっていた。卒業式までの数か月間、雨が降っても僕は坂口さんを残して帰った。苦しかったのだろうと思う。
「嫌いになった」僕がそう言えば、坂口さんはきっと救われる。もう苦しまずに済む。でも、僕は坂口さんの心に少しでも何かを、傷でも何でもいい、何かを残しておきたかった。
そして、出来ればケロイドのように、いつまでも、いつまでも残ればいいと。
「僕はもう大丈夫だから」
そう言い残して、僕は去った。