『愛を知れ』
中央食堂
「先輩、一緒にフィリー美術館を見にいきませんか?」
時が止まった。
しかし、すぐに動きだす。
「うえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
兄斗は想い人である四葉からの思わぬ誘いを受け飛び上がった。
そして、彼の肘は隣に座っていた上柴の左腕にぶつかる。
「ぐぉっ!? う……が……」
「あ、ごめん……」
「いや……気にすんな……。でも気を付けろ……」
上柴は左腕を骨折させていた。
二週間ほど前に受けたレイゼン・ルースの死球によるその怪我は、まだ完治していなかった。
「……ちなみに今のは冗談です」
「えぇ……」
兄斗は露骨にしょんぼりとした。
「何でも聞いた話じゃ、『狂信者』が見たら危ない作品があるとかないとかで」
「……情報収集はしないんじゃなかったか?」
「? しますよ? その辺の人達が会話しているのを聞いただけです。それで十分世間のことはわかるじゃないですか」
「あー、あるある」
「ねぇよ」
上柴は適当に肯定する兄斗に呆れる目を向けた。
「そういう風に聞くと気にはなりますけど、私は先輩の監視役ですからね。無茶はさせません。どうなるかは気になりますけど……まあ、仕方ない。気になりますけどね」
「いや、行こう」
「え?」
四葉は驚いて目を丸くした。
未だに彼女は兄斗の気持ちに気付いてはいなかった。
「誰も禁止にはしてないだろ? 一緒に行こうよ。折角入場料半額の期間中なわけだし」
「……私はそれで先輩に何かあった時、枢機院に何を言われるかわかりません」
「だから誰も『美術館に行くな』なんて言ってないだろ? 所詮噂。そもそもホントに何かあった時は、禁止にしてなかった枢機院が悪い」
四葉は少し思案すると頷いた。
「……ですね! だったらむしろ何か起きるのを期待したいです!」
「……お前君口に何か恨みでもあんのか?」
そう言いつつも、上柴は小さく微笑んだ。
兄斗の彼女への好意は流石に気付いている。
もちろん美術館に行くだけで何かが起きるとは微塵も考えていない。
二人が上手くいくことを、傍から見守るだけだった。
*
翌日 フィリー美術館
兄斗が入場口につくと、既に四葉はそこにいた。
「や、やあ」
「ああ、来ましたか」
いつもの学生服。
兄斗は一体どのような服を着ていけばいいのか思案した結果、無難な制服を選ぶことにした。
一方、四葉は何も考えず目の前にあった制服を着てきた。
「では行きましょう。先輩の分のチケットは既に買いました。お金は後で返してくれればいいので」
「え? あ、ああ。ありがとう」
四葉はスタスタと進んでいく。
彼女は全く兄斗に興味が無い。
というよりはむしろ、ただ美術館に早く入りたいだけかもしれない。
兄斗は少し切ない顔をしながらすぐ彼女の隣を確保する。
「美術に興味があったんだな。花良木」
「……いや、別に」
「え?」
「興味があるから来たかったわけじゃないんです。興味を持てる物があるかを確かめにきたんですよ」
「ほほう。殊勝なことじゃないか。花良木のお眼鏡にかなう作品があるといいね」
四葉はフンと鼻息を鳴らして進み続ける。
彼女なら、それくらいの些細な意志を自ら強固に錬成する。
兄斗はもうそんな彼女の性格を理解していた。
「先輩こそ、美術に興味があるんですか?」
無い。
しかし『花良木とデートしたかったから』とは言えない。
「ああ……僕はその……はは……。ところでさ、花良木は家族とこういうところ来たことあるの?」
「? 無いですよ?」
何故そんなことを聞くのかという表情をしてみせる。
露骨に話を変えたからではなく、まるで初めから答えが決まっていることであるかのように。
「そうなんだ?」
「はい。別に円満な家庭でもないですし」
「え?」
「父は蒸発。母は私が小さい頃に亡くなって……ここまで私を養ってくれたのは母の伯父家族。ま、それなりに恵まれていましたよ? この学園にいる時点でそれはわかりきっているでしょうけど」
「そ、そっか……」
「先輩は?」
「え? 僕?」
「……まあ、別に気になるわけでもないですけど」
兄斗はどこか含みを持たせている彼女の横顔を見つめつつ、質問に答えようとする。
が、その前に四葉は自らそれを止めにいく。
「あ、見て下さい。この像」
そう言って美術館のメインホールの中央にある展示を指差す。
それは、キリンのような四つ足の動物の像で、頭部は人間の顔を逆さまにしたような形。
長い首を伸ばし、真ん中部分で九十度に折れ曲がっている。
折れた首は展示の柵を超えてはみ出し、逆さまの人面が口を半開きにして客側を向いている。
兄斗はその像を気味悪く感じて目を細めた。
「……何これ……」
「何だと思います?」
「いや……わからない。芸術は難しいな」
「……………………………………………………」
四葉は何故か真面目にその像を見つめていた。
「花良木?」
「ああ、いや。私も今考えていたんですけど……わからないです。これに興味を持つのは無理ですね」
「まあそんなもんさ。さ、とっとと『例の絵』を見にいこうよ」
兄斗はタイムズにも載っていた『ナルキッソスの鏡』のことを話題に出す。
悪い噂があるものの、兄斗は全く恐れていなかった。
彼は大抵の事象なら自身の『リフレクション』で防ぐことが出来る。
それは超常現象に関しても同様であり、例えばツァリィ・メリックの精神操作も兄斗は跳ね返すことが出来るのだ。
「……そうですね」
気味の悪い像を後にして、二人は中央奥室に向かう。
円状の空間であるメインホールは、中心にあるその像の所為で異様な雰囲気に包まれていた。
二人は真っ直ぐ中央奥室に進んでいるのに、不思議とその円状空間をグルグル回っているのではないかという様な錯覚に陥る。
その理由は、像の人面の顔がずっとこちらを見つめているように感じた為だ。
像が動くはずはないので、自分達が視線の先に居続けているのではないかと、像から離れられないのではないかと、そう感じてしまうのだ。
しかし、その感覚はメインホールを抜けるとあっさり消え去った。
二人はそんな不気味な感覚を言葉にすることもなく、このサイバイガルではよくある超常現象の一種だろうと考えて忘れることにしたのだった。
*
意外にも、『ナルキッソスの鏡』の周辺にはそれほど多くの人はいなかった。
タイムズ紙内での宣伝効果は、すぐには出ていなかったらしい。
「……これか」
禍々しい闇の背景に、一つの大きな鏡が描かれている絵。
鏡の装飾はこれまた不気味な空想上の生物と融合していて、視線を鏡に向けている。
鏡はまるで本物のようであり、また瞬時にそうではないと気付くことが出来る。
何故なら、その鏡には何も映っていないからだ。
「……はは、やっぱりなにも起こらない。これを本物と見間違えた奴がいるとかタイムズに載ってたけど、そんなわけないよなぁ」
そう言って隣の四葉に目をやる。
すると、彼女はいきなりフラッと兄斗の体に寄り掛かってきた。
兄斗は当然顔を赤らめる。
「え? え? 何? 何? 急にどうしたの?」
返事はない。彼女の体温を感じるよりも早く、彼女の体重が一気に押しかかる。
彼女は兄斗の方に寄り掛かったのではなく、倒れてきたのだ。
「花良木!?」
突然だったので立ちながら支えきることが出来ず、兄斗は彼女を何とか腕で抑えながらしゃがみ込んだ。
「おい! 花良木!? どうしたんだ!? おいって!」
呼吸はしている。脈もある。
だが、目を開こうとしない。
四葉は自分でも意識が遠のく感覚を味わっていた。
兄斗の呼び声だけが脳裏に響く中、彼女は――。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「大丈夫か? 花良木」
次に四葉が意識を取り戻すと、正面には兄斗の顔があった。
「……先輩……?」
兄斗は優しく微笑んでいた。
彼女は兄斗の顔の後ろに天井があることに気付いた。
つまり、今の状況は明白だ。
「あっ!」
自身が兄斗に膝枕をしてもらっていたことに気付き、紅潮する顔を抑えながら離れる。
「あ、ごめん……。いやさ、このベンチ硬くてさ、まだ僕の膝の方がマシかと思ったんだけど……」
言い訳のような言い方をされるが、四葉はむしろ迷惑を掛けたことに罪悪感を抱いている。
「い、いえ。というか……私どれくらい意識を失くしてました?」
「うーん……一時間くらい?」
「えっ!?」
四葉は飛び上がってスマホの時計を確認する。
確かにここに到着した時刻から一時間以上経過していた。
「……ごめんなさい、先輩。私迷惑を……」
何故自分が突然意識を失くしたのかはわからないが、一時間以上膝枕をしてもらっていたとなると流石に兄斗の心配もしたくなる。
「え? いやむしろ、何で医者を呼ばないんだって怒られるかと思ったよ」
「……確かにそうですね。一体どうして……」
「ああ、それは……うぐぉ!」
立ち上がろうとした瞬間、兄斗は痺れた膝を強く抱える羽目になる。
一時間人間の頭部を膝に乗せて平穏無事とはいかなかったらしい。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……前の筋肉痛ほどじゃないよ。球技大会の後はマジで死ぬかと思ったから」
それを聞いて四葉は思い出す。
そして、思い出した疑問をそのまま口にした。
「……球技大会の時も、今もそう。先輩は……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
四葉は鈍感だったが、兄斗が自分に献身的であることには薄々気付き始めていた。
兄斗は少し頬を掻きながら目を逸らす。
「それは……その……」
疑問を投げかけてすぐ、四葉は後悔した。
また別のことを思い出したからだ。
それは、自分が伯父夫婦に引き取られてすぐ後の記憶。
――「面倒を背負う理由はないでしょう? うちにはもう三人も子どもがいるのよ?」
それは伯母の言葉。
四葉は伯父夫婦の厚意で引き取られたわけではない。
ただ、伯父は責任感に縛られた生き方から逃れられない性格の人間だった。
妻からそう言った愚痴を聞かされても、彼は妹に頼まれた義理をないがしろに出来ない。
だが、伯父自身には四葉を引き取りたいなどという善意はこれっぽっちも存在していなかった。
ただ彼らは裕福であり、経済的には四葉を無視する道理がない。
それでも、今まで面識のなかった四葉がいきなり家族に加わるというのはまだ小さい自分達の子どもが納得しにくいので、伯父も伯母も嫌々ながらの選択だったのだ。
四葉は子どもながらにそんな彼らの心情に気付いていた。
伯母の愚痴も、母の葬式の際に既に聞いていた。
彼らが自分に向ける笑顔が偽物だと思うのも、仕方のないことだった。
――「ねぇ、四葉お姉ちゃん。私、お姉ちゃんと同じ名前の『四葉』のクローバー欲しいの」
何もかもを洗い流してくれるような笑顔で、伯父夫婦の三女は四葉にそう言った。
長女と次女は四葉を良く思わず、態度も厳しかった。
しかし、三女は違ったのだ。
彼女は四葉よりも年下だが、四葉の知る限り誰よりも優しい心を持っていた。
その笑顔が別に自分だけに向けられるわけではないと思っていた四葉は、ただ彼女に癒されるだけで、それ以上多くを望まなかった。
いや、望めなかったのだ。
三女に頼まれて原っぱで探し続けたのだが、ついに四葉のクローバーは見つからなかった。
四葉は遅くまで外出していたことを伯父夫婦に叱られ、長女や次女からはさらに白い目で見られる。
涙を流し終えた後、それでも四葉は三女を喜ばせたくて、仕方なく原っぱで見つけた大きめの三つ葉のクローバーを三女に手渡した。
――「わあ! おっきい! ありがとう四葉お姉ちゃん!」
四葉はその言葉に救われるも、『どういたしまして』などとは言えなかった。
何も出来ない自分が情けなく感じていたのだ。
そして、三女は十三という若さで他界した。
彼女の死を受けて四葉は、学園国家サイバイガルを卒業することを決意した。
ここを卒業できる者は一握りであり、もしかしたら、伯父夫婦や自分に厳しく接していた上の姉妹をも見返せると考えたからだ。
四葉は『愛情』を嫌っていた。
そんなものを抱けるのは愛されたことのある人間だけ。
自分を愛してくれる人間がいなければ、最早その人物は誰のことも愛せなくなる。
彼女はそう、考えていた。
三女が亡くなった今、最早四葉の生きる意味は『愛情』以外の全てと言わざるを得ない。
彼女は三女がただ特別誰に対しても優しかったというだけで、自分を愛してくれていたなどとは考えなかった。
幼い頃に亡くなった母親の顔はもう覚えていなかった。
誰からも愛されなかった自分は、人を愛する方法がわからない。
故に彼女は――。
「……私はただ、自分をたくさんの人に認められたくてこの学園に来たんです。ここを卒業すれば、私の承認欲求は満たされるから……」
兄斗は頬を掻きながら、今度は彼女に目を合わせる。
「? 何だ急に。みんなそうだろ?」
「ええ、そうかもしれませんけど……」
それ以外に何も望んでいないということを、口に出して自分に言い聞かせたかった。
しかし、それは何故か出来ない。
彼女はまだ兄斗が自分のことをどう思っているか、前向きな可能性を見出せていなかった。
むしろ見出さないように自ら思考をシャットダウンしていたのだ。
そして、だからこそ彼女は驚愕することになる。
「………………僕は、花良木のことが好きだ」
四葉は兄斗の言葉の意味が一瞬わからず、シャットダウンしていたはずの思考を再起動する羽目になる。
だがその起動に失敗し、既にオーバーヒートは全身に起こっていた。
「…………え? いや……え? えぇぇぇぇぇぇ!?」
「だから僕は君に献身的になれる。当たり前だよね?」
真っ赤にしながら四葉は引き下がる。
不思議と、兄斗は落ち着いているように見えた。
その理由は、彼女も後にすぐわかることになる――。




