第二章:過去への扉
それから数日が過ぎた。
蝶子は、毎晩のように鏡を覗き込んでいた。時に父との思い出が、時に見知らぬ風景が映し出される。それは断片的で、脈絡のないものだったが、蝶子は少しずつ、自分の家系の歴史を紐解いていった。
ある夜のこと。
蝶子が鏡を覗き込むと、そこには見知らぬ女性の姿が映っていた。着物姿の彼女は、何かを必死に描いているようだった。
「誰…… なのでしょう?」
蝶子が呟いた瞬間、鏡の中の女性が振り返った。そして、まるで蝶子に語りかけるかのように、唇を動かし始めた。
『私の名は、鏑木蝶。あなたの曾祖母にあたる者です』
「え……?」 驚く蝶子。鏡を通して会話ができるなんて、想像もしていなかった。
『聞いてください。私たちの家系には、呪いがかけられているのです』
「呪い…… ですか?」
『そう。芸術の才能と引き換えに、愛する者を失うという呪いです』
蝶子は息を呑んだ。父の失踪。そして、幼くして亡くなった母。すべては、この呪いが原因だったのだろうか。
『でも、あなたなら、この呪いを解くことができるかもしれない』
「私が…… どうすれば?」
『それを見つけるのが、あなたの役目です。過去を知り、そして乗り越える。そうすれば、きっと道は開けるはず』
言い終わると、蝶子の姿は霞み始めた。
「待って! もっと教えてください!」
しかし、鏡の表面は元に戻ってしまった。
蝶子は、頭を抱えて座り込んだ。呪い。家系の秘密。そして、自分の使命。すべてが混沌としている。
数日後。
蝶子は、友人である若き作家・月村耕平とカフェで待ち合わせていた。
「やあ、蝶子君。久しぶりだね」
颯爽とした様子で現れた耕平に、蝶子は微笑みかけた。
「耕平さん。お久しぶりです」
二人は席に着き、コーヒーを注文した。
「それで、突然会いたいって、何かあったのかい?」
耕平が尋ねる。蝶子は少し躊躇った後、ゆっくりと口を開いた。
「実は…… 家系の秘密について、調べたいことがあるんです」
「へえ、面白そうだね。どんな秘密なんだい?」
蝶子は、鏡のことや曾祖母との会話のことは伏せたまま、呪いについて話した。
「なるほど…… 芸術の才能と引き換えに愛する者を失う、か」
耕平は顎に手を当て、考え込んだ。
「そういえば、僕の知り合いに、古い資料を扱っている書店主がいるんだ。彼なら、何か情報を持っているかもしれない」
「本当ですか?」 蝶子の目が輝いた。
「ああ。今度、紹介状を書いておくよ。彼のところへ行ってみるといい」
「ありがとうございます、耕平さん」
会話が弾む二人。しかし、カフェの隅で、一人の男性が二人を見つめていることには気づかなかった。
その夜。
蝶子は再び鏡を覗き込んだ。今度は、若い男性の姿が映っていた。
『私は、鏑木蝉丸。あなたの曾祖父です』
蝶子は息を呑んだ。曾祖母に続いて、曾祖父まで現れるとは。
『蝶子。呪いの真相に近づきつつあるようだね』
「はい。でも、まだ多くのことが分かりません」
『焦ることはない。ゆっくりと真実に近づいていけばいい。ただし、気をつけなければならないことがある』
「何でしょうか?」
『呪いを解こうとする者を阻もうとする力が働く。君の周りにも、既にその影響が及んでいるかもしれない』
蝶子は背筋が凍る思いがした。
『だが、恐れることはない。君には、呪いを解く力がある。そして……』
蝉丸の姿が霞み始める。
「そして?」
『愛する人を守る力も……』
言葉が途切れ、鏡は元の姿に戻った。
蝶子は、深い考えに沈んだ。呪いを解く力。愛する人を守る力。それは一体、何を意味するのだろうか。
翌日。
蝶子は、耕平から紹介された書店を訪れた。古びた看板には「月光堂書店」と記されている。
店内に足を踏み入れると、古書の香りが鼻をくすぐった。
「いらっしゃい」
奥から現れたのは、白髪交じりの老人だった。
「あの、耕平さんから紹介状を……」
「ああ、月村君からね。聞いているよ」
老人??店主の月城守は、優しく微笑んだ。
「鏑木家の秘密について、知りたいんだそうだね」
「はい。何か、情報をお持ちでしょうか?」
守は、奥の部屋へと蝶子を案内した。そこには、古い文書や絵画が所狭しと並んでいる。
「実はね、君の曾祖父である蝉丸さんとは、旧知の仲だったんだ」
「えっ?」 蝶子は驚いた。
「彼から、いくつかの品を預かっている。それを見せよう」
守は、古びた箱を取り出した。中には、数枚の絵と、一冊の日記帳が入っていた。
「これらは、蝉丸さんが残したものだ。彼の秘密が、ここに隠されているはずだよ」
蝶子は、震える手でそれらを受け取った。
「ありがとうございます。大切にします」
帰り際、守は蝶子に言った。
「気をつけるんだよ。過去を暴くことは、時として危険を伴う。でも、君なら大丈夫だ。蝉丸さんもそう信じていたはずだからね」
蝶子は深々と頭を下げ、店を後にした。
その夜。
蝶子は、曾祖父の遺品を丁寧に調べ上げた。絵の中には、不思議な象徴が隠されている。蝶。鏡。そして、月。
蝶子は、曾祖父・蝉丸の日記を夢中で読み進めた。
日記には、呪いについての記述があった。
『芸術の才と引き換えに愛する者を失う……この呪いは、我が家の宿命なのか。しかし、私は信じている。いつか、この呪いを解く者が現れると。その者は、芸術と愛を両立させる力を持つはずだ』
蝶子は息を呑んだ。自分こそが、その「呪いを解く者」なのだろうか? しかし、どうすれば芸術と愛を両立させることができるのか。
翌日、蝶子は画室で一日を過ごした。キャンバスに向かいながら、彼女の脳裏には家系の呪いのことが去来していた。筆を走らせるたびに、まるで過去の記憶が蘇ってくるかのような感覚に襲われる。
夕刻、ふと気づくと、キャンバスには不思議な絵が描かれていた。蝶が舞う姿。その羽には、鏡が映り込んでいる。そして月光が、すべてを包み込んでいる。
「これは……」
蝶子は自分でも驚いた。無意識のうちに、家系の象徴を描いていたのだ。
そのとき、ノックの音が響いた。
「どうぞ」
扉が開き、耕平が顔を覗かせた。
「やあ、蝶子君。調子はどうだい?」
「あら、耕平さん。いらっしゃい」
耕平は、蝶子の描いた絵に目を留めた。
「これは…… 素晴らしいじゃないか!」
「え?」
「この構図、この色使い。まるで、見る者の魂を揺さぶるようだ」
蝶子は照れくさそうに微笑んだ。
「ところで」と耕平は話題を変えた。「月光堂の守さんのところへは行ってみたかい?」
「ええ。色々と教えていただきました」
蝶子は、守から受け取った品々のことを耕平に話した。ただし、呪いのことは伏せたままだった。
「へえ、君の曾祖父の遺品か。これは貴重だね」
耕平は、蝉丸の絵を興味深そうに眺めていた。
「そうだ。良かったら、今度の展覧会に君の絵を出してみないか?」
「展覧会……ですか?」
「ああ。来月、新進気鋭の画家たちの作品を集めた展覧会があるんだ。君の才能なら、きっと注目を集めるはずさ」
蝶子は躊躇した。展覧会に出展するということは、より多くの人々の目に自分の作品が触れることを意味する。それは、芸術家としての第一歩。しかし同時に、呪いの影響も強まるのではないか。
「少し…… 考えさせてください」
「もちろん。焦る必要はないさ」
耕平は優しく微笑んだ。
その夜。
蝶子は再び鏡を覗き込んだ。今度は、若い女性の姿が映っていた。
『私は、鏑木蛍。あなたの祖母よ』
「祖母様……」
『蝶子、あなたは迷っているようね』
「はい。展覧会に出るべきか迷っています。でも、呪いが……」
『恐れることはないわ。芸術は、呪いを解く鍵になるかもしれない。それに、愛する人がいるなら、なおさらよ』
「愛する人……ですか?」
『そう。あなたの周りにいる人たちをよく見てごらん。きっと、大切な人が見つかるはずよ』
蛍の姿が霞み始める。
『そして、忘れないで。愛と芸術は、決して相反するものではないの。それを証明するのが、あなたの使命なのよ』
鏡の中の姿が消え、蝶子は深い思考に沈んだ。
数日後。
蝶子は、月光堂書店を再び訪れていた。
「守さん、もう一度、曾祖父の遺品を見せていただけませんか?」
「もちろんだよ」
守は奥の部屋へと蝶子を案内した。
「実は…… 展覧会に出展しようと思うんです」
「そうか。それは素晴らしい決断だ」
守は、にっこりと笑った。
「ただ、少し怖いんです。呪いのことを考えると……」
「蝶子さん」守は真剣な表情で言った。「呪いは、恐れるものではない。乗り越えるものだ。蝉丸さんも、そう信じていたはずだよ」
蝶子は、勇気づけられる思いがした。
「そうですね。ありがとうございます」
書店を後にした蝶子は、決意に満ちた表情で空を見上げた。展覧会。そこで、自分の芸術を世に問う。そして、呪いの正体に迫る。
そう、これは単なる展覧会ではない。家系の呪いと向き合う、一つの戦いなのだ。
蝶子は、画室へと急いだ。新たな作品を生み出すため、そして、自らの運命と向き合うために。
数週間後。
展覧会の準備が着々と進む中、蝶子の周りでも様々な変化が起こっていた。
耕平との関係は、どこか以前と違うものになっていた。二人で過ごす時間が増え、お互いの芸術観について語り合う機会も多くなった。
しかし同時に、蝶子の心には不安も芽生えていた。もし、耕平が「愛する人」になったら? 呪いの影響は、彼にも及ぶのだろうか?
ある夜、蝶子と耕平は街を歩いていた。
「ねえ、蝶子君」
「はい?」
「君の絵には、不思議な魅力があるんだ。見る者の心を揺さぶる、言葉では表現できないような……」
耕平は、真剣な眼差しで蝶子を見つめた。
「それは、きっと君の中にある何かなんだと思う。君の魂が、キャンバスに映し出されているんだ」
蝶子は、心臓が高鳴るのを感じた。
「耕平さん……」
二人の距離が、少しずつ縮まっていく。
そのとき??。
「おや、こんなところで会うとは」
声の主は、月光堂書店の守だった。
「守さん!」
蝶子と耕平は、慌てて距離を取った。
「二人とも、こんな夜更けまで何をしているんだい?」
守は、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「いえ、その…… 展覧会の準備の話を……」
蝶子が言葉を濁す中、耕平が口を開いた。
「実は、蝶子君に大事な話があって」
「へえ、そうかい」
守は、まるで何かを察したかのような表情を浮かべた。
「じゃあ、邪魔をしてはいけないね。お二人とも、気をつけて帰るんだよ」
そう言って、守は去っていった。
残された二人は、どこか気まずい雰囲気の中、家路についた。
その夜、蝶子は再び鏡を覗き込んだ。
『蝶子』
今度は、父・蓮太郎の姿が映っていた。
「お父様……」
『娘よ。お前は今、大きな岐路に立っている』
「はい。展覧会のことでしょうか? それとも……」
『芸術と愛、両方だ。だが、恐れることはない。お前には、それを乗り越える力がある』
「でも、どうすれば……」
『答えは、お前の中にある。ただ、一つだけ忘れないでくれ』
「何でしょう?」
『真の芸術は、愛から生まれる。そして、真の愛は、芸術を育む。その二つは、決して相反するものではないんだ』
蓮太郎の姿が消えていく。
「お父様、待って!」
しかし、鏡の中はすでに元の姿に戻っていた。
蝶子は、父の言葉を胸に刻んだ。芸術と愛。その二つの狭間で揺れ動く自分の心。しかし、それは対立するものではなく、むしろ互いを高め合うもの。
そう悟った瞬間、蝶子の中で何かが変わった気がした。
展覧会まで、あと一週間。
蝶子は、新たな決意と共に筆を取った。この作品に、自分のすべてを込める。芸術への情熱も、愛する人への思いも、そしてこれまでの苦悩も。
それが、呪いを解く鍵となるかもしれない。
そう信じて、蝶子は夜明けまで描き続けた。