第一章:鏡との邂逅
1924年、初夏の東京。
蒸し暑さの中にも、どこか生命力みなぎる空気が漂っていた。震災の傷跡はまだ生々しく都市の至る所に残っているものの、人々の表情には希望の光が宿り始めていた。
鏑木蝶子は、画室の窓から外の喧騒を眺めていた。二十二の春を迎えたばかりの彼女の瞳には、どこか物憂げな影が宿っている。
「蝶子さん、お客様がいらっしゃいましたよ」
女中のお絹の声に、蝶子はゆっくりと振り返った。
「はい…… 分かりました」
蝶子は立ち上がり、髪を整えながら応接間へと向かった。そこには、中年の紳士が待っていた。
「やあ、蝶子君。待たせてすまなかったね」
紳士は柔和な笑みを浮かべながら立ち上がった。蝶子の後見人である鷹取恭一郎だ。
「いいえ、恭一郎さん。お待たせしてしまって申し訳ありません」
蝶子は軽く会釈をしながら、恭一郎の前に腰を下ろした。
「それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」
「ああ、実はね……」
恭一郎は言葉を切り、懐から一通の封筒を取り出した。
「君のお父上の遺品整理が終わったよ。これは、彼が君に宛てて書いた手紙だ」
蝶子は息を呑んだ。父・鏑木蓮太郎??。彼女が幼い頃に失踪し、つい先日、その死が正式に確認された画家だ。
「……ありがとうございます」
震える手で封筒を受け取る蝶子。しかし、開封する勇気が出ない。
「それと、もう一つ」
恭一郎は続けた。
「蓮太郎君が残した蔵の中に、君宛ての品物が見つかったんだ。明日、そちらに届けさせよう」
「父が…… 私に?」
蝶子の心臓が早鐘を打つ。失踪した父からの最後の贈り物。それは一体何なのだろうか。
翌日、蝶子の元に届けられたのは、古びた鏡だった。
蔵から運び出されたばかりなのか、鏡の表面には埃が厚く積もっている。しかし、その下には美しい意匠が施されているのが窺えた。
「これが…… 父からの……」
蝶子は恐る恐る手を伸ばし、鏡の表面に触れた。
その瞬間だった。
鏡の中に、不思議な光景が広がり始めたのは。
そこには、蝶子の知らない風景が映し出されていた。古い日本家屋。そして、そこで絵を描く一人の男性の後ろ姿。
「お、お父様……?」
蝶子の声が震える。しかし、鏡の中の男性は振り返らない。まるで、過去の一場面が再生されているかのようだった。
突如、男性の隣に一人の少女が現れる。幼い頃の自分だと、蝶子にはすぐに分かった。
「なぜ…… こんな……」
困惑する蝶子。しかし、彼女の目は鏡から離れない。
鏡の中の父と娘は、楽しそうに会話を交わしている。蝶子には音は聞こえないが、二人の表情から、幸せな時間を過ごしていることが伝わってくる。
やがて、映像は霞み始め、鏡の表面は元の姿に戻った。
蝶子は、自分が涙を流していることに気がついた。
「父様…… 私、あなたのことを、ほとんど覚えていないのに……」
彼女は鏡を抱きしめ、静かに泣いた。失われた記憶。そして、これから明かされるであろう真実。すべてが、この鏡に秘められているような気がした。
その夜、蝶子は父からの手紙を開封した。そこには、簡潔な言葉が記されていた。
『蝶子へ
父さんが残した鏡を見つけただろう。
あの鏡には、我が家に伝わる秘密が隠されている。
過去を知り、そして乗り越えていくのだ。
お前なら、きっとできる。
父より』
蝶子は手紙を胸に抱きしめた。父の言葉。そして、不思議な力を秘めた鏡。
彼女の人生が、大きく動き出そうとしていた。