花飾り
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「土曜日、あの子の髪を結う」
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由比ヶ浜咲咲音には、憧れがあった。
黒く長く、艶やかな髪。テレビの向こうの特番で、MCを務めるアイドル「アイコ×3☆ミ」のセンター、ブラックアイコのような。
咲咲音の髪は脆く、髪質が終わっている。ボブカット、ショートカットすらできない。スポーツ少女でも今時そんな髪はしないだろうというくらいのベリーショートだ。この髪質が咲咲音はずっと、コンプレックスである。
そのコンプレックスの反動か、咲咲音は人の髪を弄るのがものすごく好きだ。好きが興じて、今ではYouTubeshort動画で有名人である。顔出しはしていないが。
咲咲音はコスプレ部という部活に所属していて、ヘアスタイリングを任せられるほどの腕前だ。ヘアスタイリング動画はかなりの伸びを見せ、学校の公式チャンネルの中で随一の再生数を誇る。……といっても、部活のモデルのエースの髪は触らせてもらえない。エースは髪質の保持に心血を注いでおり、咲咲音のコンプレックスであるベリーショートヘアを嫌っている。髪質を自分で管理できないやつに、自分の髪を任せたくないとのことだ。まったくごもっともであり、咲咲音は諦めている。
咲咲音の腕前を部員たちは知っているから、咲咲音を悪し様に言うエースのことを高飛車だとか、高慢ちきだとか言うけれど、咲咲音はエースに反論することはなかった。当事者同士が事を荒立てなければ、事件は起きないことを知っていたから。
何をどうしても、どうにもならなかった「持たざる者」の気持ちを「持つ者」は配慮しない。周りにはそう見えているのだろう。だが、咲咲音はエースが努力であの綺麗な髪を保持していることがよくわかる。自分の髪はどうにもならなかったけれど、妹たちの髪は綺麗に保っているから。
そして、もう一人。
「『アイコ×3☆ミ』って、最近伸びてるアイドルユニットですよね。あたし、J-POPに疎くて知らなかったんですけど、由比ヶ浜さんのおすすめなだけあって、ルックスもいいし、三人それぞれのキャラ付けがしっかりバランスが取れていて、安心して見ていられます」
硲美紅璃。アイドルに疎そうでありながら、ちゃんとそれなりに分析している咲咲音の同級生の少女である。
みどりの黒髪の目映い美紅璃と週に一度、美紅璃の家で落ち合い、美紅璃の髪結いを咲咲音はしている。今日は咲咲音の部活が休みなので、お互いラフな私服で、重陽特番というのを見ている。
美紅璃の母とは未だにエンカウントしたことがないが、水商売をしているのだとか。美紅璃がこれだけ美しいのだ。母親もさぞや美魔女であることだろう、と咲咲音はぼんやり想像している。
美紅璃は美しい髪を持つ割に、自分の見目に無頓着であるため、ざっくりと髪を一つに括っている。厚い髪に剛毛。咲咲音の憧れそのままの髪質の少女だ。
週一で髪結いをする、という奇妙な習慣から始まって、咲咲音は美紅璃の家に滞在する時間がだんだん長くなっていた。今では録画していた特番放送などを二人並んで鑑賞する仲になっている。
まあ、わざわざ「アイコ×3☆ミ」の出ている特番を見ているのにも、理由があるのだが。
「私のイチオシはセンターのブラックアイコちゃん! 今回は重陽ってテーマのある特番っていうこともあって、ヘアアレンジしてあるんです」
「確かに、ググったら、宣材写真は黒髪ストレートですね。特番衣装は普段のブラックと打って変わって、イエローですけど、それを着こなしてますし。トップアイドルになるの、こういう子なんでしょうね」
「そうなんです。それで、衣装紹介が『アイコ×3☆ミ』の公式ホームページでされているんですけど、ヘアアレンジまで細かく解説が入っていて」
その先を咲咲音が言うまでもなく、美紅璃は理解していた。
「いいですよ。たぶんこのブラックアイコとあたしの髪の長さ同じくらいでしょうし、再現にはもってこいですよね」
「ありがとうございます!」
コスプレ部で、「アイコ×3☆ミ」のコスプレをしよう、という案が出た。そうなると、センターとなるブラックアイコ役は言わずもがな、エースの子になる。
ということはあの幾重にも編み込まれた編み応えのありそうなヘアアレンジを咲咲音は部活ではできない。それでも推しのヘアアレンジに挑戦してみたい、という咲咲音の情熱は抑えきれず、美紅璃に頼んだのだ。
「きっとこのレベルの編み込みしてたら、帰ってきた母が引っくり返ると思う」
「そうですか!? そうですよね!!」
美紅璃から許可が出たことで、もう始める前から咲咲音は興奮しきりである。美紅璃はそんな咲咲音の表情を微笑ましく眺めていた。
けれど、美紅璃は心中に、淀んだ感情が渦巻くのを感じる。咲咲音は髪質のことを除けば、特に欠点のない朗らかな少女だ。コンプレックスから心の底から笑うことのできない彼女をここまで素の笑顔にできるのは、自分しかいない、と優越が心の中に滲み出る。
美紅璃にとって、週に一回のこの時間は、至福のときだった。咲咲音の知識は勉強にもなるし、咲咲音の熱量には美紅璃の方が憧れていた。
好きなことに夢中になれる女の子はかわいい。美紅璃は咲咲音のことをそう思っている。譬、見た目が女の子とは思えないくらいでも、髪結いという特技を存分に発揮しようとする咲咲音の姿は目映く、輝いて見えた。
コンプレックスだというベリーショートにせざるを得ない髪型だって、美紅璃からすれば、咲咲音の魅力の一つだ。自分自身にハンデがあるからこそ、他者に全身全霊を注げる。そんな咲咲音の内包する真の魅力に気づいているのはおそらく自分だけだ、と思うと、たまらなくなる。
美紅璃は咲咲音のおかげで髪の手入れを一人でも十全にできるが、それでも咲咲音の訪問を毎週楽しみにしているのは、咲咲音に結ってもらうことこそが大きな意味であり、価値だからだ。
コスプレ部のエースは馬鹿だと思う。咲咲音の内情をよく知りもせず、突っぱね続けているなんて。でも、それでいい。きっと、咲咲音の魅力に気づいてしまうから。
咲咲音のこの笑顔を知っているのは、あたしだけでいい、というある種の独占欲から、美紅璃は咲咲音を拒まずにいる。
髪に手櫛を通す咲咲音の手が心地よい。絡まないように、毛先から丁寧に、頭をほぐしていく目的も含めているそれは咲咲音がどれだけ髪結いに心を注いでいるか、よくわかる。
編み込む最中も、頭の締め付けや痛みがないか、逐一確認してくる咲咲音の気遣い。それが今までは乾いて、冷えきっていた美紅璃の心に温もりを教え、潤いを与えていく。
だから、美紅璃はこのときが永遠に続けばいいと思うくらい、咲咲音のことが好きだ。
それは憧憬、もしくは恋に近かった。
だから、美紅璃は咲咲音から重陽企画のヘアアレンジの提案があったとき、使い道がなくて貯まりっぱなしだった貯金を初めて崩した。
「できましたよ! 動画も撮らせてもらって、ありがとうございます」
鏡を渡され、美紅璃はおお、と感嘆する。すごい再現度だ。
普段なら、ここから咲咲音の長い解説が始まるのだが、美紅璃はすくっと立ち上がり、棚に置いていた小綺麗な箱を手に取り、咲咲音に差し出した。
唐突なことに、当然ながら、咲咲音はきょとんとする。美紅璃は意を決して、告げた。
「いつもお世話になっているので、細やかながら、プレゼントです」
「え、あ、え、……ありがとうございます」
美紅璃に促され、箱を開くと、それは菊の飾りのついた、髪留めだった。ピンの部分が頑丈にできていて、どんな髪質でも、好きな場所に固定できる。
「あ、でも、髪留め、どうやって使ったら……」
「貸してください。これを項より少し上で留めて……ほら」
今度は、美紅璃が咲咲音に鏡を見せる。咲咲音はそれを見て、息を飲み、目を潤ませた。
咲咲音の首筋に、白い菊が咲いている。髪質なんて補ってあまりあるほどに、綺麗で。
私が、髪留めを使ってもいいんだ、と感動した。
美紅璃は微笑む。
「お気に召していただけましたか?」
「はい……ありがとう、ございます……」
「敬語」
美紅璃はふっと苦笑して、提案する。
「もうそこそこ長い付き合いですから、敬語外していいですよ」
美紅璃の指摘に、咲咲音はくすりと笑う。
「硲さんこそ」
「ふふ、美紅璃でいいですよ、咲咲音さん」
その優しい声音に、自然と咲咲音の口元も綻んだ。
「ありがとう、美紅璃ちゃん」
「はい、これからもよろしく、咲咲音さん」
これからも、という言葉に咲咲音は胸がいっぱいになった。
次は美紅璃に、どんなヘアアレンジをしようかな、なんて、考えるくらいに。