二日目 神島へと 1
翌日、早朝に無理矢理起きた俺は、一つの目的のために自転車をこいで、朝早く船着場に向かった。
秀司には先に行く、とメッセージを打っておいた。
空はまだ暗い。日の出まで後もう少しある。当然のようにまだ閉まっている船着場にかかっているチェーンを無視して入り、海を見る。
今日は予報どおり快晴だ。海の向こうの神島がよく見える。
古くて頼りない、木でできた桟橋に座り込み、その時を黙って待つ。
俺がそうしていると、ぎしり、と桟橋が音を立てた。俺はスマホを見る。ちょうどテレビで言っていた、日の出の時刻。
まったく、時間ぴったりだな。
チェーンを乗り越えて歩いてきているのは、貴子だ。俺がいるのに驚いたのか、僅かに眼を見開いたが、すぐに平静に声をかけてくる。
「おはよう」
「おはよう。日の出の時刻は、神島に朝日がかかる時間じゃないぜ?」
俺のその言葉に、貴子は苦笑して、俺の隣に腰を下ろす。
「仕方ないでしょう。そこまではわからないわ」
貴子の視線はもちろん、神島。
俺も視線を戻すと、横から声だけが届く。
「一瞬も見逃したくないの」
その意見には賛成だった。
「そんなに神島が好きなのか?」
「神島に朝日がかかるのがね。あんたが教えてくれたんでしょ」
そういえば、そうだったな。
「辛いことや悲しいことがあっても、これを見れば忘れられる、って」
「辛いのか?」
あまり感情を表に出さない貴子から、辛い、という言葉が出たのが意外だった。
それこそ、この景色を教えたとき以来かもしれない。
貴子は俺に視線を向けずに、答える。
「さあね」
まったく、素直には答えないやつだ。
しばらく無言で待つ。空がだんだんと青くなってくる。バッグに入れた空真珠と、同じ色に。
不意に、着信を知らせる音が鳴った。葵だ。しまった、言ってねえ。
「はい」
「ぐぅっどもーにんぐ! 良介! 起きろ~!」
「すまん、今日起きてるわ」
ほんとに申し訳ない。
「ええっ! 何この予想もしないはっきりした返事!」
「いや、起きてるんだって、今日」
「うわわ! 天変地異?」
「違う」
俺が早起きすると地震でも起きるというのか。
「んで、今何してんの?」
急に葵のトーンが落ち着いてくる。
「船着場でぼーっとしてる」
「はい? ちょっと早すぎない?」
「ん、まあ。ちょっとな」
別に隠すことでもないが、朝日を見にきた、ってのは臭すぎると思い言葉を濁すと、葵は珍しく神妙な声で尋ねてきた。
「ふーん。一人? そりゃそーか」
「いや、貴子も来てるぞ」
そう言った瞬間横から肘が飛んできた。痛え。知られたくないのか?
「……ふうん、そっか」
気のせいか電話口の葵の声が平坦なものになっている。俺は思わず声をかけた。
「どうした?」
「ん、んん? いやいや、何でもないよ、なっはっは」
無理すぎる。無理がありすぎる。ようやく意味を悟って、そしてそれに気づかない様子を演じる。
「そか。それならいいんだけどな」
「うんうん。じゃ、後でね」
ぷつり、通話が切れてから、俺は貴子を見た。貴子はこちらを見てこない。
視線は、固定したまま、神島を指差す。
朝日が、島にかかっていた。
太陽の光が後光のように。その島に、神が降りるかのように、降り注ぐ。
幻想的で、魅力的で、そして何より美しい。
夜は明ける。朝日は昇る。たとえ俺が何を考えていても、関係ない。
自分が持っているもの、抱えているものがいかにちっぽけかを思い知らせるように、その景色は俺の前にある。
俺は心が洗われる気持ちのまま、傍らの女性に声をかける。
「貴子」
「いらないわ」
いつもありがとうな。
面倒ばっかりかけて、悪いな。
色々な意味を込めたつもりのその呼びかけを、内容をきちんと理解して、彼女は拒絶する。
「感謝も、謝罪も、わたしにはいらない」
視線はこちらを向かず、しかし貴子は微笑む。
「良介がわたしにこの景色をくれた。それだけわかっていれば、充分」
初めてこいつと会ったとき、俺はこいつの名前しか知らなかった。こいつは俺の名前すら知らなかった。
「この先、何があっても、この景色を覚えておけば、きっと大丈夫」
それでも、今はこんなにも、同じ景色を見て同じ気持ちになっている。
――そうだな、俺もそう思う。
貴子の呟きに、俺は心の中で同意する。
沈黙が満ちる。何とも穏やかで、心地いい時間が過ぎていく。
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