一日目 終わりの始まり 3
安っぽく、ところどころペンキのはげているアーチをくぐると、海岸沿いに伸びている、これまた年季の入ったコンクリートで出来た堤防の上に、誰かが座っているのが見えた。秀司が声を上げる。
「お、あれは……」
「珍しい奴が先に来てるな。まだ十時じゃないだろ?」
「ああ」
俺と秀司は堤防沿いに自転車を止め、鍵をかけて階段を登る。ことさら足音を立てたつもりもなかったが、彼女はすぐにこちらをちらり、と一瞥した。
「おはよう、二人とも」
「おはよう」
「おはよーさん」
笑顔を省略して俺たちに朝の挨拶をしてきたのは、女性だった。名前は、三島貴子。長い黒髪を潮風に遊ばせるその姿は、着ているグレーのワンピースとワンポイントの大きな白いベルト、本人の整った顔立ちと合わさって、一枚の絵画のようですらある。
「貴子が先に来てるなんて、珍しいなあ」
秀司が軽く声をかけ、隣に座ると、貴子はまあね、とだけ答えて、海の方へと視線を戻した。
この貴子という女は、時間の使い方がとても上手い、いわゆる秀才タイプの女だ。
待ち合わせ時間より決まって先に着くのは、秀司と俺。
絶対に遅れて来るのが、美香。
葵は適当だから、どちらもある。
そして、眼の前の女、三島貴子は、時間通りに来る。いつでもぴったりと、一分のずれもなく。
貴子の座っているそばに、空になった缶コーヒーが二本、転がっているのを見て、俺は立ったまま声をかけた。
「葵ももう来てるのか?」
俺の鋭い予想にしかし貴子は海の方を見たまま首を振る。
「まだよ。自転車がないんだから、わかるでしょ」
そういや葵も自転車だったな。貴子と美香はバスだが。
と、いうことは。
「貴子、お前何時から来てるんだ?」
そこで貴子はようやく俺を見た。気づいたことが意外とでも言うように。
「珍しく鋭いわね。どうしたの? 悪いものでも食べた?」
言いやがった。
「食ってねえ! で?」
結構しつこいな、俺。
「何時だと思う?」
質問に質問で返すな。そう思いながらも俺は律儀に答える。
「九時くらい?」
「そうね。そんなものね」
俺の答えに即座に頷いてきた。そして、話は済んだとばかりにまた視線を海の方へやる。
俺は座りもせず、貴子の視線の先を見た。曇り空のせいか少し霞んでいるが、沖の方に島が見える。
神島だ。
貴子は来週から京都の有名大学へ通うことが決まっている。うちの高校からは今年ただ一人の快挙だ。
絵に描いたような美人で、飛びぬけて頭が良い。才媛という言葉がこれほど似合う奴も珍しい。
ちょっと口はきついけどな。
「珍しいな。お前が時間より早く来るなんて」
「まあね」
俺の軽口に、やはり貴子は振り返りもせずに、答えた。
寄せては返す、波の音が響く。空のせいか、海もあまり綺麗な色じゃない。
――それでも俺は、この景色が嫌いじゃない。
こうやって、仲間と見れるなら、なおさらだ。
「いや、しかし、こりゃ一雨くるかなあ」
「それはあんまり嬉しくねえな。傘持ってきてねえ」
「あ、それは俺も」
「つか、ちょっと寒くねえ?」
「お前半袖だからだろ」
「あ、そか。パーカー貸せ」
「断る」
秀司と俺がぐだぐだといつも通り喋り始めても、貴子は特に何を言うでもない。
これもいつも通りだ。こいつは、無駄なことをしない。そもそも俺たちと遊ぶのが時間の無駄だ、ってのは置いといて。なぜこいつが俺たちみたいな連中と一緒にいるのかが、新学校の七不思議の一つになっていることも、置いといて。
そんな、無駄なことをしない奴が、朝早く一人来て、神島を眺めてたなんてな。
なんてのは、俺の勝手な思い込みかもしれないけどな。貴子の本音なんて聞きだせるものじゃないしな。
ちりんちりん、と自転車のベルを鳴らす音が、俺の意識を現実に引き戻す。
「ぐぅっどもーにん、おーる!」
明るい声と、ベルの音を引き連れて、高橋葵が到着した。
がしゃり、と音を立てて自転車を止め、たったったっ、とリズムよく階段を駆け上がってきた葵を、俺たちは朝の挨拶で出迎えた。
「おっはよー!」
明るい声で同じ挨拶を返す葵を見上げる俺。立っているのに、見上げる。
そう、葵は背が五人の中で一番高い。百八十センチを超える長身で、さらに垂直跳びは九十センチを記録するという。その三メートル近い打点から繰り出されるスパイクは、通称ナイアガラスパイク。フリーフォールのような軌道で叩き落されるボールは、高校生ではまずとれないという。日本バレーボール界の期待の星であり、将来はオリンピック選手も狙える逸材、どころか既にオリンピック候補であるのに、それを蹴飛ばした、強者。
なぜ辞退して俺たちとつるむことを優先したかは、新学校の七不思議の一つである。
理由は俺に聞くな。俺だけには聞くな。
髪はショートで、服もこざっぱりした、スポーツブランドのロゴが入った紺色のポロシャツに、薄いブルーのジーンズ。足元は星のマークがサイドにプリントされたスニーカー。いかにもスポーツ選手といった、いつもの葵の格好だが、俺は一つの異常を発見した。
「あれ、お前髪型変えた?」
いつもはさらりとした自然体のショートヘアが、毛先を少しずつ束ねて遊ばせている。それを指摘すると、葵は嬉しそうに頷いた。
「そうそう! 美香に教えてもらったのを試してみたの! 似合う?」
全員に見せるように狭い堤防の上でくるり、と回る葵。やめろ、とりあえずその仕草は似合わん。
「ああ、いいんじゃないか」
「そうね、可愛いわよ」
秀司と貴子が誉めると、葵はなっはっはー、と明るく笑った。そして、こちらをじっ、と見てくる。
「良介は? どう思う?」
「ん? まあまあ似合ってるぞ」
俺の返事に葵は微妙な表情になった。そしてすぐに不満の意を表明する。
「まあまあ、って何よ、まあまあって! もうちょっと気の利いたこと言いなさいよ!」
「あー、じゃあ、よく似合ってる」
「じゃあ、じゃないわよ! このトーヘンボク!」
「お、今珍しい言葉使ったな」
俺のずれた突っ込みにも葵はいちいち対応する。
「でしょ? この前テレビで言ってたのよ。遣唐使が持ち帰った変な木並みの役立たなさ、って意味なんでしょ? 受けるよねー!」
「葵、それ間違ってるわ」
からからと笑う葵に、俺が何か言うよりも早く、貴子が突っ込んだ。
葵はがびーん、と自分で音にしてショックを表している。
だがそのショックは二秒と葵を止められず、矛先は再び俺に向く。
「良介がもちっと気を使え、なんて言うから頑張ってみたのにさ! なんだよなんだよ、そのつれない態度は!」
「んあ? そんな事言ったっけ?」
覚えがないので、そう返すと、葵は噴火した。
「こらー! まったく朝は使いものになんない奴だなー!」
「しょうがないのよ。朝の良介は脊椎反射で生きてるから」
「あ、そっかあ。じゃあしょうがないね。許してあげよう! 有り難く思え!」
貴子に誘導されて機嫌が直っていく。相変わらずテンションの上下が激しい奴だ。
一通り騒いで満足したのか、葵は俺の前を通り過ぎて、貴子の隣に座った。
「まったく、朝のあの言葉も忘れてるんでしょ、この馬鹿」
俺の前を通り過ぎるときに、ごくごく小さく呟かれたその言葉は、恐らく葵の意図とは裏腹に、俺の耳にしっかりと届いていたが。
――卑怯にも、俺は聞こえていない振りをした。
それに気づいてか、気づかずか、葵は特にどうということもなく、貴子に声をかけ始めていた。
「そういや今日は早いね」
「みんなしてわたしを何だと思ってるの? そういうこともあるわよ」
さすがに三人にそろって言われて嫌気が差したのか、うんざりしたように貴子が答える。
そういうことが全然なかったから、みんな言ってるんだがな。
「えー、でも貴子って電波時計みたいに正確じゃん!」
「人を怪しい電波な人みたいに言わないで」
なおも疑問を口にする葵を一蹴し、貴子が時計を見た。つられて、俺も自分の携帯を見る。
時間は十時ちょうど。
誰も彼もが普段とちょっと違う行動をする、この最後の一週間の初日。
榊美香だけが、いつも通り、待ち合わせの時間には現れなかった。
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