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五日目 三島貴子 4

 秀司の運転する船は、危なげなく埠頭に着眼した。二人がかりで手早く船を固定する。


「じゃ、俺は寝なおすわ」


 それだけ宣言すると秀司はさっさと歩き始める。多分、起きた後、動くんだろう。

 乗ってやる、って言ってくれたってことは、そういうことだ。

 同い年のはずなのに、やけに大人びて見える背中を見送って、俺は一つ拳を打ち鳴らした。


「さて、こっちも行くか」


 あたりはまだ暗く、目当ての人間の姿は見えない。間違いなく、探しても見つけられない。

 それでも、あいつが行く場所だけはわかっている。

 俺はそこで待っていればいい。




「さぶ……」


 一人でずっと座っていると、明け方特有の冷気が、俺の身体を震わせた。東の空は白み始め、うっすらと青空がのぞいている。

 そろそろ、時間だ。

 そのまま少し待つと、足音が聞こえてきた。古くなった桟橋はぎしぎしと音を立て、来訪者の存在を強調する。


「よう」


 俺が振り向いて、声をかけたのはもちろん、貴子だ。俺がいることに、驚いた様子もない。


「おはよう」


 ただ事務的な返事だけを返して、俺に缶コーヒーを渡してくる。あったかい。

 やっぱり、すべてお見通しか。


「予想通りの馬鹿なのね」

「まあ、お前に比べれば大概のやつは馬鹿だな」


 話すことはない、と言いながら、俺に機会を与えてくれる。美香のように真っ直ぐじゃない、斜めから入ってくる優しさ。

 そんなにいいやつなのに、なんでそこにいなきゃいけないんだ?


「話すことは」

「わたしにはないわ。目的はほぼ果たした」


 貴子が俺の隣に座る。朝日が昇り始めている。


「俺を救って、それで自分は去って、満足か」

「まあ、そうね」


 俺の嫌味も、あっさりと肯定してくる。


「楽園は続く。終わりはあるかもしれないけれど、とりあえず明日じゃない。わたしみたいな歪んだやつがいなければ、より長く続くでしょう」

「饒舌だな、珍しく」


 俺が突っ込むと、貴子は笑みを浮かべた。嫌みのない、普通の笑み。

 朝日のよく似合う、笑み。


「最後だから。答え合わせをしてあげようと思って」

「そっか」

「ええ」


 それきり、二人とも黙りこむ。ただ、その風景を見つめる。


「この景色も見納めか」


 いつもなら黙れ、と言われるところで、貴子は何も言ってこなかった。


「ロンドンは、遠いぜ?」

「秀司ね」


 俺がロンドンに行くことを知っている、と告げても、動じない。視線は固定されたまま。


「どこに行っても、この景色を覚えておけば大丈夫。これも言ったわ」


 聞いたな。だけど。だけどそれは――


「血を吐く思いで作って、呪文のように繰り返す、言い訳か?」

「!」


 初めて、貴子がこちらを向いた。神島から、それにかかる朝日を見ずに、俺を見る。


「同類を、なめんなよ」


 俺は強く笑みを浮かべてみせる。

 さあ、ここが正念場だ。




 完全に固まった表情の貴子を見るのは初めてだ。いつもとのギャップが可愛らしいが、そんなことを気にしている場合じゃない。


「それは嘘じゃない。けど、納得もできないよな」


 俺は言葉を続ける。貴子は沈黙を保つ。


「誰かにそれを否定してほしくて。わかったようなことを言うな、って言ってほしい気持ちが、あるよな」


 そこまで言ったところで、貴子の眼が細められた。


「なるほどね」


 平坦な、もう聞きなれた調子の声。最近では、聞くことの少なくなっていた声音で、貴子は続ける。


「あのとき、あんたはこんな気分でいたのね。それは、悪かったわ」


 貴子はちらり、と海を、その先にある島を見てから、続ける。


「けれど確かに、あの言葉は、この景色は、わたしに響いた」


 苦笑すら浮かべて、彼女は続ける。


「あんたには、わたしの言葉は響かない?」


 響くわけ、ねえだろ。


「お前は、自分に言い聞かせているだけだ。俺には何も、言ってねえ」


 頭の回るお前が、そんなことにも気付かないのか? そんなに、追いつめられていたのか?

 血を吐くように、言い聞かせたお互いの言葉。

 でもな――

 俺は、お前を押し上げるために必死で紡いだ。

 お前は、俺に理由を説明するために、自分に語っているだけだ。


「だから、響くわけねえだろ。もっと、周りに思いを伝えてくれよ」


 俺は、いつの間にか激情にとらわれていた。

 初めからか。今この瞬間なのか。本当に、いつからかわからない。

 ただ、その感情を抑えられず、叫びに変える。


「全力を尽くして、助けるだけじゃねえ! 全力で、秀司に、葵に、美香に!」


 きっと、あのときの、俺の自虐に心の底から怒ったお前と、同じように。

 俺は、自分の感情を叩きつける。


「俺に! ちゃんと言えよ! 困っているって! 力を貸してくれ、って言えよ!」


 口から吐き出すのは、同じ言葉。まったく、どこまでも似ているな、俺たち。


「俺たちは、友達だろうが!」


 貴子の瞳に揺れる感情は、何だろうか。相変わらずわかりにくいけれど、きっと、あのときの俺と同じはず。

 貴子は一瞬眼を伏せ、そして上げる。その顔に浮かべるのは、さっぱりとした笑み。


「ああ、やられたわ」


 そのまま、笑みはまたそれに変わる。


「ここまではわたしの負け。じゃあ、最後の問題といきましょうか」


 相手を、自分を嘲る嘲笑に。


「あんたは、みんなが進路を決めた順番を、その理由を。ちゃんとわかっている?」


 今度は俺が固まる番だった。

 ……なんだ、それ?

 進路の決め方にすら、意味があるってのか?

 だとしたら。もし、もしも。

 俺の存在が、みんなの進路に、その輝ける未来に、悪影響だったとしたら。

 俺はどうやって、詫びればいい?

 みんなが与えてくれただろう優しさが心に染みるが、それ以上に恐ろしい。

 かちかち、と歯が当たる音がする。……震えているのか、俺は?

 貴子の顔をまともに見ることができない。できるはずもない。

 それでも、歯を食いしばれ。

 まずは、考えるんだ。




 俺たちの進路は、バラバラの時期に決まった。

 最初に決めたのは、美香。それからわずかに遅れて、秀司。

 この二人は早かった。まあ、行くべき場所がほとんど決まっていたのだから、当たり前かもしれない。

 三年の十二月になって、葵が推薦を決めた。そのすぐ後、貴子が志望校を公開した。

 神戸、北海道、九州、京都。見事にバラバラだ。

 そして俺は、一月の初めに。ようやく決めた。さらにバラけさせる、東京の、私立大学に。

 そうだ、俺が最後に決めたんだ。

 俺が最後に、みんなと違うところに決めたということは。

 もしかして。

 俺が、みんなの中の誰かといることを、拒否したことになるのか?

 ――待て。それだけじゃない。

 貴子は、京都の大学の前期試験を受けなかった。それが二月の終わりだ。

 三月四日の卒業式もいなかった。

 受けたのは、十五日の後期試験だ。

 ……なんでだ? なんで、前期を捨てた? 

 そこで俺は一つの、身勝手な予想に達する。まさか。

 俺が京都に行かないことを決めたから。それが答えととらえられたから。

 もっと遠い、ロンドンへ行こうとした?

 前期試験も、卒業式も、いなかったのは。

 もしかして、急に変更する進路のことで、忙しかったのか?

 俺はそれを、傲慢にも口にする。答え合わせをするために。

 できれば、何その自信過剰、とか言ってほしいんだけどな。


「花丸をあげるわ」


 どうにもこうにも、そう甘くはないらしい。


「そう。あんたが、選んだの。誰も選ばないということを」


 彼女の浮かべる嘲りの笑みは、一層深く。


「だからわたしは決めた。楽園を出ることを」


 彼女の表情を、俺の心を、切り刻んでいく。


「あんたにとってわたしは、絶対に必要なものじゃない」


 こぼれおちる、本音。


「それが、どうしようもなく、悲しかった」


 はじめて貴子の心の底に触れられたのに。

 どうして俺は、返す言葉を持っていないんだろう。




 最後の問題に答えを返すことができずに、俺は打ちのめされていた。

 嘲笑を浮かべていた貴子は、そのまま俺を睨みつけて、不意に、嘲る笑みを寂しそうなものに変えた。


「残念、ね」


 そのまま、くるり、と俺に背を向ける。いつの間にか神島にかかっていた朝日は、ゆっくりと離れていこうとしていた。


「ちょっと期待していた。あんたが、いつかと同じように、何もかも吹き飛ばすくらいの、いいものをくれるって」


 貴子はどんな顔で、どんな思いで口にしているのだろうか。

 俺には、見えない。わからない。想像ができない。


「期待外れだったわ」


 その言葉を最後に、貴子は歩き始める。俺は、追いかけることができない。

 段々と小さくなっていく姿。それでも、走ればきっとすぐに追いつける。

 それなのに。追いつけるはずなのに。

 足が、動かない。前へと、踏み出せない。

 決めたはずなんだ、進むんだって。

 歯を食いしばって。しっかりと立って! 前へ一歩、踏み出すって決めたんだ!

 なのに、なのにどうして!

 足が、動かないんだ!


「うわああああああああ!」


 俺の絶叫が、聞く者のいない船着き場に虚しく響いた。

お読みくださりありがとうございます。

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よろしくお願いします。

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