五日目 三島貴子 2
午前三時に起きて、すぐに家を出る。貴子の家は、目的地からはかなり遠いので、俺の家までタクシーを使った。普通なら補導されてもおかしくないが、貴子の家を見て、迂闊なことは尋ねないことにしたらしい運転手のおかげで、騒ぎにはならなかった。
当然のように誰もいない俺の家から自転車を取り出して、貴子を後ろに乗せる。
俺は勢いをつけるために立ち漕ぎで、ぐいぐいとペダルを踏み込んだ。秋の肌寒い空気が、俺たちによって掻き分けられていく。
十分にスピードが乗ったところで、俺はサドルに座りなおした。貴子は俺の腰に腕を回すこともなく、荷台の上に手をついて、器用にバランスをとっていた。
「気持ちいいものね、たまには」
後ろからかけられたその声には、いつもよりも僅かに穏やかだった。その声に反応するでもなく、俺は自転車を進め続ける。
貴子も特に気にした様子もなく、無言に戻っていった。
静かな夜の街。静かな二人。ペダルを漕ぐ音と、お互いの息遣いだけが聞こえる。
不思議な気分だった。
俺たちは、さっきまで閉じた世界で、傷を舐めあうような、無言でいたのに。
静かな広い世界では、その無言すら、俺たちを救ってくれる気がする。
いや、俺が救われる必要はない。俺はそんなこと望んでいない。
だから、こいつだけは――
ちゃんと、押し上げてやらないと。
「船着場?」
俺が自転車を止めたところで、貴子がその場所を確認するように声を上げた。俺はそれに頷く。
「ああ」
「ここに何があるっていうの?」
「来ればわかる」
俺が答えるつもりがないことを悟ったらしく、貴子は一瞬鋭い視線をよこしてきたものの、それ以上の文句を言わずに、ついてくる。
二人して、渡してあるチェーンを乗り越えて、中に入る。そして、空が白み始めている方向にある、桟橋へ歩いていく。
俺がその先端で座り込んだ。貴子も躊躇せず、俺に倣う。
「ここさ」
俺が口を開いたので、貴子は顔をこちらに向けてきた。俺も同じように、貴子を見る。
「ここさ、俺の親父が、まだちゃんと家庭があったときに連れてきてくれたんだ」
貴子は相槌をうたず、ただ聞いている。それだけを確認して、俺は続ける。
「まあ、今は正直、どうしようもない夜とかあるだろ。辛くって、苦しくって――ちょっと、死にたくなる夜」
「そうね」
貴子が頷く。やっぱりお前もそうか。
「そんな後は、ここに来るんだよ」
「そう」
俺は視線を海へと戻した。計ったかのように、水平線の向こうから、それは昇り始めていた。
貴子も海へと視線を向け、少しの間固まって、やがて身体ごときちんと正対して、見た。
神島に、朝日がかかる。
「これを見ると、自分の悩みが小さい、って。世界は案外、いいものかもしれないってさ、思うんだよ」
「黙って」
俺の言葉を遮って、貴子は瞬きもせずに、見つめる。
小さな、ちょっと歪な形の神島が、背中に太陽を浴びて。その光に染められて。
白く、透明に。けれどもしっかりと輝いて。神島は、凛として強く、誇らしげにさえ見える。
俺も心が洗われるような気分になって、ふと横を見ると、貴子の顔に、笑みが浮かんでいた。
全てを拒絶する、歪んだ笑みじゃなく、人形じみた顔に、生気を与えるような、綺麗な笑み。
ああ、こいつって、朝日も似合うんだな。
少しだけ寂しく思ったけれど、俺はちゃんと、そう思うことができた。
たっぷりと時間をかけて俺たちはその景色を眺めていた。やがて朝日が島を離れた頃、ようやく貴子は視線を神島から離して、俺の方を向いてきた。
「これが、いいもの?」
「ああ」
「そう」
俺の返事に短く頷き、立ち上がる。あわせるように、俺も立ち上がる。
「あんたは、凄いのね」
「は?」
貴子からかけられた思いもよらない言葉に、俺は首を傾げたくなった。
「ちゃんと前を向こうと、しているのね」
俺は答えない。答えたくない。
「わたしとあんたは、同類なんだから。わたしもちゃんとしないとね」
さらり、と貴子が自分の髪を梳いた。
「けれど、そのためには」
「ああ。もう泊まりあったりは、なしだ」
あの閉じた世界にいては、俺たちはどこにも行けない。貴子は前に進めない。
「じゃあ改めて、よろしくね。北見良介。今度は同類なだけじゃない。一緒に進む、友達として」
「ああ、よろしくな。三島貴子」
「貴子でいい」
「じゃあ、俺も良介で」
すっ、と貴子の手が差し出される。俺はそれを、しっかりと握った。
泊まったり、泊まられたり。けれども決して、触れ合うことのなかった俺たちは、初めて、お互いの身体に触れた。
交わした握手は暖かく。
そして、ちょっと寂しいものだった。
だって、俺は、俺だけは、あの閉じた世界にいるしかないんだから。
この景色を見せてやりたかった。貴子を押し上げたかったから。
この景色を見ていたら、自分の悩みは小さい、って思える。世界は案外、いいものかもしれないっていうのも、嘘じゃない。
でも――でもさ。
そんなのは、言い訳なんだ。自分自身がまだきちんと前を向くなんてできなくて、心の整理なんてつけようもない。
それでも、毎日生きていくための、自分自身への言い訳なんだ。
血を吐くような思いで作り、呪文のように繰り返してきた言い訳は、俺の狙い通り、貴子に何かを与えたと思う。
けれど、俺は納得できないまま。
それを言い訳だって、自分の醒めた部分が囁いてくるまま。自分だけは、そこに閉じこもったまま。
俺は、美香と出会う。
そして、彼女を傷つけ――
前を向き始めた貴子に、すべての本音を暴露させられる。
それで、俺も引き上げられる。ここで結末なら、最高だったのに。
俺と貴子は、自分達が歪なままだということを。ましにはなっても、根本的に歪んでいることを。
再び、思い知ることになる。
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