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四日目 榊美香 2

 俺と美香が付き合い始めたのは、高校一年の冬休み前だ。そのときまで俺は榊美香という存在を知らなかった。そのときの俺は、家のことをすっかりと諦め、秀司や葵、それに秋口から友達になった貴子と遊ぶことが多かった。

 とはいえ、どうやら葵を傷つけたらしいことを貴子に指摘され、もう少し女心を理解する必要を感じていた。

 だから、美香が告白してきたのは、好都合だった。

 正直に言ってしまうと、美香なんてどうでもよかった。もっと言えば、誰でもよかった。

 葵と貴子じゃなければ。友達じゃなければ。

 何かあって別れても、俺の心は痛まないと思ったから。


「北見君ってさ、結構格好いいじゃん。しかもあんまり束縛しなさそうだし」


 そう言ってくる美香は理想的な存在だった。


「あたしも友達と遊びたいからさ、お互い縛るのなしで、つきあわない?」


 つきあう、ってのがどういうことかを知りつつ、今の友人たちを傷つけない。

 まさに理想的な存在だった。


「いいぜ」


 だから俺は彼女を受け入れた。


「ホント? よかったー!」


 だから俺は、彼女がどうしてそんなに喜んでいたのか、理解しなかった。




 そうしてつきあい始めた俺たちは、やはりどこか歪だった。俺はいつでも秀司達との約束を優先したし、美香はそれに文句を言わなかった。

 しかし、美香は強かだった。折を見ては俺に弁当を作ったり、予定がないことを確認して当日遊びに誘ってきたり。多分俺の危うさは、お見通しだったんだろう。

 ゆっくりと、時間をかけて、俺の心を解いていこうとしてくれた。

 別れて、ずいぶんたってから、ようやく分かったことだけどな。

 キスも、美香からだった。我ながら情けない話とは思うが。


「ねえ、良介」


 桜の下の、ぎこちない、一瞬のキスの後。はにかむような笑顔で語りかけてきた、美香の言葉を今も覚えている。


「つきあうのって、怖いことじゃないんだよ」


 俺の傷を、いたずらに見ようとせず。けれど、触れないわけじゃない。

 ゆっくりと、優しく。彼女は癒そうとしてくれた。


「触れ合うのって、悪いことじゃないんだよ」


 彼女の心が嬉しくて、俺はようやく、前に進めそうな気がした。


「ああ、そうかもな」


 俺が呟くと、美香は花が咲いたように笑った。


「やっと、笑ってくれたね」


 俺の顔を見つめてから、美香はもう一度その桜の花びらみたいな唇を俺に重ねてきた。

 俺ははじめて、彼女を抱きしめた。




 美香は俺を縛らず、無理をさせず。それでも一歩ずつ進めていこうとしてくれた。

 本当の意味での、恋人関係を築こうとしたのだろう。

 俺は完全に美香のペースに乗せられて、それが悪くない気分だった。秀司や葵、貴子と遊ぶ機会は自然と減っていった。

 くだらない両親の関係を考えることも減っていった。

 今まで知らなかった暖かい時間を過ごしていると、瞬く間に半年が過ぎた。そして暑い夏の日。夏休みの直前、終業式の帰りに。

 俺は自らそれを壊した。

 結局は、あの女が。俺の邪魔をしたからだ。

 ――いや、違うか。

 まだそんなことにこだわっていた、俺のせいだ。

 誰かのせいにする資格はないな。




 まったく偶然だが、その日は俺の誕生日だった。

 というかせめて偶然と思わせてくれ。じゃないと、ほんとにあの女を殺したくなるからな。

 終業式だけだったので、俺は美香とファミレスでランチをしてからぶらぶらと歩いていた。自転車を押しながら、彼女を駅まで送っていく途中だ。


「ねえねえ良介。今日も良介、家に一人なの?」

「ん? ああ、まあな」


 何故か頬を染めながら尋ねてきた美香に、俺はごく普通に頷いた。美香にはほとんどの事情を話してある。父親はいつも通り研究室だし、あの女はなんか、泊りがけで同窓会とか言っていたからな。


「あ、あのね……あのね、じゃあ」


 こいつが言いよどむのは珍しいな。悪いものでも食ったか?


「じゃあさ、うちで、誕生日パーティーしない?」


 ……言いよどむほどのことか? いや、嬉しいけどな。


「ああ、ありがたいな」


 だが、美香は俺の返事を聞いていない。真っ赤になりつつ、指先でゆるやかにウェーブのかかった髪をもてあそんでいる。


「う、うちも、うちも、今日、両親出かけてるからさ。泊まっていっても、いいよ?」


 ……言いよどむほどのことだった。さすがに俺でも意味は理解できる。

 さて、どうするか。美香はもちろん、嫌いじゃない。好きだ、と言える。

 だが、一線を超えてしまっていいのか? 俺みたいな歪んだ人間に、そんなことができるのか?

 俺が悩んでいると、美香が俺の手を握って、視線をぶつけてきた。


「ねえ、良介の誕生日をさ。一緒にお祝いさせてよ」


 ここまで言われて断ったら、失礼だよな。

 俺は頷いて、駐輪場へ自転車を運んでいった。




 美香の家も同じ神津市だが、電車で二駅離れている。さらに駅前からバスに乗って到着する、新興住宅地にあるわけだ。だが俺たちは真っ直ぐ向かわず、駅前でパーティーの材料を買っていくことにした。

 古びたラブホテル街を足早に通り抜け、少し離れたスーパーで買い物を済ませてから、駅へと戻る。

 その途中で、晴れているにも関らず、土砂降りの雨が降ってきた。

 もちろん、俺も美香も傘なんて用意してない。まったく、真昼間なのに夕立かよ。

 心の中で毒づきながら、俺たちは手近な軒先に入り込んだ。ラブホテルだが仕方ない。びしょ濡れになるよりマシだろう。


「凄い雨だねー」

「ああ、参ったな」


 だけどまあ、すぐやむだろ。俺がそう言うと、美香もそうだね、と頷いた。

 そして僅かなはずの雨宿りの時間に、偶然、視線を遊ばせていた俺は見た。見てしまった。

 古ぼけたラブホテル街。通りの向かいにあるのは、やっぱり古ぼけたラブホテル。

 相合傘で、男性に肩を抱かれるように、入っていくのは。

 ――あの女だった。




 あの女は。

 研究で泊り込む父親をほっぽって。

 息子の誕生日に。

 同窓会なんぞと言って。

 知らない男と、ラブホテルに行っているわけだ。




 ふーん。

 自分の頭が急に冷めていくのを自覚する。

 俺は、あのわけのわからない生き物と、同じことをしようとしていたわけか。

 ――最悪だな。


「悪い、帰るわ」


 俺はそれだけ言って、雨の中に足を踏み出した。それだけ言うのが、精一杯だった。


「え、ちょっと、良介!」


 慌てて美香が腕をとってくるが、俺はそれを振り払う。


「待ってよ!」


 美香の声が背中に届くが、やはり無視する。

 このぐちゃぐちゃな、醜い顔を見せられるものか。

 ほとんど走るように、俺は雨の中を駅へ戻っていく。


「あっ!」


 ばちゃり、と恐らくは美香が倒れた音が聞こえても、振り返らない。できない。


「良介! 急にどうしたの! ねえ!」


 普段そんなふうに叫ぶことのない美香に叫ばせているのが、申し訳ない。

 でも、やっぱ無理だわ、俺。悪いけど。

 お前は、触れ合うのは悪いことじゃない、って言ってくれたけど。

 俺にはいいこととは、どうしても思えないんだ。

 せっかく塞いでくれた傷だけど。また開いちまったからさ。前よりももっと深く、開いちまったから。

 ――もう、触らないでくれ。


「良介ー!」


 美香の声がまだ耳に届くが。まあ、じきに消えるさ。この雨音で。

 俺は、とうとう走り出した。

 夕立って、意外とやまないもんなんだな、なんて。くだらないことを考えたりしながら。

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