三日目 高橋葵 2
高校一年の五月。その頃の俺はあまり家に帰りたくない事情を抱えていた。
家族会議まで開いて、抑えていたはずの母親の悪癖が、俺が高校に通い始めた瞬間に再発したからだ。
あの女は、家事を放棄して、遊び呆けている。親父はメーカーの研究室に勤めており、滅多に家に帰ってこないのをいいことに、だ。
だから帰っても誰もいない。飯も用意されていない。掃除洗濯も自分でやるしかない。
万が一いたとしても、気まずい空気を味わうだけだ。
中学の頃、俺の家では家族会議が開かれた。そして、収まったと思っていた。
だがまあ、どこにでもどうしようのない奴はいるもんだ。
人が傷つくことなど考えもせず、自分の欲求のままに動く、クズが。それがたまたま俺の親だった、というだけの話だ。
中学からの親友、秀司が親父さんの漁を手伝うためにあまり学校に来ていないことも手伝って、俺は放課後、屋上で寝ていることが多かった。その日も俺は日が沈むまで寝ていた。
その後はたまたまだ。教師に怒られても面倒なだけだ、と学校を出ようとした俺は体育館に灯りがついていることに気づいた。
誰かいるのか、と好奇心のまま歩くと、音が響いてきた。ボールがフロアに叩きつけられる音が。
音に導かれるように扉を開ける。そこにいたのは、一人の少女だった。
背の高い、ショートヘアの少女が、額に汗を光らせ、一人でバレーボールを空中に上げて、フロアに打ち込んでいる。
ダアン! とボールが床を叩く音が、人のいない体育館に響く。
その姿に俺は――見とれた。
ものが違う、ということが素人目にもはっきり分かる。俺と同じくらいの身長の少女は、俺よりも遥かに高く飛び、眼で追うことすら困難なスピードをボールに与える。
またフロアを叩く音が響く。
「すげえ……」
思わず零れた俺の言葉に、少女はビクリ、と身体を一瞬振るわせた。
「す、すみません! もう片付け……え?」
謝罪から入ろうとした少女は俺の顔を見て、固まった。
「北見、だっけ?」
「そうだけど」
何で俺の名前知ってんだ?
その問いに少女は明るく笑った。
「何言ってんのよ! 同じクラスじゃん!」
そうだっけか? 思い出せん。まあまだ入学して一月だしな。
「あたしは高橋葵! 覚えといて!」
「高橋か。おっけ、覚えた」
「嘘臭いわねー」
「嘘じゃない。お前みたいなすげえ奴、忘れるか」
俺の感想に、葵は眼をパチクリとさせた。言葉に込めた意味がわからないのだろうか?
「何がすごいの? 北見ってちょっと危ない奴?」
わからないらしい。
「いや、主に身長が」
「うがー! 女の子の気にしてることを!」
お、いいリアクションだ。こいつ面白いな。
俺は入り口から葵の方へ向かい歩き出す。そして、近くに置いてある籠から、ボールを一つ、取り出した。
「お前のスパイクすごいな。ちょっと俺にも教えてくんねえ?」
「は?」
「ストレス解消になりそうだ」
ニヤッ、と笑った俺に対して、葵は、いいよ! と頷いた。
「でも、あたしの練習にもつきあってね!」
「何しろと?」
「トス上げ!」
それくらいならお安い御用だ。契約成立だ。
交代しながら、二人とも夢中になってボールを叩きつけていると、いつの間にか夜の九時を回っていた。それに気づいた葵が大声を上げる。
「うわ! やば! もうこんな時間じゃん!」
「だな。流石に帰らないとうるさいだろうな」
「うわわわわ! 早く帰らないと!」
急に慌て始めた葵を落ち着かせるべく、俺は声をかけた。
「じゃ、俺片付けとくから。お前帰れ」
「え! でもでもでも! モップがけとか!」
「それもやっとく」
「一人じゃきついって!」
妙に実感のこもった力説だったが、モップがけぐらいできるっての。急いで帰る理由は、俺にはないしな。
「いいから。急いでるんだろ? それに俺が無理言って使ったんだ。使った俺が片付けるのが当然だろうが」
俺の言葉に葵は顔をうつむかせて、ぼそり、と何か言ったが、俺には聞き取れなかった。
そして決意したようにパッ、と顔を上げて叫んでくる。
「あたしもやる!」
「帰れ、って言っただろうが」
「あたしもやる! ここであたし帰ったら、先輩たちと同じじゃん!」
よくわからない発言だったのが、止めても無駄なことだけはよくわかった。
「おっけ。なら俺モップかけるから。お前ボール片づけてくれ。場所よくわからん」
「いえっさー!」
びしっ! と敬礼する葵。無視してモップがけを始める俺。
結局学校を出たのは夜十時近くだった。教師が来なかったのは幸運だった。
しばらく自転車を並んで走らせて、別れ道で、じゃあ、と言ってハンドルを切った葵の背中に、俺は声をかけた。
「明日も、邪魔していいか?」
キッ、と葵の自転車が止まる。街灯の下で少女が振り返る。
「明日も……来てくれんの?」
「邪魔じゃなけりゃな」
葵の確認に頷く。すると彼女は、満面の笑顔を浮かべた。
「邪魔なんかじゃないよ! じゃあ、また夜七時に!」
「ああ」
「じゃあ、明日、教室でね!」
明るい声をあげ自転車はあっという間に加速していく。やっぱりすげえ体力だ。
高橋葵。素人の俺から見てもわかる、バレーの申し子。
けれど――笑った顔は、俺と同い年の、ごく普通の女の子だった。
それからというもの、俺たちは毎日体育館で会った。高校に入ってからはじめて、楽しいと思える時間だった。
七時からといわず、もっと早く行ってもいいか? そう尋ねた俺に葵は首を振った。練習があるから、と。
俺はその言葉を鵜呑みにした。後になって思えば、気づくべところは色々あった。
葵がコートシューズでなく、普通の授業で使うようなシューズで練習していたこと。
フロアが、妙に汚れていること。
しかし俺と練習している葵は笑っていた。それに、何かあったら言ってくるだろ、なんて思っていた。
俺たちは、友達なんだから。
そして俺は、その考えの甘さを思い知ることになる。
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