(元)飼い犬の後輩が、いまは俺の隣にいる
■1-1
俺が産まれる前から、俺の側には犬がいた。
つまりは覚えている中で、一番古い記憶からそいつはいる。
犬種はラブラドールレトリバー。白い毛並みの、大きな身体。
そいつはまるで俺が弟や我が子であるかのように、ずっと側にいてくれた。だから小さかった俺にとっては、ペットという枠組みではない。家族であり、兄や姉であり、初めてできたかけがえのない友人だった。
そんな存在が、産まれたときからいることが当たり前だった。これからもいるものだと疑っていなかった。
勿論、そんなわけにもいかない。俺が七歳の頃、そいつはいなくなった。病気で、寿命。
犬の寿命は、人のそれよりもあまりに短い。だから、いつか来ることだったのだ。
大事な家族を失った子供である俺は、さりとてそこで立ち止まるわけでもない。何をせずとも月日を重ねる毎に、大きくなっていく。やがて忙しい日々の中で、昔飼っていた犬のことを思い出すこともなく過ごしていく。そうして大人になっていく。
ありきたりな話だ。なんでもない、どこにでもあるようなつまらない話だろう。
もしここで、この話が終わっていたのなら。
■1-2
都内にあるアパートの、1Kの部屋。
あるのはベッド、本棚、机、椅子。二十五平方メートルにも満たない狭い空間には、それが上限だ。余計なものなんて置く余地もない。
そこが朝から晩まで俺の生活空間だった。
それが俺には丁度いい。
丁度いいといえば、システムエンジニアという仕事も向いていた。極論、PC一台あれば、仕事をする分には十分。今では自宅からでも仕事に取り組める。
目覚める。PCを起動する。出勤の連絡を入れる。作業する。昼食を取る。作業する。退勤の連絡を入れる。PCの電源を切る。夕食を食べ、自身のPCのスクリーンを眺める。眠る。
一日の間、家から一歩も出ることなく完結する。
外交的な人間であれば、耐えがたい生活かもしれない。でも、俺はそこに苦痛の一つも感じない。出勤しなければならない日の方が、いつもより早く起きるのがあって億劫だ。
大学を卒業してから五年、いまの会社では二年が経つ。その間、同じ業種で働き続けているから、それなりの適性はあると客観的にも言えるだろう。
一度は転職を経ている、という経歴はある。でも、今時そう珍しくもない。前職がブラック企業で、逃げるように転職した先が、大学同期のツテというのは、少しくらいは珍しいかもしれないけれど。
いまの業務は、自身の裁量もある程度在る。配属して半年は上司がいた。しかし一通り教えるや否や、別の案件に行ってしまった。まあ、なんとかこなせることは出来ているからそれで十分なのだろう。
割り振られる案件の大きさは大小様々。繁忙期がない代わりに、作業量には波がある。暇なときは暇。難題が来れば難しい。それだって会社に泊まり込むわけでもない。やりがいを感じる程度の余裕はある。
前職では、そんな余分なことを感じる余地もなかった。デスマーチに次ぐデスマーチ。帰ることのできない日も多々。一体、どうやって乗り切っていたのか。今となっては思い出したいことでもない。
そして振り返るまでもなく、俺は恵まれている。
定時に仕事を終えることもできる。福利厚生もある。残業代だってきちんと払われる。ある程度の裁量を持たせてもらえている。
泉啓人、齢二十八才。独身。彼女無し。
俺は現状に満たされている。
■1-3
いま勤めている会社は、世間の波に乗ってリモートワークが主流だ。
出社を望むのならば問題ないと、会社はフリーデスクとして常に開かれている。が、正直、叶うのならば家で仕事をし続けていたい。
だが、週に一度は出社する必要があった。社内交流を活発にしたい会社の方針もあるが、理由はもう一つ。
「先輩、指示された作業を終わらせたので、確認していただいてもいいですか?」
金曜の出社日。デスクで作業中に、隣から声をかけられた。
声をかけてきたのは、長い黒髪をポニーテールで結んだ女性だ。特徴的なものといえば、日本人離れした青い瞳。童顔ではあるけれど、白いシャツにデニムのパンツとすらりと着こなしている。
今の会社は私服通勤が許可されているが、無難なところに落ち着いてしまう。俺もポロシャツに黒いスラックスと無難な服装が常だ。けど、彼女はどこか品がある。
彼女は、葉山あいさん。今年の四月に入社した、期待の新人だった。
「葉山さんは相変わらず仕事が早いね」
「先輩が丁寧に教えてくれたおかげです!」
大げさに持ち上げてくる彼女は、会社の後輩というのもあるが、今では俺の実質的な部下のようなものだった。
五月から俺の下についた。彼女は今年入社したばかり。指示を出す必要がある相手だが、俺も転職したてで階級的にほとんど差は無い。だから部下のようなもの止まり。
彼女の入社から、もう三ヶ月になる。葉山さんが俺の下についてからは二ヶ月。実務を任せ初めて一ヶ月。
早いもので、気がつけばもう七月だ。直接面倒を見ている都合上、彼女の仕事ぶりについては、少なくとも理解できてきた。
葉山さんについて一言で現すなら、手のかからない優秀な後輩だ。いまだって、行った作業について要点を過不足無くまとめて丁寧に話してくれる。
「――ということなのですが、これで問題ないですか?」
「……そうなると、ここの記述が間違ってるかな」
「あ、なるほど……! 気づきませんでした。すぐ直します!」
ただ、ミスは流石にある。業務についたばかりだから、まだまだ仕方の無いことだ。
「うまく結果が出ても、条件を変えて確認するのは大事からね。まあ、こういうミスもあるんだよってことで、次から気を付けてね」
「はいっがんばります!」
注意をしても、変にへこんだりせずに素直に受け止めてくれる。だから、こちらも力まずに教えられる。
前職の頃に、同じチームに新人が入って来たことはある。しかし、一対一で直接指示を出す立場になるのは初めてだ。だから手がかからないぶんには、俺としても助かっている。
素直でいい子、なのだと思う。そんな彼女にただ一つ、懸念点があるとしたら。
(……これで取引先の娘さん、とかじゃなければ、気が楽なんだけどな)
会社はオフィスビルの一角を借りている。そう広い場所ではないので、人目を忍んで休むのならば外に出るか、あるいは給湯室に行くしか手がない。
手元の業務がもう一踏ん張りというところで、一息いれるために、ビルの片隅にある給湯室に向かう。すると、既に先客がいた。先客たる男は俺の顔を見ると、手を上げる。
「よっ、元気か?」
「普通。そっちはサボりか?」
「ちげーよ、コーヒー淹れてんの。ズミも飲む?」
「……気持ちだけ貰っとく。お前のコーヒー、マズいし……」
「いやいや、今回はうめーぞ。いいから一杯飲めって」
俺をズミと呼ぶこいつは、浦賀蓮。かつては大学の同期で、そして俺をこの会社に誘った張本人でもあった。
蓮はコーヒーを押しつけてくる。飲む。なんか渋いんだか苦いんだか。なんで微妙に作れるんだ。
まだ湯気が濃く立ち上るそれを、息をかけ冷ましながら答える。
「まあ、ぼちぼちだよ」
「お前、いっつもそれだなー。もうちょっとこう、元気に溢れた返事していこうぜ。若さこそ武器だろ」
「もうアラサーだし、若さを押すには無理があるんじゃないか?」
「んなことないって。多分……でも最近腹出てきたんだよな……」
蓮は自分の腹を服の上から摘まんだ後、思い出したように顔を上げる。
「じゃなくて、どうなんだよ。俺が送り出した例の後輩ちゃんは」
蓮は通常の業務の他に、新入社員の教育も行っている。
とはいえ、教育した相手がご健勝か、なんてこいつが思う筈もないことは、長い付き合いだから分かっている。十中八九、面白半分で聞いている。
「どうって、まあ、いい子だよ。がんばってくれてるし、思ってるよりだいぶ手がかからなくて……むしろ楽させて貰ってるくらいだよ」
幸いというべきか、こちらの答えに面白いことなんてない。
正直、初めは気負ってしまうところもあった。なにせ取引先の社長令嬢だ。一体どんなじゃじゃ馬が来るのかと身構えていれば、その実優等生。新人だから困ったことはあれども、彼女だから困ったということは、ほとんど思い当たらない。
唯一思い浮かぶことといえば、
「ただ、昼飯に毎回誘われるのはちょっと疲れるんだよな……」
「大学の頃からひとり飯好きだもんな、お前。でもすげー贅沢なこと言ってんぞ」
「それはまあ、そうかもしれないけどな……」
葉山さんのことを「いいな」と思わないわけではない。
可愛いし、愛嬌もある。素直だし、礼儀正しい。そしておまけに社長令嬢。打算的にはなるけれど、かなりの優良物件だ。
ただ、あくまでそれは好感を抱く要素が多いだけのことだ。
(……それに、ちょっと苦手なんだよな、葉山さんのこと)
具体的な理由はないが、好感の要素しかない相手に、なぜだか苦手意識を持っていた。
「まあ、本気で嫌なら断ったらどうだ?」
「……別にそういうわけでもないって。それに、上の人間としては、頼まれたら断れないだろ」
言っていて、自分の小市民的な性分に悲しくなってくる。そのことを分かっていて、蓮はできもしない提案をしてくるのだ。タチが悪い。
「いやー、にしても普通毎回一緒に行かないって。それに同性ならともかく、異性でそういうこともあるもんかぁ?」
「あるんだからしかたないだろ……つーかお前、ほんとセクハラになりそうだから気を付けろよ。マジで」
「こういう話するのはお前相手だから大丈夫だって。基本いい子ちゃんで通ってるし、俺」
「本当かよ……」
「マジマジ」
反射的に疑ってしまうが、確かに教育担当にまでなっているのだから、案外うまくやっているのかもしれない。
人には人にそれぞれ見せる顔がある、ということか。
「まあ、お前なら大丈夫だよな。昔からお堅いし。いやー、変な事が起こらないだろうって思って、配属先決めるとき、社長に薦めたわけだけど」
「え? お前、教育のほうもやってるのは知ってたけど、こっちの配属にも関わってたの? いま初めて聞いたんだけど?」
「言ってなかったからな。というわけでズミくん、社運は任せたぞ」
「お前それほんと洒落になってないからな……」
まあ、何が起こるはずもない。
これまでのように過ごしていれば、何事もあるはずがないのだ。今日とはほとんど変わらない日が明日も続く。
人生に面白いことなんて、そう起きることはないのだ。
コーヒーを飲み終えた蓮は、紙コップを燃えるゴミに放り込み、それから俺の肩を叩く。
「お前も無理すんなよ。つか、そういや今年は有給ちゃんと使ってくれ~ってそっちの部長が言ってたぞ。そのうち直接言われるだろうけど」
「……前向きに検討する」
「せっかく心置きなく休める職場なんだから、使っとかなきゃ損だぞー」
注意されてしまった。いや、わかってはいるのだ。ただ前職の癖が未だに抜けていない。中々休んでいいタイミングがわからないし、第一趣味もあるわけでもないから、休む理由も特にない。
下に葉山さんがついている今は、特に悩ましい。休んでいても、指示は出さなければいけないことだってある。
逆に考えれば、彼女が休んでいる日に合わせて休めばいいのかもしれない。
(いや、それだと変な勘違いされそうな気もするな……いや、考えすぎなのか?)
いずれにせよ、上手いタイミングで休める日は、あまりなさそうだ。タイミング次第か、と考えを後回しにする。
「んじゃ、俺は仕事に戻るわ……そうだ、最近一緒に飲めてねーし、そろそろまた飲もうぜ。なんなら俺は今日でもいいぞ」
蓮のその提案に、それもいいかと一瞬思うが、
「いや、今日は他に予定があるんだ。別の機会にな」
「おっけ。また空いてる日に連絡するわ」
特に具体的な予定を建てるでもない、適当な口約束をして向かっていく。
こちらも軽い休憩を挟んだので、席に戻る。俺が席につくと、葉山さんは指示した箇所の修正を終えたようで、「先輩、またお時間よろしいですか?」と声をかけてくる。
彼女の作業の進捗を確認していれば、三十分が経過する。自分の手持ちの仕事を合わせても、問題なく定時までには終わることが出来そうだ。
時間を気にするのは、理由がある。
理由というのは隣にいる彼女について。部屋の時計へと目を向けている俺に、葉山さんは気づいたらしい。彼女は手をくの時に曲げて、内緒話でもするかのように小声で囁く。
「先輩、楽しみですね」
顔を向ければ、彼女は屈託のない笑顔を向けてくる。
蓮に告げた他の用事というのは、この後輩と二人で飲みに行くことだった。
二人だけで飲みに行こう、などと俺から持ちかけたわけもない。
このご時世、いつ何時、セクハラやパワハラで訴えられるかわからない。ましてや最近の会社員は、飲み会というものを嫌がるものだ。勿論、その中には自分も含まれている。
それなのに、どうして行くことになったのか。
きっかけは三日前のことになる。リモート作業の日も、終業前には葉山さんと業務連絡をしている。いわゆる、終業前ミーティングというやつだ。
いつものように業務の進捗について話し、いつものように「他に聞きたいことはないか」などと聞いたときのこと。
大抵は「特にありません」で済むのだが、その日に限っていつもと異なり、葉山さんはこう言ってきた。
「先輩、今度お時間ありますか? よろしければ、一緒に食事に行きたいのですが……」
彼女の言葉を飲み込み、「あー」と頭の中で一度納得する。
というのも、研修から配属に移るのが早いことや、丁度配属の時期に他の人も忙しかった事も合わさり、部署の歓迎会ができていなかった。
「そういえば、同じ部署の他の人とも顔合わせしておきたいよね。今度部長たちをせっついておくから」
最近の若い子は、飲み会を嫌がるって聞いたけどなあ、などと思いつつ答えたのだけれども。
「いえ……できれば、先輩と二人がいいです」
「……二人で?」
「はい。現場で一緒なのは先輩とですし、だめ、でしょうか?」
だめという訳ではないけども。
こういうとき、リモートというのは不便だ。画面は互いの顔を映していない。一体どういう心境なのか、表情から読み取ることが出来ない。
正直なところ、荷が重いという気持ちがある。
普段から、昼食は一緒にしているが、正直若い子の趣味や流行について知っているというわけでもない。話題を振ろうにも、愉快なネタがあるわけでもないから段々と困ってきている。
昼食は就業時間だからと妥協している部分がある。ただ終業後で酒も入れるとなると、話が変わってくるのではないだろうか。
……と考えてから、また自分は余計なこと考えている、と我が身を振り返る。無駄だとわかっていながら考え込んでしまうのが、自分の悪い癖だ。自覚はしているのだけど、治せそうにもない。
ただ、意識して考えを軌道修正することはできる。
単純に考えればいいのだ。後輩が一緒に酒を飲みたいと言ってきた。そこに深い意図はない。あるはずもない。仮に周りが、特に蓮が茶々を入れてきたとしても気にしない。
「わかった。それじゃあ、次の出社日でもいいかな?」
「! はい! いつでも大丈夫です!」
会社の人付き合いも、仕事の一環。そんな旧世代の価値観の一部を引きずる俺に、元より断る選択肢はなかったのだ。
終業後、俺と葉山さんは会社近くの居酒屋に来ていた。
葉山さんは、お店を物珍しいように見回してから、
「私、こういうところに来るの、初めてなんです」
と、さも特別な場所のように言及してみせる。連れてきた場所は、何の変哲も無いただの居酒屋でしかない。明るくて、手狭。店の中は仕事終わりの社会人で、一段と活気がある。
小さなテーブルを挟んで、彼女と向かい合う。
「大学のときとか、サークルには入らなかったの?」
「それもありますね。あとは……付き合いでパーティとかには行ったことはあるんですけど。どうにもこういった場所には縁が無くて」
こういう話を聞く度に、本当にお嬢様育ちなんだなー、と背筋が伸びる。
彼女の両親が経営する会社は、貿易系の会社だ。歴史が浅いが、名前を言えば大抵の人が知っている。
そんな会社と縁があるのだから、少なくとも今の会社で仕事がいきなり無くなることはないだろう。逆に言えば、葉山さんとの会社との関係が悪化すれば、業績も今後の見通しも悪くなるかもしれない。
心の中で襟元を正しながら、メニュー表を開く。
「じゃあとりあえず適当に頼むけど、なにか頼んでみたいものはあったら言ってね。そうだ、何か苦手なものとかある?」
「大丈夫です、何でも食べられます」
「了解。あと、ビールでいい? あ、別にお酒じゃなくて、ソフトドリンクでも問題ないから」
「あ、じゃあ……先輩と同じもので、お願いします」
一通りこちらで注文したあと、葉山さんは照れたように話す。
「すみません、全然分からなくて、お任せしてしまって」
「いやいや、最初はそんなものだから気にしないでいいって」
俺も居酒屋に初めて来た時は、一緒に行った相手に任せきりだった。
そんな風に思えば、彼女もかわいいものだ。まだ社会人一年目の若い子を相手に、変に身構えるのは余計な気もしてくる。
料理が来るより先に、ビールが溢れんばかりにそそがれたグラスが来た。
「じゃあ……おつかれさま。乾杯」
「はい、おつかれさまです」
葉山さんとグラスを合わせてから、口をつける。
ビールは仕事を始める前は苦手だった。なんでわざわざ苦い液体を飲まないといけないんだ、と敬遠していたくらいだ。それでもいまはこうして平気な顔で飲めるようになったのだから、大人になるということは摩訶不思議だ。
ぷは、と葉山さんもさっそく飲んでいる。しかしけっこう傾けていただろうに、あまり減っていないのは口が小さいからだろうか。
「葉山さんは、そろそろ仕事には慣れてきた?」
「はい、おかげさまで! ……あ、でも一つ、仕事のことで聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「全然、むしろ聞きたいことがあるなら、どんどん言ってほしいよ」
ありがとうございます、と葉山さんは前置きして、
「家での仕事って、どうやって集中してますか?」
と、生真面目な顔で、生真面目なことを聞いてくる。
「なんだか、家だとけっこう気が散って……うまく集中できないときがあるんですよね。なんだかこう、落ち着きすぎてしまう、といいますか。職場に出ているときは、あんまり気にならないんですけど」
「あー、俺が意識してやってるのは、作業中には適当に曲を流すくらいかな。特に単調作業とか、慣れてきた作業のときには、だけど」
音楽を流していれば、脳が麻痺して疲労を一時的に感じなくなる、とかなんとか聞いたことがある。ネットで聞きかじった知識だから、本当かはわからない。けれども、俺の場合は多少なりとも集中はできている。
「なるほど……そうすればいいんですね!」
「まあ、俺がしているだけで、葉山さんにも合うかわからないけどね。それと、余所の現場のときにイヤホンで聴いたりしてると、怒られることもあるから。そこには注意してね。本当に」
いまは自社での仕事だから問題ないけど、別のところだと勝手が大きく違うのは大前提。まあ、普通にやっていれば問題ないはずだから、葉山さんは問題ないとは思うけれど。
「あとは、仕事に集中するのも大事だけど、同じくらい力を抜くのも大事だよ。最初のうちは、どう抜けばいいか分からないから仕方ないかもしれないけどね。ずっと根を詰めすぎると、余計に疲れて結果的にとんでもないミスをしたりするから」
「なるほど、勉強になります。ちなみに……最後は、先輩の実体験ですか?」
「まあ、そんなところかな。なので葉山さんは心から気を付けるように」
「はいっ」
雑談を交えながらも、彼女は丁寧な言葉を崩さない。あまり硬くならずにいいのに、とは思うけれど、自分も仕事をしたての頃はこんなものだったかもしれない。
話しているうちに、注文していた品々が来る。それらをつまみながら、話を続ける。
「葉山さんはどうしてこの会社に入ったの? 大学の専攻は……たしか文化類学科、だっけ。難しそうな名前だったよね」
「はい。民俗学、の方が通りはよいでしょうか」
「あー……妖怪とか、村の儀式について調べる感じの?」
「そういった研究もありますね。実習では村にお邪魔して、一緒に生活させていただいたりとかしていました」
なるほど、と相槌を打つ。確かに、彼女の人懐っこい性質は、そうしたフィールドワークには向いているだろう。
「でも、この仕事とは結構違うよね。そういう感じの業務も請け負ったりしてないし」
「大学は、個人的に興味があって入ったので。会社に入ったのは……他に、やりたいことがあったからなんです。その兼ね合いもあって、一人暮らしも就職と一緒に始めました」
やりたいこととは、何だろうか。まあ、話したいのなら、自分から言うだろう。無理に聞くのは、あまりよくない気がした。
「やりたいことがあるなら、いいことだ。俺もここじゃまだ新人だけど、いい会社だと思うよ。何か手伝えることがあったら、いつでも言ってね」
「はい、ありがとうございます」
酒が入っているからだろうか、普段よりも少し赤みがかって、心なし柔らかい笑顔を向けられる。
無防備なその表情に、一瞬、不覚にもどきりとする。あれだけ蓮に何もないと言っておいて、微笑み一つで見惚れてしてしまった自分が恥ずかしい。そういう目では見ていない、なんて言っておいて、表情一つで惑わされるだなんて。
「先輩は、どうしてこのお仕事をされたんですか? その、業種というか」
葉山さんには、既に昼休みの時間で何度か前職の話もしていた。二十連勤、エナドリの差し入れ、無茶振りをする営業、休んでいるのをろくに見ていない上司、などなど。ブラック企業あるあるの範疇。ただ、入った理由については、まだ話していなかったらしい。
「あー……大学院に行こうとしてたんだけど、ちょっと色々あって入れなくて。それでまあ、無職も世間体が悪いから入った感じかな。だから葉山さんみたいに、そんなやりたいこととかあったわけじゃないよ」
ブラック企業に入ってしまったのも、笑って語ってしまえば笑い話だ。
過ぎ去ってしまったことであれば、そんなこともあったよと笑って言ってしまえば、笑い話になる。
「……まあ、俺から言えるアドバイスとしては、一人暮らしでも、親御さんとはちゃんと連絡取って、話しておきなよ。いつでも会えると思っても、先のことは分からないものだから」
口にしてから、すぐに俺の中で少しの後悔が湧く。早々に酒に酔ってしまったのか、無駄に説教っぽくなってしまった。
葉山さんは口を真一文字に結び傾げるみたいに小さく頷いて、
「はい、勿論です」
と、ただそれだけ。気にした風もない。表に出していないかは分からないが、厄介がられてはいないだろうと一安心する。
葉山さんの質問攻めは、それだけではなかったらしい。
「他は……仕事のことではないんですけど、先輩って休みの日とか、何をされてます? 社会人の息抜きの仕方をお聞きしたい、言いますか」
社会人の息抜きとは、また初々しい質問だった。
それに対しての回答といえば、
(……特に何もしてない)
前の職場では、土日に業務の必要が出たりと、そもそもの余暇がなかった。
今の職場では休日出勤どころか、残業もほとんどない。だから、平日夜にさえ時間がある。
能動的な趣味はないに等しい。休日に資格の勉強をしたりしているが、葉山さんの問いとはズレている。
勉強と眠ること意外に、強いて言うのなら……
「猫とか、魚とか……動物が動いてる動画を見る、くらいかな」
空いた時間にやっていることは、動画サイトでそれらをぼんやりと眺めることくらいになる。
(自分で言っておいてなんだけど、完全に疲れた人間のやることだな……)
我ながらこの歳になって無趣味にも程があると、思わず遠い目になる。何かを始めようと試みたことはあるが、いまいちやる気もわかない。
「ちなみに、犬の動画は見たりしないんですか……?」
「いや、犬だけは見ない」
「え……せ、先輩、犬が嫌いなんですか?」
葉山さんは、俺の言ったことがまるで信じられないとばかりに口を開いている。
「いや、別に嫌いとかそういうわけでもいんだけど……まあ、ちょっと、あんまり良くない思い出があって。だからなんとなく見てないかな」
「そ、そうなんですか」
葉山さんは、眉を明らかに下げてしょんぼりとしている。葉山さんの百面相に、表情豊かだな、と感心する。人懐っこいところはいいが、顔に出すぎて営業には余り向いていないかもしれない。
(ひょっとして、犬好きだったのかな)
それなら適当に合わせておけばよかったか。まあ、過ぎたことは仕方あるまいと、後悔を酒で流してしまう。それが大人の特権だった。
■1-4
飲みの席で葉山さんと話していく中で、驚きのことがひとつ。
「先輩と私って、出身地が同じみたいですよね」
続いて彼女の口から出てきたのは、確かに地元の名前だった。
なんで知っているのか尋ねれば、蓮が言っていた、とのこと。そんなこと、話したか。覚えていないだけで、酒の席で言ったのかもしれない。
流石に通っていた小学校は違っていたが、地元の話を肴にするのは初めてだ。思ったより会話と酒が進んでしまう。
「にしても……ずいぶん行ってないなー。用事もないし」
帰る用事もない。小学生の頃の友人とも、既に疎遠になっている。
面白い偶然もあるのだなあ、と思っていたのも束の間のことだった。
居酒屋を二十時で切り上げ、二次会なんて当然することなく解散しようとしたときのこと。帰りの道中が同じであることがわかった。
「まさか最寄り駅まで同じとは……」
「すごい偶然、ですね」
隣の葉山さんの言葉に、そうだね、とだけ返す。
正直、わりと居心地が悪い。
思春期の男子みたいに、異性相手に声が上擦ることはない。しかしイコールで女慣れしている、というわけでもないのだ。
家の場所は、都心から電車で三十分程度。まあ、住宅地広がるベッドタウンであるわけで、近くに住んでいること自体はありえないわけでもない。
もしかしたらすれ違っていたかもしれない……と一瞬思ったものの、仕事もなければろくに家を出ない生活をしている自分に気づく。
部屋から出なければ、会うこともない。単純な事実に、どこか安堵する。
まあ、彼女と何が起こるわけでもない。着いて、解散して、帰っておしまい。むしろ起こしてはいけない立場にある、と言ってもいい。
駅に着く。降りる。改札の出口の方面から、家の方向も同じのようで、肩を並べて歩いていく。
(……コンビニに行くとか口実でも付けて、一旦別れるべきだったか)
夜道に一人で帰すのは危ないが、まだ時間も早い。それに実質的な上司と帰り道が一緒だなんて、余計に気を遣わせてしまっているに違いない。
それとも、こちらが気にしすぎなのだろうか。葉山さんは、隣で静かに歩いている。電車の中では口数が多い方ではなかった。普段はよく話してくる方なのだが、酒が回ると減る方なのだろうか。
住宅地にある交差点で、お互い足を止めた。葉山さんの進む先は横断歩道を渡った向こうらしい。俺は信号を渡らずに曲がり道。
つまりはここで、彼女とはお別れになる。
一足早いが、やっと肩の荷が下りた気分だ。
同時に、酒を飲んだあとの一人になる寂寥感がやってくる。人と飲んだり集まったりしたあとに一人になるのは、なんとなく苦手だった。元から一人だっていうのに、贅沢なものだ。
「それじゃ、困ったことがあったら言ってね。一応、この街の先輩でもあるわけだから」
「……それは、また次のお食事を誘われている、ということですか?」
「あ、いや、そういうわけじゃなくって」
言葉の綾だ。慌てて訂正しようとしたが、
「先輩は、私と一緒にご飯食べるの、お嫌でしたか?」
「いや、楽しかったけど」
葉山さんは物理的に距離を詰めて、尋ねてくる。
やはりこの子、距離感近い。それに、無警戒すぎる気がする。いつもこうなのだから、そのうち勘違いする人間も出るのは間違いないだろう。
にしても、困った。なんと返すのが正解なのか。
ただの会社の後輩に、仲良くなりすぎるのもよくない。だが断るのも変になる。
結局、うやむやに返事を返す。
「今日は、うん、楽しめたよ。それは、本当だから、まあ……無理に誘わなくてもいいからね、本当に」
「はい、またお誘いしますね」
結構頑固な所もあるのか。あるいは、こうしたところも好かれる理由なのだろうか。人間関係に積極的な人間は、すごい。俺には到底真似できそうにない。
きっと彼女は大物になるだろう。そのとき、新人の時に教育をしたのは俺なんだよ、と胸を張らせて貰うこととしよう。などと頭の中で、益体もないことを考える。
信号が青に変わる。
「じゃあ、また来週」と渡る姿を見送ってから帰ろうとした。
だが、葉山さんは、一向に渡らない。
「あの!」
一度は背中を向けていたが、彼女は振り返り、声を上げる。
「先輩はいま、幸せですか?」
いま、幸せか。
唐突な哲学めいた問いに、俺はといえば面食らう。
次いで、若いなぁ、とも思う。
年齢が、というより心が瑞々しくなければ、そんな問いは言い放つことはまずできない。改めて自身の老いを再認識させられてしまう。
とはいえ、不誠実な答えをすることも、笑って誤魔化すことも憚られた。
彼女の目が、まっすぐに俺を射貫いている。夜の闇の中でもわかるそれは、虚偽を許さない、と言わんばかりだ。
葉山さんのその目に、今更ながら、彼女への苦手意識の正体を掴んだ気がした。
彼女の意図が、なんであるかはさておいて、
「幸せじゃなくても、意外と生きていけるものだよ」
俺は答える。肩に力を入れることもなく、自分でも驚くくらい、するりと出てきた。嘘でも見栄でもなく、それが俺の人生の、現時点での結論。中間回答、と言ってもいいかもしれない。
今が最大値じゃなくとも、これで十分。満たされて、生きていける。
周りを見れば自分より給料を貰っていたり、あるいは人間関係に恵まれている人だっている。でも、それは他人と自分を比べて、自分の持っていないものに欲しがっているだけだ。
人には誰しも、その人なりの苦しみがある。
なんて言っても、伝わるかどうか。それに、俺だってまた年を取れば、この意識も変わるのかも知れない。
今の俺が答えられるのは、なんとかなるさという至極無責任な一言ぐらい。
葉山さんは、横断歩道を渡る様子がない。結局、渡らないままに赤信号へと切り替わる。
葉山さんは俯いたまま、俺の腕を掴んだ。
「待って、ください」
「え……ど、どうかした? 酔って気持ち悪い、とか?」
「私、ずっと先輩に言いたかったことがあるんです」
様子のおかしい葉山さんに問いかけるも、彼女は構う様子もない。
彼女は顔を上げる。必然、間近で視線が交わる。
まっすぐな瞳が向けられている。結ばれた唇が、電柱の蛍光灯を受けて赤黒く光っている。彼女の端正の顔の造形に、意識が逸れそうになる。
けれど、逃げることを許さないとばかりに、彼女の視線は俺へと向けられている。まるで蛇に睨まれた蛙だ。俺は動けずにいた。
彼女の視線は揺れてもいないし、何か別のものを見ている様子もない。酒に酔った気配はなく、あくまで素面のままに見える。それが恐ろしい。
思わず、唾を飲み込む。ごくりと、音が鳴る。
果たして、彼女が次に口にした言葉は、
「私、先輩が昔飼っていた犬なんです」
彼女の表情は、真剣そのもの。
となると、俺の頭がおかしくなったのかもしれない。
混乱する中で、どうにか言葉を絞り出す。
「………………いや、違うよ?」
■2-1
葉山さんの衝撃発言から、五日が経っていた。
土日を挟んだので、葉山さんとの会話があるのはそのうち月火水の三日間。出勤日は金曜だから、まだ直接顔合わせはしていない。リモートでのやりとりをするのみだ。
三日の間、葉山さんからは具体的に何か言ってくることはほぼなかった。
あくまで業務時間は、業務に関する会話のみ。あまりに変わりのない彼女の態度に、あれは夢だったのではないかと本気で思いそうになった。酒で見た悪夢のほうが、まだ信用できる内容だからだ。あの葉山さんが、妙なことをいう筈がないという大前提。
だが、そんな希望的観測は、違うらしい。
今日の業務後の通話で、「先輩、私、待ってますから」と追い討ちをかけられた。
金曜夜のあのとき、自分を犬だと言った葉山さんに、俺は殆ど逃げる形になってしまっている。このまま逃げることは、どうにもできないらしい。
(だいたい、なんで犬なんだよ……)
確かに、犬を飼っていた時期はある。ただ、それももう二十年以上も昔の事だ。まだ幼かった頃だから、殆ど覚えていない。
そんな話題を出してくるのは、冗談にしてもたちが悪い。
昔に交流があったのだろうか、と可能性を挙げるとしても、年齢的にはあり得ない。葉山さんは浪人も留年もしていないはずだから、今年で二十二歳。となれば俺が十一歳のとき、彼女はまだ三つか四つだ。交流があるはずもないし、犬がいなくなったのは俺が七歳の頃なわけで、葉山さんは生まれてさえいない。彼女が知るはずがない。
そこまで意識を巡らせて、一瞬、数字の結びつきを見つける。
イヌが死んだのは七歳の頃。
葉山さんとは七歳差。
「……まあ、生まれ変わりなんて、あるわけないよな」
馬鹿らしい、と考えるのをやめにする。
それに、他にも問題はあるのだ。心なし、葉山さんに仕事中のミスが多くなっている気がする。確認漏れなどの軽微なミスではあるのだが、余りいい傾向ではない。
自惚れているわけではない。しかし、原因は自分しか当てはまらない。
こんなとき、どうすればいいというのか。
回答が速やかに出るほど、俺は人生経験が豊かなわけでもない。普通に生きて、大学を卒業し、会社に入っているだけの人生。相手が突拍子もないことを言ってきた場合の対処の知識も経験も無い。
という訳で、早々に人に助けを求めた。業務後、十九時になる前に、そいつは家に上がってきている。
「よう、いつもの持って来たぜ」
浦賀蓮は、勝手知ったる他人の家とばかりに部屋に入っていく。まあ、頼れる相手といえばこいつくらいしかいない。俺と葉山さん、両方のことをある程度知っているのも、こいつくらい。声をかけてその翌日、こうして集まることができるのだから、独身様々だ。
蓮は不躾に部屋を見回し、一言。
「相変わらず彩りのない部屋だな、前に来た時と変わって無くないか?」
「模様替えなんて早々するもんじゃないだろ……前来たのはいつだっけ」
「あー、たぶん三ヵ月前か?」
蓮とは大学時代の付き合いだが、その頃から互いの家で不定期に飲んでいる。今ではマシになっているが、大学時代は酒を浴びるように飲む人間だった。酔い潰れることは日常茶飯事。いまでも、こいつが酔い潰れた時用の寝袋が何故か俺の家にある。
一時期……俺がブラック企業にいた頃には、住む場所が離れていたから飲む機会も無かった。こうしていつでも会えるようになったのは、転職したメリットかもしれない。
作っておいたつまみに、蓮が買った酒と惣菜を低いテーブルに並べる。
俺が並べている間に、蓮は早々に缶ビールを開けて一足先に飲み始めた。元からこういうやつだと知っているので、気にすることでもない。
俺も遅れて座り、缶を開けたところで、蓮は口を開く。
「にしても、お前から誘ってくるなんて珍しいよな。なんか悩み事か?」
「……まだ何にも話してないのに、よくわかるな」
「わかるって。ほら、なんでも聞いてくれよ。さっさと打ち明けて気持ち良く酒を飲もうぜ」
軽く言ってくれる。まあ、話が早いのは助かる。
「蓮には、葉山さんについて聞きたいんだ」
■2-2
葉山さんの発言の直後に話を戻そう。
月は雲に隠されて、ほの暗い交差点に二人、向かい合う羽目になっていた。
飼い犬、なんて訳の分からない話を持ち出されて、俺は露骨にうろたえてしまう。目の前の彼女は、どう見ても人間そのもの。頭の上に耳があるわけでも、尻尾が生えているわけでもない。
葉山さんが、そういう冗談をいうような人間ではない、と思っていた。俺としては「なーんて冗談ですよ! 私が犬な訳ないじゃないですか!」と続けてくれる事を願うも、表情は変わらず真剣そのものので変わらない。
「えーっと……少し待ってもらっていいかな? ちょっと自分の中で整理するから」
受け止める受け止めない、なんて話でもない気もする。が、とりあえず応対しなければならない。こういう、何を言っているのかわからない相手は、刺激しないほうがいい、とどこかで聞いた気がする。
視線は逸らさないまま、少しだけ、気づかれない程度に葉山さんから距離を取る。
「えっと……飼い犬、って、どういうこと?」
「そのままの意味です。先輩、昔、犬を飼っていましたよね?」
「……いや、確かにいた時期はあるけど」
飼い犬がいたのは確か。でも、だいぶ昔の話だ。二十年以上も前のことになる。
犬を飼っていたことを、誰かに話した記憶もない。大学時代、一番親しかった蓮にも、だ。大学以前の友人知人にだって教えても居ないし、連絡だって取っていない。酔って話すこともない。記憶をなくす方でもない。
知るはずのないことを、目の前の、ただの後輩がなぜ知っているのか。
(ストーカー、なのか? それとも、なんだ、ヤバいやつなのか?)
そうであるにしたって、俺みたいな人間にストーカーがいる縁もゆかりも心当たりさえない。
「えっと、何? もしかして、からかってたりする、んだよね?」
「本当のことです。会社を選んだのも……先輩がいるからです」
「そ、そうなんだ……」
次から次へと飲み込めない情報が出て、頭が痛くなってきた。酔いはすっかり失せた気がするのに、アルコールは血中に滞留したままで頭の動きが鈍い。
これは、どうしたらいいんだろうか。
葉山さんとの付き合いは、ここ二ヶ月程度のものでしかない。あくまで、仕事だけ。就業時間の外で会うのも今日っきり。それでも、こんな妙な冗談をいう子だとは未だに思えなかった。
「……すみません。混乱させてしまって。ただ、私は……できれば先輩の近くにいたいだけ、それだけなんです」
彼女の言葉の真意は分からない。ただ、それきり無言が続く。
夜の街は静かだ。その静けさが、自身の動悸をより鮮明に感じさせてくる。
「……とりあえず、また今度返事をする形でいい、かな? 俺も少し、考える時間が欲しいん、だけど……」
鈍い頭で熟考の末、俺がした決断としては、先延ばしというなんとも情けないものだった。考える時間が欲しい、なんていうのは方便でしかない。ただ、今はこの場を切り抜けたい一心。
そもそも、これは夢の可能性が高い。たぶん。久しぶりの酒で酔いが回りすぎて、夢見が悪いだけ。自分でも信じていない現実逃避を浮かべてしまう。
「わかりました。私、待っていますから」
葉山さんは、俺の苦し紛れの言葉をすんなりと受け入れてしまう。これには、俺も拍子抜けしてしまう。きっと俺の表情にも、安堵が現れていたのだろう。彼女は言葉を付け加える。
「もう二十二年も待っていたので……それでは先輩、今日は楽しかったです」
去っていく葉山さんの表情は、見えなかった。
俺はその場に残される。
まるで狐に化かされたみたいだ。さっきまでのことが、現実とはやはり思えない。
「とりあえず、帰って寝るか……」
今日は色々あって疲れた。問題ごとは、明日の自分に投げ出すことに早々に決めたのだった。
■2-3
と、いうようなことがあった。
などと蓮にありのまま話せるはずもない。俺の頭がおかしいと思われるか、あるいは既に酒を入れていることを疑われるのが関の山だ。
そもそもの話、俺と葉山さんの付き合いは長くはない。彼女があんな風な冗談を言う下地があるのかも分からない。
俺は、葉山さんの事を何も知らない。所詮、仕事の中での付き合いだ。そんな相手に、内面を開示するはずもない。
ただ、蓮は新人研修の教育担当でもあるから、自分が知らない事も知ってるだろう。彼女の一端でも知れたなら、と思っての苦し紛れの一手だった。
だが露骨に聞くと、変な勘違いをされることは間違いない。探りを入れる前段階として、あくまで平静を装う。酒で口を濡らしてから、あらかじめ用意していた言葉を続ける。
「まあ……ほら、部下の知っておかなきゃだめだろ一応。先輩として。元教育担当としての所感だけでいいからさ」
適当な言葉で濁した俺の問いに、蓮は酔って軽くなった口で答える。
「葉山ちゃんなー、葉山ちゃん。犬っぽくてかわいい子だよなー」
「ゲホッゲホッ」
むせた。発言がピンポイントにすぎる。
咳き込んでしまうのが中々止まらず、蓮に背中を摩られるが、お前のせいだと言ってやりたい。いや、むせていて言えないが。
咳き込む俺に、蓮は愉快そうに笑っている。
「そういうのじゃなくってだな……」
「分かってる分かってる。でも、どこから話していいもんかな……葉山さんの家って、うちの取引先じゃん? でもそれは順序が逆で、葉山さんが入社したい、って言ってきたから、父親の社長さんがこっちに声をかけてきたのが切っ掛けみたいなんだ」
あくまで社長が話してた所によると、だけどな。と蓮は続ける。
「……うち、確かにホワイトではあるけど、そんなに魅力的な会社だっけ?」
「不思議だよなー。まあ、その辺葉山さんにも聞いたんだけど、当たり障りのない話で濁されちゃったんだよな。なんかありそうな気はするんだけど」
つまりは親の取引相手だからこの会社を知ったのではなく、それよりも先に葉山さんが知ったと。彼女は俺の側にいたいから、この会社に来たのだと言った。それと辻褄が合ってしまっている。
犬は抜きにしても、どうやら初めから知られていたのは事実であるようだ。
「他には?」
「他? 他なー。他……元陸上部で、全国大会に行っただとか? 趣味はランニングとか?」
「……それを聞いた俺にどうしろっていうんだよ」
「言えって言ったのはお前だろー」
走るのが好き、となるとやはり犬を連想する。
(じゃなくて……本当に犬な訳ないんだから、もっと別のことを聞かないと)
あまりに符号が一致するせいで、余計に混乱してきた。悩む俺に、蓮はどこか楽しそうに笑ってくる。
「……なんだよ」
「いや、蓮にも社会人の自覚が出てきたな~って」
「茶化すなよ。というか、どういう意味の誰目線なんだよ、それ」
蓮は新しい缶を開け、一口つけてから、続ける。
「お前が他の人に興味持つのも珍しいじゃん? それに流されやすいというか、自分に無頓着な事あるし。他人のこと考える余裕があるならいい傾向なんじゃないの」
「本当に、どこ目線だ。お前は俺の親か」
「側にいた友人目線だよ。で、どう? 俺の性格診断は当たってる?」
「知るか」
自分のことなんて、わからない事の最たるものだ。俺の反応に、蓮は気にした様子もない。
「んで葉山ちゃんのことだけどな……めちゃくちゃいい子だよな。お嬢様? 社長令嬢っぽいのはわかるわ。俺が教えてた期間は短かったけど、終わり際には菓子折まで用意してたらしいぜ」
礼義正しい、というのはやはり共通の認識らしい。
となると、これまでの態度が特別猫を被っていただけなのだろうか。彼女の言葉通りなら、犬が人の皮を被っていることになるが。
「優秀な子だよな。資格ももう持ってるし。流石に現場経験はないけど、そこはお前がフォローしてるだろ?」
「まあ、そうだけど」
「俺が仕事したてはなんもできなかったなー。それに比べりゃだいぶマシだろ」
優秀であるとはわかっている。それに、たとえ今任せられるものが簡単な仕事でも、いることで助かっているのは確かで。
だからこそ、彼女があんな発言をする意図が未だにわからなかった。
「まあ心配すんなって。なんとかなるって」
「他人事みたいにお気楽だな……」
「まあ実際、他人事だし」
蓮は気にせず俺を笑ってくる。笑われる俺は、わりとどうにもならない自体に直面している。ただ、今は笑われた方が、気が楽ではあった。
悩むだけなら、いくらだってできる。
だがこのまま放置はできない。いつまでも先延ばしにし続けるわけにもいかない。見えない導火線は、こうしている間にも刻一刻と迫っている。
「まあ、ほんと、気負い過ぎんなって。流石にちょっと心配なんだぜ。ズミは人がいいっていうか……流されやすいから? セクハラで逮捕だの辞職だのはマジで勘弁な」
「……俺、そんなに言う程意思弱い?」
「弱くなけりゃ、クソな職場に三年もいないし、俺が転職誘ったときにホイホイ着いて来ないだろ。ただ同じ業種としか言ってなかったんだぞ。ま、過労で疲弊してたって言われれば、それまでかもしれないけどさ」
「そのことはまあ、ありがたく思ってるけど」
「だろ? 恩に着ろよ? じゃないと釣り合わないからな」
蓮との付き合いは、大学のサークルの新歓以来。
一浪、そして四月生まれの蓮は、新入生ながらに酒を飲んでいた。しかし、酒を飲むこともその日が初めてだったこいつは、加減を知らないまま飲んで道中あえなく気絶。路上に横たわるそいつを無視する訳にもいかず介抱した。仕方なく俺の部屋まで持っていってやったのが付き合いの始まりになる。
それから大学在学中の四年間、ことある毎に、俺の家まで来ては飲むようになった。あるいは蓮の家に行くこともあった。その間、介抱したのは両手の指では足りない。連はそれを恩に着ながら、同時に律儀に釣り合いをとろうとしている。
恩や打算。そうした明確な理由がある好意や友情は、どこか安心する。だからこそ、蓮と交流を続けていられる理由の一つなのかもしれない。
「まー、がんばれ。お前にできることをできるようにすれば、なんとかなるっしょ。俺にはお前を応援するか、こうして酒を飲んでやることしかできねえ」
「……おう」
踏み込みすぎない距離感も、蓮の好ましいところだ。
事態が進展したわけでも、解決策を見つけられたわけでもない。
けれども、話すだけでいくらか気持ちは軽くなった。
■2-4
そして迎えた金曜日。
出社業務を行い、帰る間際の葉山さんに声をかける。
「この前の話についてだけど……これから時間ある?」と。
正直、そう尋ねるだけでも、結構な緊張を伴った。なにせ相手は推定ストーカー。加えて自称、前世が犬。追加で何が飛び出してくるのかもわからない。
こちらの警戒に反して、葉山さんはすんなりとついてきてくれる。
場所は少し離れた広い喫茶店だ。人も多いし、たとえば万が一葉山さんが激情して襲いかかってきても誰かが割って入ってくれる、と信じたい。
コーヒーを携え、机を挟んで向かい合う。こちらから話し出そうとしたのだが、葉山さんのほうが早かった。
彼女の第一声は、
「先日は、本当にすみませんでした」
と、深く頭を下げるところから始まった。
「私、本当は言うつもりじゃなかったんです。だって、変な人じゃないですか。先輩から、信じてもらえなくて当然です」
色々と探り探り話そうとは思っていた。だから彼女の方からこんなに平身低頭にされるのは、想定外だ。
「と、とりあえず頭上げて……そんな下げたりしなくていいから」
俺の言葉に、恐る恐るとばかりに、彼女は顔を上げる。その表情には、心から申し訳なさそうなものだ。まるで俺が悪いことをしているみたいな気持ちにさせられてしまう。
「もし先輩がその、嫌だとか、気味が悪いとか思うのでしたら……すぐに離れますから」
葉山さんは、自身の鞄から一枚の封筒を取り出す。
封筒には一言。辞表、と書かれている。
「申し訳ないとは、思います。でも私が側にいるよりは、いいと思うので」
「……いや、ちょっと、ちょっと待って」
困っているのは事実。しかし、辞表を出されるのは、もっと面倒になる。会社間の関係も難しいものになるだろう。
彼女も、自分の影響について考えは及んでいるはずだ。そこまで考えなしではないはず。かといって、それを盾に脅しているわけでもないと信じたいのは、まだ彼女に期待しているからか。
辞表まで持ち出して来るとは、考えもしていなかった。それくらい、本気で言っているのだろうか。
一旦、深呼吸して焦る気持ちを落ち着ける。
「とりあえず、認識のすりあわせをしようか」
「……すりあわせ、ですか?」
目を瞬かせる葉山さん。ひとまず、聞いてくれるらしい。話を続ける。
「前提として言うけれど、葉山さんの話は、正直信じてない。でも、話は一度聞いてみる。仕事の最初の方に話したよね。まず、相手の話を聞いて、質問があればそれから、って」
システムエンジニアに、技術力はあって困ることではない。しかし仕事で大事なのは、まず第一に相手と対話する能力だ。顧客が求めるものが何かを明らかにすることが大事な仕事だ。というのは、前職で第一に教えられたことだ。
結局辞めてしまったが、その考えは間違っているとは思わない。
「だから、話は聞く。相談にも乗るし、手助けもできる限りはする。自分が教えたことくらいは守らないと、だからね。ただ、あくまで先輩と後輩として、の範囲まで。それ以上の……飼い主だとかは、一旦置いて欲しい」
俺が一先ず出した、歩み寄りの結論がこれだ。
前世だの飼い主だのなんだのは、受け入れられない。それは大前提。
でも、彼女がそう話す理由はどこかにあるはずだ。それを聞いてあげることが、先輩としての自分の役割になる。
あえて付け足すのであれば、
「それと、俺は無神論者だけど……天国とか魂とかがない、とはわからない。存在しない、というのを観測したわけではないからね。だから否定する理由がない。だから、完全に疑う訳じゃない。あったらいいな、とは思う程度だけどね」
目を瞬かせる葉山さん。こちらから話すことが一通り終わり、彼女から一言。
「先輩って、意外と理屈っぽいんですね」
「否定は出来ない」
肩の力を抜いた方が、もっと気楽に生きられるのだろう。それでも、これが性分だから、変えようもない。
彼女は浮かない表情が崩れて、微笑んでいる。少なくとも、俺の言葉は受け入れてもらえたらしい。
「いまは、先輩としてで、いいです。それでは……お話しさせて頂きます」
そうして彼女は語り出す。
生まれた時から何か忘れている、そんな予感があったんです。
ただ、あくまで予感だけ。特に思い出すこともないままに生きてました。
でも、四歳のとき、先輩の姿を車の中から見たんです。
先輩のことを見た瞬間、私は雷に打たれたみたいに、前世のことを一気に思い出しました。
犬だったこと、先輩とそのご両親と一緒に過ごしていたことを。私が生まれ変わった、ってことを。
都合がよすぎて運命みたいだって思いました。でも、先輩と会えたのはそれきりです。まだ四歳でしたから、自由に歩き回ることなんてできませんでした。
大きくなってから町中を歩き回って、ようやく先輩の家を見つけたときには……先輩はもう引っ越してました。
「それから、ずっと探していたんです。先輩のことを。そして、私の前世の記憶を。この記憶が空想なんかじゃないって思って……一先ず、大枠としては以上になります」
「……気になったんだけど、話の内容は、結構抽象的だよね。何か固有名詞とか、覚えてないの?」
「はい。その、お恥ずかしながら、思い出す記憶はどれも部分的でして。昔の自分の名前も覚えてないんです。先輩のご両親の名前などは、一応把握してはいるのですけど……」
まるで叱られることを恐れるように、機嫌を伺うみたいな上目遣いをされる。
「ご両親のお名前は、調査で知ったものなので、証拠にはならないかな、と」
「あ、ああー……え、ちなみに調査って、なに? 探偵とか……?」
「はい。叔父が探偵をしていまして。それでお願いしました。私の……犬の頃の名前はわからなかったみたいですけど、それでも先輩のことはある程度調べてもらえたんです」
両親は社長。叔父が探偵。なんとも浮世離れした家系だ。
自称犬、というのを差し引いても、なんだか距離感が近かったり世間ずれしてない理由は、環境から来ているのだろうか。
「なので、先輩のご両親がその……もういないことも、存じ上げています。お父様が十歳の頃に交通事故にあったことも……お母様が、先輩が大学四年生のころに、病気で亡くなったことも」
「……本当に調べてるんだね」
彼女のいうことは事実だ。祖父母も既に死んでいるから、天涯孤独ということになる。それは事実でしかなく、同情をされたいわけでもない。彼女の言葉も、単なる事実の羅列でしかない。
むしろ前世云々よりかは、探偵に依頼して知っているほうがよほど納得できた。
「にしても……探偵に依頼したってことを伏せて話せば、少しくらいは信じさせられたかもなのに、律儀だね」
「いえ、先輩にちゃんと信じて貰えないと、意味が無いので」
語ったことは突拍子もないのに、誠実だ。あるいは俺の考え方や性格が悪いのか。
「調査を依頼したのは、いつ頃?」
「依頼したとき、ではないのですが……調査結果を受け取ったのが、二年前ですね」
会社が葉山さんの会社と取引を開始した時期とも一致する。少なくとも、入社以前から知られていたことは事実らしい。
どうにも、彼女の行動や言葉に一貫性というか、信憑性が出てきているのが恐ろしい。
(というか、どこまで個人情報が知られてるんだろう)
意識しすぎると恐ろしいので、一旦考えないようにしよう。
葉山さんは、俺を見上げる。
「それで、その……自分の名前さえ思い出せないのに、信じてもらえたりは、しませんよね……?」
「まあ、うん、流石にね」
「ですよね……」
「あと……思ったんだけど、仮に、仮にだよ、犬だったとして……本当にうちの飼い犬だったかはわからないよね?」
「あ、それは大丈夫です、間違いなく先輩です」
「理由は?」
「勘、です」
「そっか……」
自信満々に言い切られてしまえば、掘り下げてもどうにもならない。彼女が信じ切っているのならお手上げだ。
「どうにか思い出せないものかと、昔は退行催眠とか、受けには行ったりもしたのですが……うまくいかなくて」
葉山さんは、自分の昔の失敗を話すように、照れ臭そうに微笑んで語る。仕草だけ見れば、かわいらしいものだ。俺が何の関係もなく、端から見ているだけなら、庇護欲をかき立てるだけだったはずだ。
きっと、今の彼女に必要なものは変な同情心ではない。
彼女の語る言葉が事実なら。
と、第一に念頭に置いてしまう自分が段々嫌になる。それでも、この予防線は大事だ。
彼女は色々と手を尽くしてきた、といった。自分のものではない記憶がある場合、たとえ事実としても、妄想だとしても、違和感が付きまとうだろう。虚言癖なら、それはそれで生活に難がある。
いずれにせよ、彼女には彼女なりの苦悩がある。
彼女だけじゃない、誰だってそうだ。特別なことではない。こうして彼女が俺なんかに相談していること自体が、問題だ。
もちろん、彼女の語る言葉が全て嘘かもしれない。それならそれでいい。こんな俺みたいな、出会って数ヶ月でしかない人間に、わざわざ時間を割いて虚言を吐く人間はどのみちまともな精神状態ではない。
特別なことではないなりに、いまは先輩としてできることをしよう。
「記憶はいつ思い出したか、覚えていたりする? 条件というか、傾向というか……何か切っ掛けがあれば思い出せるなら、試してみたいけど」
「そう、ですね。子供の頃の先輩を見た以外だと、昔歩いた道を通ったり、何か匂いを嗅いだりしたとき、でしょうか?」
「記憶の想起には、五感に対しての刺激が必要、か……」
記憶が五感に結びついている、というのは理解できる。
ふとした瞬間、記憶を思い出す瞬間には、自分にだって経験や心当たりがある。彼女の回答は、納得がいくものだ。
一方で、周囲の環境や状況に結びつくなら、ここで出来ることはあまりないのかもしれない……と、考えていたところ、
「……その、先輩の匂いを嗅いでもよいしょうか?」
「え゛」
「いえほら、匂いで覚えてたりしないかな、と」
犬かよ、と思う。いや、犬だった。
「……流石に、体臭とか、昔と違うんじゃないかな……?」
逡巡する気持ちが、大いにある。公共の場で、後輩に体臭を嗅がせる行為には流石に気が引ける。しかし目の前の後輩は、自分が持ち出した提案にだいぶ乗り気なようで、
「まあ、物は試しと言いますし」
試すことが既に大前提であるかのように、彼女は机から身を乗り出しそうな勢いでいる。つい先ほど、俺はできる限りは手助けすると言ったばかり。どうにも後には引かせてもらえないようだ。
一応、周りを見て知り合いがいないことを確認する。それから恐る恐る、自分の腕を差し出した。
「ど……どうぞ?」
「はい。それでは、失礼します」
葉山さんは俺の腕を掴んで、ためらいなく手の甲に顔を近づける。そして、すんすんと鼻を鳴らし、匂いを嗅いでくる。生あたたかな鼻息が当たってくすぐったい。
にしても、絵面が絵面だ。誰かに見つかってしまえば免職ものだろう……というのは大げさにしても、見られたくない状態であるのは本音だ。なるべく早く終わって欲しい。
十数秒にも満たないのに、体感ではずいぶん長い時間を経てから、葉山さんは顔を上げる。彼女が離れたことに安堵しながら、問いかける。
「……何か思い出した?」
「いえ、なにも。いまは犬じゃないから、嗅覚が鈍いんでしょうか」
特に落胆している様子もせず、彼女は小首を傾げた。もう一度確かめるように嗅ごうとするので、反射的に腕を引っ込めてしまう。そこまで強く握られていた訳ではなかったから、するりと抜けた。どこか名残惜しそうな様子だ。
一応、犬だった、という設定に対してはなるほど一貫してはいる。犬の嗅覚は人間の数千倍だったはず。それと比べたら、情報量の少なさにわからないのもやむなし、というところなのか。
自ら体を張ったぶん、無為に終わったのが残念なような、そうではないような。
(というか、少し真面目に話しすぎてしまっている気がする)
心のどこかで、こんな茶番を続けるのか、と思わないでもない。
それでも、真剣に悩んでいる姿を見捨てられるほどには、俺は強くはなかった。
しかし解決策がなければ、どうにもならない。他の案を思いつかなければ今日は持ち帰りで。という流れで締めようとしたとき、
「あの、先輩……先輩さえよろしければ、一緒に実家に……先輩が昔住んでいた所に行きませんか?」
「……地元に、一緒に?」
「はい、二人で、です。一人ではもう何度も歩きました。でも、先輩がいれば……何か思い出せるんじゃないかな、と思いまして。ほら、同じようなことでも、条件を変えて確認することは大事、って先輩、言ってたじゃないですか」
(確かに言ったけども)
そんなところで優秀さを発揮されても、困る。流石に業務時間外に遠出まで共にするのは、話が変わってくるのではないか。
目の前にいる彼女は、相変わらずその瞳を輝かせている。彼女の様子は、ここに呼んだときのような、肩を丸めた覇気のないものではない。
明るさが戻ったのはいいことだ。ただ、地元まで着いて行くことに、意味はあるか。
拒否してもよかった。そこまでする義理はない、と。
一方で、彼女の提案を拒めない理由はいくつかある。
先輩として話を聞く、と言ったこと。
葉山さんが取引先の社長の娘であること。
そして……俺にも彼女と同様に、思い出したいことがあること。
だから、彼女についていくのは、あくまで自分の用事のついでにすぎない……というのは、苦し紛れの言い訳になるだろうか。
「じゃあ……今週末、とか? 無理だったらいいけど」
「……! はい! 予定はないです! 大丈夫です! 行きましょう!」
身を乗り出す彼女は、さっきとは比べものにならないくらいの前のめり具合だ。ただ一緒に行くと言っただけなのに、まるで俺が彼女の言葉を受け入れたかのような喜びよう。
早まったかもしれない、と思うが、今更撤回はできそうにない。
やっぱり流されやすいじゃないか、と蓮が俺を笑う姿が脳裏に浮かんだ。
■2-5
地元の駅で降りてたとき、本当に来てしまったな、と我ながら思った。
会うことになった日は、土曜日。つまりは昨日の今日で向かうことになった。
葉山さんは夜のうちに一度実家に帰るらしく、現地の駅で集合になる。最寄り駅から顔を合わせ続けることにならずに済んだのは、正直助かった。
予定の時間よりだいぶ早めに来てしまったから、待ち時間の間に駅周辺を歩いてみる。とはいえ、丘と丘の間の家だから、あまり歩くと後が苦しい。軽く見て回るだけだ。
駅の周りはまだ店もあって人も居る。ただ、各駅停車の駅だから、ほどほどだ。立地が立地だから、ビルなんかが生えて栄えることもない。駅周辺を離れてしまえば、途端に住宅地のエリアに足を踏み入れることになる。
もういいか、と駅に戻る。駅構内の様子は、記憶とあまり変わりない。違和感があるとすれば、駅全体が少しだけ小さく感じる程度。
流石に小学生の頃より体はずいぶんと大きくなっているからだろう。体だけは、間違いなく大きくなっているから当然といえば当然だ。
自身の体の成長に、そして確かに過ぎている時間に浸っていれば、
「先輩、お待たせしました!」
積乱雲があっても吹き飛ばすような勢いで、元気な人物が現れた。
葉山さんは、普段の服装とは違い、ラフなものだった。少しオーバーサイズの白いシャツに、下は細身の黒いスキニーパンツ。日よけのキャップにトートバックという、普段よりずいぶんと身軽な装いだ。
その姿に、改めて社外で会っているんだよな、と再認識させられる。
というか、見てくれは間違いなく美人なのだ。それ以外の情報が厄介で困っているだけで。
普通、会社の後輩と休日、自分の地元に行くなんてことはそう起こることではない。もしあるとしたら、ただならぬ関係ではあるまい。そういう意味では当たらずとも遠からずではある。
「おはよう。葉山さんは……今日も元気だね」
「はい! 今日はご飯三杯食べました!」
「えっそれは本当にすごいな」
思わず素で返してしまった。三杯も食べられるなら、この元気も納得だ。
さて、集まって早々、意気揚々と進んでいく葉山さんの後を着いていく。急に決まったわけで、殆ど彼女任せだからだ。
「先輩は、こちらに来るのはいつぶりですか?」
「十六年ぶり、ぐらいかな……たしか」
歩きながら問われる。なんかこう、仲良しこよしに来た筈ではないのだけれど、葉山さんの気さくさにかえって毒気が抜けてしまう。
うろ覚えでの返答だけど、小学校を卒業する前にここを離れたきりなので、だいたいそのくらいのはずだ。
それにしても、と周囲の風景を見渡す。昔はもう少し空き地があったり、雑多な印象があった。しかし、今では敷き詰められるように家が建ち、歩道も心なし広い。
大まかには同じだけれど、確実に街は変化している。
勿論、見覚えのある景色もある。駅前にあるスーパー。引っ越したから行かなかった中学校。熱を出す度に入った小さな診療所。
視界に入れる度に、記憶が想起する。
「一応、どこに向かってるか聞いていい?」
歩いている方向から予想はついていたが、確認する。
「……色々どこに行くかは考えているのですけれど、一先ず先輩のご実家に向かってます」
淀みなく歩く葉山さんに着いていく。その足取りは淀みない。彼女が俺の家を知っている、という点においては少なくとも事実らしい。
十分もかかることなく、かつての実家には辿り着いた。いや、実家と言うのは多少語弊があるのか。
「……別の家、建ってるなー」
さほど大きくはなかったけれど、これまで過ごした中で一番広い一軒家、だったのはずだ。
しかし周囲の例に漏れず、取り壊されて新しい家が建っている。土地の節約のためか、細長い家が二軒ほど代わりにある。昔にあった家なんて、見る陰もない。
葉山さんは、鞄からクリアファイルを取りだし、こちらに肩を寄せて来る。
「一応、以前の家の写真はありますけど、いりますか?」
「……なんで持ってるの?」
「先輩も記念に欲しいかな、と思いまして」
「……見るだけ見せて貰うね」
受け取り、眺める。写真の家は、確かにかつての我が家だ。
ただ、プリントアウトされたそれを見て、深い郷愁が生まれるわけでもない。こんな感じだったよなー、なんてうっすらとした感動くらい。
強いて言うのなら、両親のことが頭によぎった。
引っ越しの理由は、父親が死んだから。死因は交通事故であっけなく。それから三年後、母方の祖母の家に引っ越したのが十一才の頃。
生きているうちの三分の一をここで過ごしていたというのに、特にこれといった記憶が無い。それは幼さ故なのか、それとも俺に情がないのか。
「準備が良かったけど、もしかして家がなくなったって知ってた?」
「はい。でも、思い出すなら、ここからなぞった方がよいかな……と思ったのですが、その、気分を害されましたでしょうか?」
「いや、大丈夫。ちょっと感慨に浸ったくらいだから」
確認のために聞いただけなのだが、余計な気を遣わせてしまった。
「流石に、もう若くないから。これくらいでショックを受けてるわけじゃないよ」
二十八にもなれば、人生に諦めもついてくる。
形があるものもないものも、いつか必ずなくなること。
今更他に新しいことを初めても、大成はできないこと。
自分以外の他人に、過度な期待をしてはいけないこと。
自分にも、それ以外の何かにも大きく求めることをしなくなる。そうすることで、期待が裏切られたときに同量以内の落胆程度で収まる。得られた場合の喜びも想定内で収まるけど、穏やかに生きるための必要経費のようなものだ。
家がなくなっていたことも、と心のどこかで想定していた。だから、過剰に驚くことでもなかった。
「それで、これからどっちに行くの?」
「そう、ですね。一応、一緒に散歩コースを進んでいこう、とは思うので先輩には付いてきていただきたいのですが……私の記憶違いがあるかもなので、間違った道を歩いてたら遠慮せず教えてくださいね」
「……あんまり期待しないでくれると嬉しい。俺も、そんなに覚えてるってわけじゃないから」
「それでも、二人いるなら一人いるよりは迷いませんよ」
葉山さんはそういって歩き出す、変わらず、その背中はどこか楽しげだ。長く結ばれたポニーテールが、ご機嫌に揺れている。
まるで犬の尻尾のようだ、と想起してしまう原因は、彼女が自分のことを犬だと言うからだろう。
「なんか……楽しそうだね」
「はい!」
葉山さんは笑顔で返事をしたのち、はっと慌てて表情を変えて、
「その、やっと先輩と一緒に散歩できたと思うと、念願叶ったというか、つい気分が高揚してしまいまして。あの、そういうのではないとわかってはいるんですけど、それでも、つい」
と照れたように、早口に言葉を付け加える。
「……俺かはまだわからないけど、ね」
「かもしれませんね。でも、いまが楽しいのでいいんです」
隣を歩くだけで喜ばれても、こちらとしては受け止めようがない。心当たりがなければ尚のこと。
自分が大層な人間ではないことを思えば、余計に申し訳なくなる。しかし彼女に言い切られてしまえば、こちらとしては何も返せない。
それに、彼女に話していないことが一つ、あるのだ。
■2-6
次に向かおう、となったのは近くにある大型の公園だった。
公園までの道のりはさほどかからないが、敷地は広く、一周するだけでもそれなりに時間がかかる。散歩のコースとして、犬の散歩で使っている人たちも目に入る。覚えてはいないけれど、俺も一緒に来ることもあったのかもしれない。
公園の中を四十分程度歩いたあたりで、俺は葉山さんを呼び止めた。
「葉山さん。ちょっと……そろそろ休ませてもらってもいいかな……」
両足が悲鳴を上げていた。
慢性的運動不足の足は、たった一時間も経つことなくガタガタになってしまった。自分の事ながら、ここまでとは流石に予想外だ。
運動した方がいいとは理解している。いるのだが、後回しにしてきたツケがきた。弊害を全身で実感させられている。
「す、すみません。私のペースで歩いてしまって」
「葉山さんは、元気だね……」
「はい、こう見えて元陸上部なので」
「そっか……」
こう見えても何も、納得しかなかない。
それにしても、ギブアップするなら、もう少し早く言えばよかったかも知れない。今いる場所は、公園の真っ只中。
体育館もある。水場もある。大きな駐車場もあるから子連れも多い。遊ぶには、絶好の場所だろう。小学生の頃に、自転車で来たり、家族で遊びに来たこともある。
ただ、遊ぶには絶好でも、それ以外には向いていないようで、
「……ここ、飲食店とかあったっけ。昼飯とか、考えてなかったな……」
もう十二時を回っている。どう歩くのかは任せていたから、昼食のことまで頭に回らなかった。
「確か……体育館のとこに、売店があったと思います。そこで食べましょう」
「ああ、なんかあった気がするな……」
全然覚えていなかったが、言われてみればそんな気がする。さて、向かおうというところで、葉山さんは別の方向へと目をやって、
「先輩、先に行っていてください。ちょっと後から向かうので」
と、その場を離れた。
何事かと思いきや、向かった先には老婆が倒れていた。どうにも荷物を地面に落としてしまったらしい姿が見える。
側に駆け寄る葉山さんは、「お手伝いしますよー」といって、てきぱきと拾っていく。
(前世やら犬うんぬんのことがなければ、いいやつなんだよな)
しみじみと思ってしまう。こんな飼い犬だと思い込むようなことがなければ、素直にいい後輩のままのはずだった。
一方で、こんなことなければ、彼女が俺に近づいてくることもないだろう。そう考えると、少し複雑な気持ちになる。
後輩がやっているのを見ているだけ、というのも情けない。「俺も手伝いますよ」と一言入れてから、落とし物を拾うのを手伝う。
「あれ、先輩。休んでなくて大丈夫ですか?」
「そこまで疲れ果ててないから……それにほら、一緒にやった方が早いだろ」
「……ですね!」
老婆を見送った後、体育館へと向かったのだが。
「やってないみたい、ですね」
「だな……」
売店はあるにはあるが、閉まっていた。なんでも、去年から休止中だったそうだ。タイミングが悪いというかなんというか。まあ、ここから出たら適当に食えばいいだろう。
けれど、葉山さんは何かを見つけたらしい。少し離れた場所で手招きしている。
「先輩、こっちにありますよ!」
「あー……懐かしいな、これ」
葉山さんが指さすのは、ホットスナック系の自販機だ。焼きおにぎりからハンバーガー、フライドポテトにからあげと、子供が好きそうなレパートリーだ。
「これ食べましょうよ! 先輩」
「す、すごい乗り気だね……」
「昔から気になってはいたんですけど、食べたことなかったんですよ。お父さんがあんまりこういうの、買ってくれなくて。外で見かけても、あんまり買うタイミングもなくって。だめでしょうか?」
「葉山さんがいいならいいけど」
「やった!」
確かに貴重といえば貴重だ。せっかくだし、食べるのもいいだろう。
葉山さんはホットドックを、俺はハンバーガーを購入する。
体育館の中にあるベンチで肩を並べて食べる。
特別おいしいわけではない。中身は単なる冷凍食品なのだ。それでも笑顔を絶やさずに、葉山さんは口に含んでいると、さもおいしいもののように見えてしまう。
それにしても、
(今日はなんか、普通に後輩と二人で散歩しているだけな気がする)
「なんだか、悪いことをしてるみたいです」
不埒なことを考えていれば、葉山さんの言葉からうっかり思ったことを口にしてしまったのか、と焦る。しかし次いで、葉山さんが「買い食いなんて、めったにしませんでしたから」と続けるので、そういう意味かと安堵した。
「こういう自販機って、最近だと段々なくなってるみたいだから。なくなる前に買えてよかったね」
「そう、なんですか?」
葉山さんは、自販機へと目を向ける。
素直に楽しんでおけばいいのに、下手な知識をひけらかして余計なことを言った後悔が押し寄せる。
「なくなる前に、食べられて良かったです。これも先輩のおかげですね」
しかし彼女は俺ほどネガティブではなく、そして予想外にポジティブらしい。
「……俺は、別に何もしてないよ」
「先輩と一緒だからここに来て、食べられたんですよ」
まるで心からそう信じているみたいに葉山さんは語るのだ。
■2-7
昼食を終え、一休みしてから公園の中を回る。
そこから更に徒歩、というのは流石にないようで安心した。バスで軽く移動し、そしてまた徒歩で移動。移動、移動、移動を繰り返す。
気分はさながら観光ツアーだ。題目は懐かしのホームタウン観光。
十五時を回ったころ、実家の近くの、先程の大きい公園とは反対の場所にある小さな公園に辿りつく。これでちょうど一周した形になるのか。
砂場とブランコとベンチくらいしかない公園だ。雲がかかっているとはいえ、子供も外でわざわざ夏の日に遊ばないのだろうか、人も居ない。
「少し、遊んでいきましょうか」
彼女は軽やかに進み、ブランコに乗っていく。「やっぱりちょっと小さいですね」と言いながらも、ブランコをきいきいと音を鳴らしながら漕いでいる。
流石にこの年になってブランコを乗り回せる自信はない。ブランコを囲う柵の外から、俺は問いかける。
「それで、葉山さんは何か思い出した?」
歩き回っていた目的は、記憶を辿るためのはずだ。なのに、そのことについて、彼女は道中、何も触れずにいた。
道中聞くのも野暮かと思い、口にはしていなかった。
しかし、もうずいぶんと回っているはずだ。いい加減、疲れてきた。こちらから聞いてもいい頃合いだろう。
「それが全然! 頭を掠めるような感覚はあるんですけど、なかなか手強いですねー!」
「……なら、休んだら次はどこに行く予定?」
まるで他人事のように話す彼女に、再び問う。
彼女はブランコを止めて、しかしこちらを見ずに視線を下に向ける。
「その、元々歩こうと考えてた場所は、ここで終わりなんです」
「つまりこれで終わり、か」
「はい、おしまいです」
収穫を得られなかった。まあ、当たり前といえば当たり前だ。生まれ変わりなんてないし、ましてや後輩が飼い犬だなんてこともあり得ない。
もしかしたら、心のどこかでほんの少しだけ期待していたのかもしれない。ご飯粒ひとつ分とか、その程度のものだったとしても。
彼女がそうであるのなら、俺の知りたいことも知れたかもしれない。
そんなことは当然なく、何と切り出して帰ろうかと考えていると、
「……雨、降ってきたな」
初めのうちはぱらぱらと、それからあっというまに視界を遮るくらいに降りだす。
俺は咄嗟に近くのベンチに隠れた。屋根もあるから、濡れることなく避けることができた。
葉山さんも、遅れて屋根の下に駆け込んでくる。少し離れたところにいたため、ちょっとだけ濡れてしまったようだ。
「大丈夫?」
「はい、タオルはあるので。それに風邪は引いたことないので!」
トートバックから取り出したタオルで拭いたあと、彼女は「先輩、どうぞ」と使った後のタオルをそのまま渡してくる。
「……いや、俺はいいよ、ちょっとだけだし」
「でも」
「いいって」
「……ごめんなさい」
あまり強く言った訳ではないのだけれど、葉山さんは肩を落としてタオルをしまう。
どうにも、かみ合わない。
雨音だけがその場に響く。こうして立ち止まって、雨音を聞くのはいつ以来だろうか。無音だと、頭の中で余計な言葉が反響する。だから雨音があるくらいがちょうどいいのは確かだ。ただ、それも一人だったときの場合に限る。いまは、隣の彼女がいる。
気を使わなければならない相手がいる、というのは面倒だ。
「先輩と一緒にいられたら、それだけでよかったはずなんです」
彼女の呟きに、ため息が出そうになる。人をなだめるのも、正体不明の好意を向けて来る相手とのやりとりも、慣れない。
いっそのこと、ただの後輩だったらお互いによかったはずなのだ。
「別に、仕事を辞めて欲しいわけじゃない。俺も、葉山さんのことは、嫌いじゃないんだ。ただ……犬っていうのは信じられないってことで、そこは諦めてもらって欲しいぐらいで」
返事は、無言。
諦めてもらえないのか。黙ってしまえば、わからない。彼女とは赤の他人で、お互いの内面なんか知るはずもない。
……いや、それはこちらも同じだ。彼女には、まだ話していないことがある。
諦めるための一押しになればと、俺は口にする。
「まあ、仮に俺の家で飼ってた犬だったとして、忘れて正解だよ」
「……それ、どういう意味ですか」
意味を問うように後輩は目を向けてくる。隣の彼女に、今の今まで黙っていたことが一つある。
「俺も、葉山さんと同じだよ。俺も……犬の名前を覚えてないんだよ」
飼い犬が生きていたのは七才の頃。
それから過ぎた二十二年の歳月を、短いとするか、長いとするか。それは人によるだろう。
俺は短いと思う。
たったそれだけの歳月で、大事な家族だったはずの相手の名前を忘れてしまった。それに気づいたのは、この後輩が昔の話を掘り起こしてきたおかげだ。
忘れているという事実に、覚えたのは自分への失望だった。大切だったものさえ、いつのまにか失っていたことにも。失ったことに、気づけずにいたことも。
後輩の話に乗って、こんなところまで着いてきた理由は、彼女と同じだ。ただ、犬の名前を思い出したかった、それだけ。
しかし、結局は思い出すことができていない。
「俺は薄情な人間なんだよ。だから、大事なペットの名前だって忘れてる。そんなやつが飼い主だった……なんて、嫌だろ?」
これは八つ当たりだ。自分自身へのふがいなさを、思い出させてきた彼女に転嫁している。
一度外に出してしまったものは戻らない。溢れるように出て行く。
それでも、突き放してやれば、幻滅させてやれば、葉山さんもこれ以上は無駄な時間を使わずに済むだろう。そんな風に言い訳して、自分の憤りを転嫁して、言ってやる。
だからこれで諦めてくれると、そう思っていた。
「そんなことないです」
――彼女は、諦めてくれなかった。
「先輩は薄情なんかじゃないです。こうしてこんなところまで一緒に来てくれてるじゃないですか」
「だから、それは俺も名前を思い出したかっただけで……」
「それでも! 先輩は仕事も教えてくれて、お昼も一緒に食べてくれて、色々叶えてくれてるじゃないですか」
「……その程度のこと、誰だってするよ」
「その程度じゃないです。こんな、生まれ変わったなんてことを聞いても、頭から否定しなかった。それに私がどれだけ救われたか、先輩はわかりますか?」
彼女は、立ち上がる。まるで目の前に立ちふさがるように、こちらを見下ろす。
「先輩が私に側に居て欲しくないなら、ちゃんとそう言ってください。そしたら、いなくなりますから」
彼女に気圧されながら、苦し紛れに言葉を返す。
「……それで、葉山さんはいいの?」
「いいわけなんて、ないですよ。思い出したいです。でも……先輩が、幸せになれることが一番ですから」
俺は何かを言い返そうとして、口を開いては閉じるを繰り返す。
彼女の言葉が、鬼気迫るものだったからだ。彼女が涙を流していたからだ。
「センパイが幸せなら、私は、我慢できたはずなんです。でも、そうじゃないから……だからあのとき、思わず言っちゃったんですよ」
彼女は、吐き出すように言葉を続ける。
「そうです。先輩のせいです。お父さんお母さんに死なれちゃって、わるい会社に入っちゃって、そこから出た今でもすっごく疲れてるみたいで、そんなの、あんまりじゃないですか」
そうして、葉山さんは再び座って、両手で顔を覆う。
俺はただ、彼女の言葉を受けていただけだ。なのに、心のどこかにあった憑き物が、するりと落ちたような心地がしていた。
こんな風に、人に思われて、言ってもらえた記憶なんてまずない。
だからだろう。たとえ彼女のその記憶が本物も偽物でも、彼女のまっすぐな言葉に、俺は確かに揺さぶられていた。
彼女は本当にいい子なんだと思う。
彼女の今の言葉だけでも疑わないくらいには、穏やかな心境になっていた。
「葉山さんがそう言ってくれるだけで、俺は、嬉しいよ。でも……思い出すなんて、元から無理だったんだよ」
彼女の言葉の中で、気づいたことがひとつあった。
「そもそも、二人で散歩したことなんてないんだ。俺は、まだ子供だったんだから……父さんか、母さんが一緒にいたんだ」
そして、その二人はもういない。
単なる事実を羅列する。
つまりは、思い出すきっかけそのものが失われているのだ。再現する、なんて目論見は、土台無理な話だった。
せめて、それで諦めてもらえればという意図で言った、そのはずだった。
「あります……ありますよ。私、思い出しましたよ!」
だから彼女の言葉に、耳を疑う。
彼女は今にも飛び跳ねそうな勢いだ。そして、大きく身振り手振りを添えて言葉を続ける。
「ほら、昔あったじゃないですか。先輩が、一人だけで急に外に出て、私が追いかけて! それで、ここまで来て! それから今日みたいに雨に降られて、一緒に雨宿りしたじゃないですか!」
葉山さんは、語る。まるで、事実であるように。自分が体験したことのように。
星を見つけたように目を輝かせる彼女は、言うのだ。
「普段、二人だけで歩くことなんてなかったから、印象深かったみたいです……少なくとも、あのときの私にとっては。そこで、私はあなたに名前を呼ばれたはずなんです。何度も、何度も、何度も」
彼女は、そこで言葉を止めて、何かを期待するように目を向ける。
こちらの回答を、歩み出すのを待つような時間が流れる。
「……ちょっとした家出、みたいなものだったんだ」
気づけば、言葉が溢れる。
「理由も、振り返れば子供っぽいものだよ。父さんも母さんもちょうど忙しくて、それで構ってもらえなくて……子供だった俺は、母さんに一方的に癇癪をぶちまけて、玄関から飛び出した」
掘り起こすように、記憶をなぞるように連ねていく。
「無我夢中で走って、近くの公園に着いた。靴も履かずに出たから、足が痛かったんだろうな……ちょうど、ここに座って休んでた。そしたら直ぐに雨が降ってきて、帰れなくなった。まだ秋の肌寒い時期だったのに、半袖で出たから寒いし……その場に誰もいなくて、急に心細くなってきた。考えなしの子供そのものだよな」
自分で話していて、笑ってしまう。そう、これは恥であり、笑い話なのだ。
「……そしたら、駆けつけてくれたやつがいたんだ」
どうして忘れていたのか、不思議なくらいだ。いまなら、昨日のことのように思い出せる。
「そいつはすぐに俺のほうに飛び込んできた。びしょ濡れのままだけど、なんだか温かくて……抱きしめてた」
その記憶は、他の誰がいたわけでも、誰に語ったわけでもないもので。
「寂しいときに、そいつはいつも居てくれた。そのときだけじゃない。いつだって……そいつが死ぬまで、俺の隣に居てくれたはずなんだ」
その思い出は、たった一人と一匹だけのもので。
俺は、隣にいる相手と目を合わせる。
「……先輩から、言っていただけますか?」
まだ、信じられないという気持ちがある。馬鹿げている、なんてふうにも思う。
それでも。
信じたいという気持ちが上回り、俺は……昔傍にいた、友人の名を呼んだ。
「本当に……ハルなのか?」
それは、昔に側にいたはずの名前で。俺がなくしていた名前で。
呼んだ瞬間、葉山さんは懐に飛び込んできた。
避けることもできず、受け止める。離さないとばかりに、両腕を背中に回される。
「そうです。先輩のハルです! ……やっと、やっと気づいてくれたんですね。思い出して、くれたんですね!」
彼女の顔は俺の胸元に押しつけられている。表情は見えない。それでも、涙混じりのものだと、声の震えから分かった。
抱きつかれるがままの俺は、今でも半信半疑だ。
犬が人になって、生き返るはずがない。理性は未だそう言っている。
でも、彼女の暖かさに思い出と重なる。なんて風に思うのも、俺が期待してしまっているせいなのだろうか。
それでも、今の自分にできることがある。
俺は彼女の肩に手を回し、彼女を抱き締めた。
そうすることが、間違いではないと思ったからだ。
彼女は確かにそこにいて、回した腕がすり抜けることはなかった。
それから、少しの時間が経った。時間としては五分にも満たない時間。
ようやく俺は葉山さんと距離を取る。
最初は感情のままに抱きしめていた。けれど、徐々に照れが勝ってくる。雨で人通りもなく、土曜だというのに近くに誰もいなくてよかったと思う。本当に。
まさか勢い余って誰かを抱きしめるなんて、この年になってするとは思わなかった。
照れくささをこらえながら、ひとまず、葉山さんに向き直る。
「えっと……一応、葉山さんが昔犬だったことは……少しだけ、受け入れたけど」
「少しだけ、ですか……!? あんなに感動的な抱擁をしておいて……!?」
「いやそう言われるとそうなんだけど……未だに信じがたい部分はあるよ、やっぱり」
糾弾されると本当に申し訳ないのだけれど、自分の常識が彼女の言葉を心から受け入れることを、なんとなく拒絶しようとしてしまう。こればっかりは、仕方がない。
申し訳なさを有耶無耶にするように、俺は口走る。
「何かしてほしいこととか、ある?」
「してほしいこと、ですか?」
「……いやまあ、最初は完全に疑っていたわけだし、その罪滅ぼしみたいな」
「えっと……私は、昔みたいに先輩の側にいれたなら、それだけでいいんですけど……」
なんとなく、すごく言いにくいことのように堪えている。一体どんな無理難題を思いついたというのだろうか。
それならむしろ俺に撮っても好都合だ。罰にはふさわしい、気がする。
「何か思いついたなら、言ってみて」
「では、その、頭を撫でてほしいです」
「そのぐらいなら、全然いいよ、全然」
思っていたより数段簡単な頼み事に、安堵する。しかし、いざ頭に手を置こうとしたところで、躊躇いが生まれてしまう。
彼女の前世は犬、ということになる。そういうことになった。
同時に、今は会社の後輩でもあるのだ。そんな相手に触れるなんて、一歩でも間違えればセクハラになってしまうのではないだろうか。
そもそも撫でるとはどうやればいいのか。人の頭に触れることなんて、普通に生きていたらまず起こらない。犬ならともかく、今は人。わしゃわしゃと撫でるのは、よくないのかもしれない。いや、むしろそれを求められているのだろうか。わからん、わからんぞ。
「先輩、まだですか……?」
思考に飲まれて硬直していたら、催促をされてしまった。
葉山さんは、目を瞑り頭を無防備に差し出している。両手はベンチの縁に引っかかるように掴んでいる。浮いている脚が、そわそわと動いている。
「それじゃあ、えっと、失礼します」
恐る恐る、葉山さんの頭に触れる。自分の髪とは違って、さらさらと撫で心地のいい髪だ。柔らかく反発してくる。
壊れ物を扱うように触れていると、
「もう少し雑に撫でていただいても、いいんですよ?」
と催促される。が、加減がわからない。髪が乱れてしまうのがいやなのではないのだろうか。それとも犬の過去の記憶があるから、関係ないのか。
指を立て、頭皮をマッサージするように心なし強めにやってみる。葉山さんは、どこか心地よさそうに目を細めていた。正解だったらしい。
その様子が、記憶にある飼い犬の姿に被って見えた。
たぶん、このとき、ようやく彼女がそうであると腑に落ちた気がする。
「今日はこれくらいで満足してあげます。」
撫で終えて、彼女は一言。今日は、ということはまた再びさせられることが来るのだろうか。
「それで……これからの話だけど」
口を結んで、葉山さんは言葉を待つ。
彼女が元飼い犬であると証明されてしまった以上、俺の方から、改めてどうしてほしいのか言わなければならない。
「俺は正直、ハルが死んだとき、裏切られた気持ちだった。ずっと一緒に居ると思ってたのに、すぐに死んだわけたし」
「う」
「たぶん、一緒にいたことさえ忘れたいくらい悲しかったんだと思う……それで実際、忘れてたし」
「ひぃ……」
少し意地悪な言い方だったかもしれないけど、本音だ。
目を閉じて堪えるような素振りをしてくる葉山さんに、これまで感じていた隔意はない。
「でも、こうして君はまた、俺の前に来てくれた。だから俺にどうこうする権利はない。ただ、側にいるくらいは、大丈夫。勿論、葉山さんが望むなら、だけど」
「せ……先輩!」
葉山さんは、再び抱きつこうとしてくる。彼女の頭を反射的につかんで押しとどめる。
ハルは、人懐っこい犬だったからそういう癖もあった気がする。というかよくよく思い返すと、めちゃくちゃ飛び込んできた記憶がある。そういう所は、生まれ変わっても同じなのだろうか。
個人的に興味は尽きないが、ひとまず言い含める必要がある。
「……いまの葉山さんは犬じゃなくて、人なんだから。あくまで普段は適切な距離感でいようね」
「そんなぁ……」
餌を取り上げられたみたいに、しょんぼりとした顔をされる。そんな顔をしても、駄目なものは駄目である。
「……まあ、頭を撫でるくらいならいつでもするから」
「絶対、絶対ですよ!」
ただ、どうにも、彼女の困った顔に弱いらしい。これからの生活は、少し慌ただしくなりそうだ。
「あ……先輩、晴れましたよ!」
彼女が言うように、雨はいつの間にか止んでいた。雲の裂け目から、日が差し込んでいる。
彼女は、屋根の外へ駆けだした。ぬかるんだ地面で、靴が汚れることも気にせずに。
目を細めながら、少し遅れて、俺も前へと足を踏み出した。
■3-1
私には前世の記憶がある。それも、犬の記憶だ。
その記憶は、私にとっての宝物。忘れてはいけないものだ。
ただ、人として生まれ変わってから、二十二年の間で得たものもある。お父さんにお母さん。弟に友達。
そして私、葉山あいには、高校のときからの親友がいる。
私が通っていた高校は、俗にいうお嬢様学校、というものだった。その中でも外れもの、不良と呼ばれる類のものだった。ふいに学校を休んだり、教師への態度が悪かったり、制服を着崩していたり。その程度のことではあるのだけど、その程度のズレで、彼女は不良だと遠巻きにされていた。
私はといえば、その時期は陸上部でエースをさせてもらっていた。まあ、私はエースとか関係なく、走れるならそれでよかった。勉強も、自慢にはならないがそこそこできるほうだった。
ということで、一応は優等生の私と、不良生徒だった彼女にほとんど接点はなかった。
初めて会ったときは、体育祭の空き時間だったはずだ。後者でひとりでいる彼女に、私の方から話しかけた。
素っ気ない態度だったけれど、私にはまるで構って欲しいみたいに見えただからつい、それ以降も話しかけるようになってしまう。
そのうち彼女の方からも、声をかけてくるようになる。犬で例えるのなら、相手の尻尾を追いかけるみたいな感じだ。要するに、波長が合ったのだろう。
その子は綾瀬五十鈴――私はすずちゃん、っていまは呼んでいる。彼女にだけ、唯一話していることがある。
勿論、前世や犬とか、そういうことは言っていなかった。ただ、一度も会ったことがないけど、ずっと会いたい人がいる、と話をしていた。
正直に言えば、そのときあまりうまく話せた自信はない。でも、すずちゃんは私のつたない話を馬鹿にせず、最後まで聞いてくれた。話を終えたあとは、ただ一言「いいんじゃない?」とだけ。
そんな彼女に、私はけっこう懐いていた。
今日はすずちゃんと、今日は都内のカフェに来ている。予約をしないといけないみたいな。
彼女が着ている服装は、甘ロリというものらしい。以前、ゴスロリかと聞いたら怒られてしまった。正直よくわからないけど、かわいくて似合ってるから、細かいことはいいと思う。
すずちゃんは、鋭い目を、更に吊り上げて聞いてくる。
「で、やっと運命の人と会えたんだって?」
「うん!」
今日はそのことを話すために呼んだのだ。
「ふーん、で、どんな人?」
「あ、写真もあるよ、見る?」
画面を見せる。起動時の、隠し撮りした写真を設定しているからすぐに表示できる。すずちゃんは「そもそも実在したんだ……」と言いながら、目を向けて来た。
「思ったより冴えない顔だねー」
「ね!」
「なんで嬉しそうなんだよ」
なんでだろうね、とは思う。ただ、先輩について話せる友達がすずちゃんだけなのだ。今日はどうしても話したくて、会う約束を取り付けてしまった。
「すずちゃんには、どこまで話してたっけ」
「アタシが後輩から聞いたのは、昔一緒にいて、でも大きくなるまでは離れて、ようやく再会して、いまは一緒にいる。生き別れの兄妹か何かじゃない……ほとんど少女漫画の類ね」
「た、たしかに言われてみれば……?」
生き別れの兄妹というのは、見方によっては部分的に合っているかもしれないけど。
「で、でもそういうのじゃないんだって。私は少しでも一緒にいられたら、それで満足だから」
「ふーん、ならアタシにとっての推しみたいなものか」
「えっと……」
「輝いてるところを見たい。こっちを見ないでほしいけど、でもたまにこっち向いてほしい」
「そ、そうかも……?」
すずちゃんは、地下アイドルのファンらしい。だから、たまにそういう話をしてくる。正直よくわからないけど、すずちゃんがそういうなら、そうなのかもしれない。
「すずちゃん、何か言いたげだよね?」
「そりゃあ、ダチが男に横から搔っ攫われそうになってるんだから、悪態の一つや二つでるわよ」
「でも私の一番の友達は、すずちゃんだよ。それじゃだめ?」
「……あんまりさらっとはずいこと言うな。ほら、食べるわよ!」
お皿に彩られているケーキと、それから紅茶に手を付ける。
すずちゃんのお家は結構ゆるいようで、わりと自由に生きてる。家とかに関係なく、アパレルメーカーに就職したらしい。昔からの夢だと言っていたから、そこは素直に尊敬する。
お茶を飲む所作はいつみても綺麗だ。私は結構そういう手先を使うのは苦手だから、憧れてしまうところがある。
「それで、そいつとはどこまで行ったの?」
「どこって……実家の方とか?」
「実家!? 早くない!? もう結婚秒読みなの!?」
「え!? ど、どういうこと!?」
すずちゃんは、怪訝な顔で聞いてくる。
「……もう付き合ってるんじゃないの?」
「そ、そういうのじゃないよ!」
いきなり結婚とか、付き合っているとかでてくるものだから、私もびっくりしてしまう。
なら、どういう関係なのかと突っ込まれると、少しは困る。
「私は先輩の傍にいられたら、それで十分、満足だから」
「それはそれで、爛れた関係じゃないのかしら……」
「た、爛れてはいないんじゃないかなぁ……」
「まあ、あんたがいいならいいんじゃないの。今時、いろいろな愛の形があるからね。最終的に幸せなら、それでいいんじゃない? ただ……」
すずちゃんは、ケーキにフォークを差す。いちごタルトだから、フォークが皿にあたってガシャンと音が鳴るけど、気にした風もない。切ったぶんを一口に入れて、飲み込んでから一言。
「泣かされたりしたら、いつでも言いなさい。私が殴りこんでやるから」
「すずちゃんはかっこいいねー」
「それほどでもないわ」
自信満々。結構憧れてる。私はわりと自信はない。
「それにね、私だってもらってるものもあるんだよ。今度一緒に散歩するのも約束してるの。楽しみだなー」
「私と二人でいるときに、あんまり話すのはよしなさい。嫉妬するわよ」
素直なすずちゃんは珍しい。まじまじと見てしまっていれば「見物料としてあんたのケーキもらうわよ」といってきたので、慌てて口の中に隠すのだった。
■3-2
時が経つのもこの歳になると早いもので、気が付けばもう九月。夏より暑い日もあれば、夜には時折秋の涼しさも感じる、そんな季節。
葉山さんが仕事に入ってからは、もう四か月も経っている。仕事も好調そのもの。最近は新しい仕事も任せていっている。こちらが気づかなかったミスも気づいてくれるようになったから、成長は目覚ましい。
とまあ、ここまでが仕事の上での変化。
私生活でも、変化した部分がある。もちろん、それだって葉山さんが関係している。
正直なところ、距離を測りかねていた。葉山さんは際限なく距離を詰めようとしてくるから、こちらが推しとどめている。確かに、傍にいていいとは言ったが、限度も各々の生活もあるのだ。
だから、いきなり大きな変化が来たわけではない。
また、夏季休暇では、葉山さんは有休を二日ほど取って、実家に戻っていたこともある。そのおかげで、ワンクッション置くことができた。
会社の後輩。同じ町の隣人。取引先の社長の娘さん。そして、元飼い犬。
要素が渋滞しているが、まあなんとなく成り行きで受け入れている。いるつもりだが、受け止めきれているとは言い難い。
なまじ心理的にも物理的にも距離感が近いぶん、持て余している。
複数の要素を隠したら、懐いてくる可愛い後輩だ。これで犬じゃなければとは思うが、犬じゃなかったら俺のところに来てない。
とにかく、俺の生活サイクルが大きく変化したきっかけは、八月の末だ。
「先輩、ランニングをしましょう」
運動してないと話したら、一緒に走ることになっていた。あんまり運動してないんだよな、とか、健康診断の値がちょっと怪しかった、などという話をしたら、食い気味にランニングを推奨されたのだ。
運動しないとな、と思っている。いるのだが、なかなかきっかけがない。だから一緒に走ってくれる相手がいるのなら、休むことはないだろう。
そうしたお互いの利益も踏まえてのランニングだったけれど。
「俺のことはもう、いないものと思ってくれ……」
ランニング初日に、俺は朝から死にかけていた。
今日が土曜でよかったと、心から思う。平日なら使い物にならなくなっていたかもしれない。まさか二分もかかることなく、心臓が暴れ馬のごとく張り裂けそうになるとは。
家の近くにある、川沿いの土手のランニングコースは先が見えない。
「まだ走り始めたばっかりですよ、先輩!」
「運動不足を甘く見るな……」
よく考えれば、目の前で通過しようとしている電車やバスに駆け込むだけで、心臓が張り裂けそうになるレベル。これでどうしてもう少しくらいは行けるなどと思っていたのか。我ながら勘違いも甚だしい。
「葉山さんは……元気だね」
「はい、中学の頃から元陸上部なので!」
理屈になっているのかいないのか。どうにもわからない返事だが、彼女の礼儀正しさの下地に、体育会系気質がある点には合点がいく。
「ほら先輩、少し休んだらまた走りますからね! 健康は一日にしてならず、ですよ!」
「……もう少し休んでからでいい……?」
「もー。少しだけですからね」
新卒の体力と比べないでほしい、本当に。
まともに話せる程度には回復したけど、もう少し休みたい。そんな気持ちもありつつ、時間稼ぎに雑談を続ける。
「……前から気になってたんだけど、犬の記憶がある、っていうのはどういう感じなのか、聞いてもいい?」
「記憶ですか。うーん……そうですね。なんというか、リアリティのある豪華な夢? みたいな感じです。こう、色と臭いと感情付きの。それがぶわーって頭に浮かぶ感じですね」
「意外と臨場感ある感じなんだ」
「ですです。でも、私が思い出す記憶のほとんどは……たぶん、印象的だった記憶がほとんどですね。初めて家に来たこと。先輩が家族に加わったときのこと。はじめて散歩したこととか。ただ……」
葉山さんは、それから頬を掻いて、少しバツが悪そうに続ける。
「あったかい気持ちしか覚えてないのは、ちょっとずるしてる気持ちになりますね。先輩の家にいたときは、ずっとそういう気持ちだったのかもしれませんけど」
「……そうだといいな」
「先輩の両親についても、覚えてはいるんです。もし生きていらしたら、恩返ししたかったんですけど……」
ですが! としんみりしかけた空気を吹き飛ばしながら、葉山さんは続ける。
「まあ、それは仕方ないですよね。なのでその分、先輩に尽くさせていただきます! 先輩のご両親にできないぶんも、びしばし行きますよ! 先輩の健康をお守りします!」
「別に、そんな風に気負わなくても、いいからね」
やる気に満ち溢れている姿は、頼もしい。だけど、一言横やりをいれてしまう。葉山さんは、目をぱちくりさせている。
「なんていったらいいのかな、生まれ変わったなら、それは葉山さんの人生なわけだし、俺にばっか時間使ってられないでしょ……というか聞いてなかったけど、葉山さんって他に休みの日は何してるの?」
「だいたいお菓子作ってますね! 沢山作って一人で食べてます。いつでも好きなときに料理できるのは、一人暮らしの特権ですね。先輩も、わたしの家に来たら腕によりをかけておもてなししますよ」
「……そういうのはなしって決めたでしょ」
葉山さんとの交流を続けていく上で、一つ決め事をしている。
お互いの家には行かないこと。
普通の同僚は、相手の家に行ったりしない。ましてや男女なのだから、間違いが起こらずともそう容易く行くものではないだろう。
まあ、葉山さん相手に間違いが起きようはない。ないとはいえ、必要な線引きだった。何も言わなかった場合、元飼い犬という立場を利用して際限なく距離を詰めようとして来るのだ。線引きをしなければ、何をしでかしてくるかわかったものではない。
「ちぇー……それ以外だと、友達と一緒にお出かけしたりするくらいですかね」
友達、と。彼女の発した言葉に、一瞬意外に思う。一瞬だけだ。犬だのなんだのとは言わなければ、面も態度もいい優等生の美人なのだから、いて当然だ。
それに、彼女が元犬だったとしても、そのあと二十二年もの間、生きている人生がある。
彼女の人生の中で、わざわざこうして時間を割いてくれているのはありがたいと同時に、申し訳なさもあった。
学生の頃と違い、社会人になれば仕事で一日の大半をつかうことになる。時間は有限だ、その大切さを否応なく理解してしまう。
そんなこちらの勝手な罪悪感を気にせず、葉山さんは嬉しそうだ。
「今日も楽しそうだね……」
「えー、だって私のことを聞いてくれるのって、心配してくれてるって事じゃないですか? でも大丈夫です。色々と心配していただいてますけど……私、こうして先輩と一緒にいられて幸せですよ?」
「はいはい」
こちらの気も知らずに、彼女はさも当たり前であるように言ってくるのだから、まともに返してはいられない。
普段から、平気でこんな風に言ってくるのだ。でも、ここで勘違いしてはいけない。男女の仲とか、そういう意図で彼女は言っているのではない。
あくまで友愛、親愛、兄弟愛。その類いだろう。
そうでもなければ、こんな風にあっけらかんと好意を露わにすることもない。
「私が先輩と一緒にいたいから、やってることなんです。先輩から言質はとっていますからね、嫌とは言わせませんよ」
「それを出されると困るけど……でも、他にやりたいことがあったら、いつでも言っていいからね、本当」
「はい!」
元気のいい返事がノータイムで来る。わかってるんだかわかっていないんだか。なんとなく、頭を撫でて誤魔化す。
定期的に撫でを要求されるので、こちらもつい、癖のように撫でてしまう。おかげで言われずとも、そうするようになっていた。
(この間も、職場でうっかりやりそうになったので危なかったんだよな……)
人に言っていてなんだが、自分でも用心しなければならない。
「ふぁ……」
撫でられる彼女は、無防備に目を細め、口元が緩んで空いている。
そこに邪な感情は浮かばない。もはやペットを撫でている感覚だ。
後輩相手にそんな風に思うのは、あまりよくはないかもしれない。ただ、不埒な方向に意識を向けることよりはよっぽどいい。
変な勘違いをしないようにしなければならない。
今日も戒めを心に刻むのだった。
「なあ、ズミ。お前、もしかして葉山ちゃんと付き合い始めたりしてる……?」
出社日、いつものように給湯室で休んでいるとき、駆け足でやってきた蓮にそう聞かれた。
藪から棒なその言葉に、俺は盛大にむせてしまう。人が飲んでるときに限って毎回変なことを言うのはやめてほしい。
「お前、その反応、もしかしてマジなのか……!?」
「いや、心当たりがなさ過ぎて困惑してるんだよ」
あるといえばあるのだけど、言えるはずもない。それに、付き合っているわけではないから嘘ではない。
俺の言葉に、蓮は神妙な顔で続ける。
「いやなんか……業務中の姿を見て、なんとなくそんな気がしたんだよ」
「別に……何も変わってないだろ」
業務中は少なくとも、先輩後輩として、と言い聞かせている。俺もそう振る舞っているはず。
業務時間の外では会ってはいる。ただ、あくまで隣人の範疇にとどめている。そのはずだ。余計な邪推を生むようなことはない、そのはずだが……
「いや~なんか、なんかな~、なんか……」
確証はないが、確信はある。そんな様子の蓮に、冷や汗が出る。とにかくこいつにだけは絶対に言ってはいけない、いろんな意味で。
「まあ、近づくならちゃんといい方向に持って行けよ。あと、俺にはちゃんと言うようにな」
「なんでお前に言わないといけないんだよ……第一、俺は葉山さんとは何もないから」
「私がどうかしましたか?」
「うおっ」
葉山さんも、遅れてやってきてしまった。会社内で話しているのだから、それは来ることもある。会話を聞かれていただろうか。
葉山さんは、蓮にぺこりとお辞儀をする。
「浦賀さんも、お疲れさまです」
「おっすおっす。元気そうで何よりだよ。コーヒー飲む?」
「いえ、大丈夫です。私はお水派なので」
葉山さんは俺と蓮の横を通り抜けて、備え付けのウォーターサーバーから、水筒に水を入れる。
仕事を休んで男二人で駄弁っているところを見られて、ややバツが悪い。けれども気にした様子もなく、会話に混ざってくる。
「浦賀さんって、先輩とよく一緒にいますよね。仲いいんですか?」
「おう、ズミとは大学のときからの付き合いだよ。まあ、親友みたいなもんだな! この会社に来たのも、俺が誘ったからだし。な!」
「そうだけどさ……」
「なるほど……私の先輩がいつもお世話になっています」
「いえいえ、こちらこそうちのズミが世話になっています」
「どっちも俺のなんなんだよ」
変に息を合わせて、俺をネタにするのは勘弁してほしい。こういう形でいじられるのは苦手なのだ。
蓮は「まあ気にすんなって」と言ってから、
「いやー、さっきまで葉山ちゃんとズミが仲いいなーって話してたんだよ。で、どうなん?」
と、興味深々であることを隠そうとせずに尋ねる。
「浦賀さんからもそう見えますか? ……実はとても仲がいいんですよ。先日は一緒にお酒を飲みに行きましたし」
「ズミ、おまっ……やるじゃん」
「普通に飲んだだけだよ。邪推はやめろ」
間髪入れずに肘打ちをしてやる。蓮は身もだえするが、自業自得と思ってもらうほかない。
一方で、葉山さんに対しては他に何か余計なことを言うのでは、と内心ヒヤヒヤしていた。しかし、俺と蓮のやりとりを、微笑んで見ているだけだ。それ以上のことは口にしなかった。
コーヒーを飲み終えた蓮が戻っていくのを見送って、二人残されたあと、ふと疑問に思う。
「そういや、なんで俺には先輩呼びしてるかって、聞いていいこと?」
蓮にはさん付け。というか俺以外に先輩呼びしているのを聞いたことがない。
前も一度、先輩呼びについて聞いたときには「部活が熱心なとこにいたので、その名残というか」などと答えられたはずなのだが。
葉山さんは、こちらに視線を向けた後、逸らす。
「その、さん付けってなんだか他人行儀じゃないですか。それが、ちょっと嫌で……いまはもう、慣れで呼んでしまっているんですけどね」
「そ、そっか……」
「でもせっかくですし、これを機に呼び方、変えてみてもいいですよね。というかしませんか? 先輩! 私の二人きりのときだけでもいいんですよ。例えば昔の、犬の頃の名前で呼んでみるとか」
「それはややこしいだけだからやめておく」
「一顧だにせず!?」
「よく考えてみてほしいんだけど、他の人もいる会議の中でうっかり呼んだら……ちょっとヤバいと思うんだ」
彼女の名前を呼ぼうとしたら、元カノの名前を呼ぶくらい変な空気になりそうだ。
「呼び方については、おいおいということで……」
「……まあ、それはいいです。なら、代わりに先輩の昔の話とかも、今度色々教えてくださいよ。私に会っていなかった間の!」
「そんなに面白話のストックがあるわけでもないからね。というか、どうしたの、急に」
「えっと……特に理由があるわけではないのですけど、なんとなく?」
なんだそれ、とは思ったけれど、小首を傾げる彼女は、自分でもよくわかっていない様子だった。
デスクに戻ると、付箋がついた封筒が一つ置かれていた。
付箋には、『貰い物だけど使う予定ないから、好きに使ってくれよな by浦賀 蓮』とのこと。
封筒を開ければ、そこには『わくわくワンダフルランド』と書かれた紙が二枚。つまり、遊園地のチケットが入っていた。
遠くの座席にいるはずのその男を見れば、すぐに視線に気づいたようで親指を立ててくる。
本格的に、何か勘違いされているらしい。
「どうかしましたか? 先輩」
「いや、何でも無い」
遅れて戻った葉山さんにそう問われるが、隠す必要なんてないのに、つい封筒を隠してしまう。
どうしようか、これ。
業務時間、少し考えたら悩む必要もないことだと気づいた。
葉山さんなら友達も多いだろう。渡せば誰かと一緒に行くはずだ。
蓮が余計な事を言うから、うっかり俺が葉山さんと行くことしか考えていなかった。が、そもそも必ずしも二人で一緒に行く必要もない。
「葉山さん、はい、これ」
終業後、いつもの交差点での別れ際で、葉山さんに押しつけた。
葉山さんは目を瞬かせてから、中身を確認する。
「あの、これって……」
「今日、蓮にいらないからって押し付けられたんだよ。まあ、俺が貰っても使い道がないから。いらなかったらいいんだけど……」
「いえ! いらないことなんてないです! ありがとうございます!」
「そ、そう? まあ、お礼なら蓮に言ってね」
想像以上に喜んでいる。やっぱり女性はいくつになっても、こういうのが好きなのだろうか。それとも彼女が少し子供っぽい……というよりは、犬っぽいからだろうか。
葉山さんは、口元を封筒で隠し、どこか照れくさそうに話す。
「実は、お恥ずかしながら、遊園地の類いは一度も来たことないんです」
「え、そうなんだ。友達とか、ご両親と一緒に毎年行ってそうだと思ったんだけど」
「……つかぬことをお伺いしますけど、先輩って、私にどんなイメージを持ってるんですか?」
「いやいや、まあまあ」
「まままあとは……一応、毎年海外に家族旅行に行っているんですよ。友人との卒業旅行も、台湾でしたし。そういうわけで、逆に行く機会を逃がしてしまっておりまして。なので、今回が初めてです」
葉山さんのそういう話は余り聞いていなかったから忘れていたが、やっぱりお嬢様育ちなんだな、と再確認する。俺は海外なんて一度も行ったことがないので、それだけで内心、ちょっと尊敬してしまうのは俺が小市民だからだろう。
まあ、喜んでもらえているのなら何よりだ。
なにせ彼女はここしばらくの間、俺のためだと言って色々してくれている。けれど、こちらに返せるものがないものだから、申し訳なさに困っていた。
息抜き、というわけではない。けど、彼女もたまには羽を伸ばしたほうがいいから、丁度いいはず。ナイスだ、蓮。
「なので、誘って頂けてすっごく嬉しいです! それで、いつ行きますか?」
「……え、いつって?」
「……あの、これって、先輩と一緒に行くってこと、ですよね? 違いましたか?」
葉山さんは、捨てられた子犬のような顔を向けて来る。
う、と流石に罪悪感に駆られる。この顔に弱いのを、分かっていてしているのだろうか。だとしたらとんだ悪女に違いない。
「いや、そういうつもりじゃなかったんだけど……俺と行っても別に、そんな面白くないと思うし」
「そんなことないです! 行きましょうよ、先輩!」
一転、相変わらずの押しの強さだった。一体どこから原動力が来ているのか。
「それじゃあ……お手柔らかに?」
そして若い勢いを断る元気もない俺は、毎度の事ながら流されてしまう。というか、毎度毎度流されすぎな気がする。
「やった! ならいつ行きます? 明日でも私は大丈夫ですよ!」
「明日は歯医者に行くから無理かな……」
「では明後日ですか?」
「日曜は空いてるけど、次が平日だから、別にしてもらえると助かるかな。仕事がある日まで、疲れは残したくないしな……早くて来週かな」
遊園地を回るのであれば、結構体力を使うことになるだろう。翌日が怖いから、満を持しておきたい。
「では、来週の土曜ですね! 私、楽しみにしてます!」
「あ、うん」
そうして予定が半ば強引に決められた。葉山さんは跳ねるように帰って行く。終業後というのに、あれだけ体力が有り余っているのは、いっそのこと呆れた方がいいのだろうか。
■3-3
「ということで、今度先輩と一緒に遊園地に行くことになったんですよ!」
「それはよかったわねー」
先輩に誘われたその日の夜、私はすずちゃんと通話をしていた。
最近は、特によく通話をしてしまっている。話す内容はこちらは先輩のこと。嬉しいことが多くて、一人では受け止めきれないから、ついしてしまうのだ。
ベッドで横になりながら、ごろごろと話す。
私の手には、先輩にもらったチケットがある。光にすかして掲げて、たしかにそこにあることを確認する。夢じゃない。
使うのがもったいない。使用したあとは持って帰れるだろうか。記念にとっておきたい。
「遠くまで散歩したことはないから、楽しみだなー」
「それは……散歩じゃなくて、デートじゃないの?」
「……デート?」
聞き慣れない言葉に、止まってしまう。
「そう、なのかな?」
デートとは。男女が二人でお出かけすること。そういう定義なら、デートなのだろう。
あんまり実感はわかない。散歩は散歩、そういう認識だった。
「服装はどうする気? まさか、いつも通りでいく予定じゃないわよね?」
「え、うん。そのつもりだけど……」
動きやすくない服だと、どうにも合わないというか、落ち着かない。だからだいたいは同じようなものを着てしまう。
「あんた、明日空いてるわね。服、見繕ってあげるから」
「え、ええ? いいよ、そんな別に」
「デートなんだから、ちゃんとした服で行かなきゃダメでしょ。いや、普段の服は似合ってるけど、でも普段から会ってるんだから、そのぶんギャップが大事よ。こういう時に意識させないと」
鈴ちゃんは、もうデートだと思い込んでいるみたいだ。
「でも、私と先輩はそういうのじゃないよ」
「あなたがそう思ってても、その先輩、とやらがそうとは限らないでしょ」
「それは……そうかもしれなくもなくもないけど……?」
言われてみると、鈴ちゃんの言葉にも一理ある。
先輩の好意に甘えているという自覚だって、少しくらいはある。
側に居ることを許された。それが嬉しくて、いままで考えていなかった。先輩が本当に嫌なら断るはずだと思って接していた。
先輩は、私のことどう思ってるんだろう。
思い出すのは、困ったように笑う顔。先輩は、よくそんな顔をする。そして、次には頭を撫でてくれている。
「でも……変な風に思われるかもしれないし」
私が言うと、鈴ちゃんに大きく溜息をつかれてしまう。
「いつもの積極性はどこに行ったのよ。それに、足踏みしてたら、かっさらわれちゃうかもしれないわよ」
「かっさらわれる、って」
「そりゃあもう、他の泥棒猫によ」
「どろぼうねこ」
言われて、そういうこともあるのかと、我ながら驚いた。
そういえば、先輩に彼女がいることを考えもしていなかった。
探偵の叔父に調べてもらってから、入社まで。その間に二年が経っている。先輩に恋人ができていたって、なんらおかしなことではない。
それに、先輩はあんなにやさしいのだ。いたっておかしくはない。むしろ、どうしていると思いつかなかったのか、我ながら不思議だ。
でも、もし恋人がいた場合、私はどうするべきなんだろう。
先輩に彼女がいるのなら、自分のことのように喜ぶべき。そのはずだ。なのに、私の中に浮かんだのは、
(嫌だなぁ……)
という、濁った気持ち。
一瞬遅れて、そんな感情が湧いたことに、自分のことながらびっくりする。
私の代わりに、先輩の隣に誰かがいることを想像すると……なんとなく、胸のあたりが淀んだような心地だ。
(……私は、先輩とどういう風になりたいんだろ)
今が楽しい。一緒にいられることがうれしい。
ただそれだけのはずだった。
でも、一緒にいると際限なく欲が出てしまう。
私がどうするべきなのか、今はまだ、わからないけど、
「可愛い服を着ていったら、先輩、嬉しいかな」
「あんたがかわいい服を着ていって喜ばない男は男じゃないから大丈夫よ。自信持ちなさいな」
「またそういうこというー……じゃあ、お願いね、鈴ちゃん」
喜んでくれたら、うれしいな。
遠くない未来への、確かな期待を抱いて、私は待つ。
そして――
「明日は行けない……ですか?」
■3-4
一週間が経ち、遊園地に行く前日。残業を一時二時間程度済ませてから帰ろうとした矢先、その連絡は来た。
要約すると、休日出勤のお達しだ。俺の仕事と言えば、基本的には遠隔で業務を請け負っている。だから普段は自社や家で仕事を行っていた。
ただ、たまに客先に出向く業務が発生する。そういった場合、従業員がシステムを稼働させている平日ではなく土日となる。こんなに直前に連絡が来る場合は、かなり珍しいがそれだけ至急の依頼なのだろう。
緊急の依頼は、ここしばらくなかったから油断していた。よりにもよって、というタイミングだが、生きていればこんなこともある。人生、中々思うようにいかないものだ。
残業を終えたのち、葉山さんに連絡をする。メールで送るよりかは、口頭で伝えた方が良いかと電話をすれば、すぐに繋がる。
『お疲れさまです、先輩。お仕事は終わったんですか? 何か明日の件で、ご用ですか?』
「おつかれ。あー……言いにくいことなんだけど……」
そして、明日に仕事が入ったこと、休日出勤で出なければいけないことを伝えた。
「というわけで、別の日にずらして貰うことになるけど……いいかな? ごめんね、本当」
『そ、そういうことなら、仕方ないですよね』
そういってもらえて助かる。葉山さんには悪いが、仕事となれば、こちらではどうすることもできない。
「うん。それに、まだ暑いし……いっそのこと、もう少し涼しくなったらでも、いいんじゃないかな」
わざわざ夏日に慌てて行く必要もない。チケットの利用期限にも余裕がある。別の日に行けば問題ないはずだ。
「まあ、もし予定が合いそうになかったら、友達でも誘って行きなよ」
そもそも、俺と行くことにこだわる必要はない。遊園地に初めて行くと楽しみにしていた。故に、完全に善意の提案だったのだが、
『先輩は……楽しみにしてなかったんですか?』
抑揚のない声で、彼女に問われる。
「いや、別にそんなことはないけど」
『だったら……!』
葉山さんは声を荒げた。電話越しであっても、その中に怒気が含まれているのは明白だった。荒げられた声は、続くことはなく途中で止まる。
俺はといえば、何故彼女がそうなったのか理解できずにいた。それに、葉山さんがこんな風に感情をむき出しにしたのは初めてだ。
きっと、俺は何か間違えたのだ。だが、頭が上手く回ってはくれない。
『……ごめんなさい、先輩。通話、切りますね。明日はお仕事、がんばってください』
黙ってしまっていれば、葉山さんは早口に言い切る。何か言い返す前に、既に電話は切れていた。
「どうすりゃいいんだろう、これ」
そんなに楽しみにしてたのだろうか。でも仕事だから、仕方ないで済ませてもらうしかない。
普段の葉山さんなら、分かってくれるはずだ。そう聞き分けの悪いような子でもない、そのはずだ。
……いや、本当にそうだろうか?
「俺、何にも知らないな……」
少し、浮かれていたのかも知れない。
どんな形であれ、葉山さんと他の人より仲良くなっていると、自惚れがなかったとは言い切れない。彼女の事を知っていると思い上がっていた自分がいたことを否定はできない。
ただ、今から会いに行くという選択肢もない。わざわざ呼び出すほどのことでもない。
というより、一番の難題として、
「なんて声をかけたらいいんだろうなぁ……」
何も考えずに謝るのも違う気がする。そもそも、どうして彼女がああいう反応をしたのか分からない。
明日、何か手土産でも渡せばいいだろうか。なんて思っても、何が好きなのかもわからないから、用意のしようが無い。
改めて振り返ると、葉山さんとの間で、彼女に自分から何かを誘ったことはない。ただ年下の後輩に誘われるがままになっているだけだ。
先輩、なんて呼ばれているとはいえ、ただ早く生まれただけだ。ただ早く仕事に就いただけだ。
それは分かっている。いるのだが、何も出来ない自分が煩わしい。
翌日、葉山さんは、いつものランニングの時間には来なかった。今日は行けない、とだけ連絡が来た。でも、少しだけいつもの待ち合わせ場所で待ってしまう。そうすれば、いつものように曲がり角から現れるような、そんな気がしたからだ。
勿論、来ることはない。せっかく朝起きて着替えたのだからと、一人で街を走る。
いつもは静かな街が、いつも以上に静かに聞こえる。自分の息づかいも、心臓の音だっていつもよりも聞こえてくる。
ランニングは習慣付いている。体力が飛躍的に付いたわけではないけれど、自分のペースも分かって最初ほどの疲弊はない。
それに、これまでは葉山さんが側にいた。
今はいないから、自分のペースで余裕を持って走ることができる。余裕があると、考え事をする余裕が生まれてしまう。
一晩考えた。
結局、自分がすべきことといえば、葉山さんに謝ることだろう。
葉山さんの好意に甘えていた、俺の怠慢だ。
前世が飼い犬だから、なんて理由の好意を享受していた。甘んじて受けることに、いつの間にか慣れてしまっていた。
いや、いっそのこと彼女と恋人や、そういう関係になってしまえばよかったのかもしれない。
でも、それはできないことを自分なりに理解している。彼女に心から寄りかかることができない。
だって彼女は犬であって、犬ではないから。
でもその言い訳はあくまで俺の理屈でしかない。葉山さんには関係がないところで、臆病な俺が勝手に距離を保っているだけだ。
ランニングを終える。
普段は使わない路線に乗って、現場に向かう。
業務が終えたのは十七時。思ったより、だいぶ手間取ってしまった。休日出勤の日は、帰社時間は自由だ。早々に退勤する。
帰りの電車は、平日とは様相も違う。私服で出かけている人たちが多く目に入る。一方、俺はといえば客先に出るからスーツ姿で仕事帰り。
彼らを見ていれば、本当なら今は遊園地に行っていたのかと、思いを巡らせてしまう。改めて考えると段々行きたくなってきたのは、現実逃避だろうか。
俺は、どうしたかったのか。
葉山さんに会いたかった。
会って話したかった。
いくら考えても、結局、そういう帰結になる。
こちらからは距離を保とうとしたはずなのに、いざとなると仲を保ちたい。浅ましさに、我ながら苦笑する。
彼女との変化を求めているわけではない。ただ、このまま喧嘩別れのようになってしまうのは、不本意だ。
だから、覚悟を決めて連絡しようとしたところで、携帯に連絡が来ていることに気づいた。
確認すれば、送り主は葉山さんその人だ。『先輩、今日はいつ帰る予定ですか?』と、短い文章。あと三十分で駅に着くところでだと返すと『いつもの交差点で待っています』とすぐに返事が来る。
彼女の連絡の意図は、いまはまだわからない。糾弾されるのでもいい。
ただ、早足で向う。
果たして、彼女は交差点で待っていた。
「先輩、お疲れ様です」
いつもの見慣れた服装だ。大きく変わりはないはずだ。
それでも、なんだか初めて会ったときみたいな、よそよそしい雰囲気を感じた。
彼女は正面に立ち塞がる。口をまっすぐに閉じて、それから勢いよく頭を下げる。
「先輩、昨日は、あんな態度をとってごめんなさい!」
ああ、これは前にも、やったような流れだ。
あのときは、葉山さんが一方的に謝るだけ。
「俺も、ごめん」
けれど、今回は彼女だけに非があるわけではない。
「一晩考えたけど、なんで葉山さんを怒らせたかわからなかった。だから、聞かせて貰ってもいいかな?」
ランニングでよく通る公園。その片隅のベンチで、肩を並べる。
隣に座る葉山さんは、深呼吸を一つ。それから目を伏せて、
「先輩は、悪くないんです。ただ……先輩に、期待しすぎてただけなんです」
彼女はぽつりと話し出す。
「私、先輩が私の望むことをなんでもしてくれるっていつのまにか思ってました……いつのまにか先輩に、期待しすぎちゃってたんです」
葉山さんの独白を聞きながら、俺は思う。
きっと俺は、もう少し思い上がるべきだったのだろう。
「遊園地に行けないって話したとき、先輩がそんなに残念そうじゃくって……それに、他の日にとか、他の人と行けば、だなんて言うから……私、ばかだなって勝手に傷ついて……」
彼女がいつも理由なく楽しそうにしているのではなく、俺が一緒だから楽しげにしているのだと。
彼女の言葉を、行動を、もう少しだけ信じるべきだったのだ。
それを俺は、勝手に予防線を張って、向き合おうとしなかった。
「……馬鹿なのは、俺の方だよ」
彼女は、本当に純粋に想ってくれているだけなのだ。
それを余計な事を考えて、距離を取っていた自分が馬鹿らしいというか、馬鹿そのものだ。
「そんなことないです。あったとしても、私の方がばかです。大ばかです。自分でも、どうしてあんな風に言ったのかわからなくって……それで何かせずにはいられなくて」
彼女は、手に持っていた包みを差し出してくる。受け取ってみれば、透明な袋でラッピングされたチョコマフィン。
「つい、作ってきてしまいました。こんなものでよろしければ、受け取ってください。あの、最悪捨ててしまってもいいので……」
そんなことを言う葉山さん。ここまで悲観的な言葉を聞くことも、初めてな気がする。
まるで悪いことをして、ばれたときの犬のようだ。そのあんまりな様子に、俺はつい、吹き出してしまった。
「ど、どうして笑うんですか!」
「いや、昔も母さんに叱られたあとは、こんな風にしょんぼりしてたよな、って。あ、犬の頃の話だからね」
「き……記憶にありません」
「都合のいい前世の記憶だなー」
「意地悪なこと言わないでくださいよ! 仕方ないじゃないですか……」
拗ねたように、彼女は口を尖らせる。
まあ、笑ってしまった理由は、はそれだけではないのだけど。
「……それと、俺からも、これ」
リュックから、小包を取り出す。帰り道の道中で買った、洋菓子屋のクッキーがひとつ。
葉山さんが、驚いたようにこちらを向く。その様子を見て、予想通りの反応に笑ってしまう。
「ペットは飼い主に似る、って言うけど、本当なのかもね」
「……ですね」
結局、違うようで似た者同士だった、ということらしい。
片や期待しすぎて、片や期待しすぎないようにする。
謝罪の印に、手土産を持ってくるところまで同じとは思わなかったけれど。
やがて、葉山さんもつられて笑い出す。
二人で笑ってから、彼女は受け取ってくれた。
ひとまずこれで仲直り、ということでいいのだろう。
改めて、葉山さんに向き直る。
「期待してくれるのは、諦められるより嬉しいことだから……これからも、期待してもらえるよう、俺もがんばりたいと想う。それと……もう少し、葉山さんのことを知れるよう、頑張るから」
「は、はい」
お互いの歩み寄りが不揃いだったのが、今回の原因だろう。
彼女はたぶん、単なる元飼い主と元ペット以上の関係を、親しさを求めている。その形が、恋人や、そういったものでないにしても、だ。
そこに向き合わず、俺はといえば現状に甘んじて、いいところだけすくい取っていた。そんな関係は破綻して当然だった。
俺達は、お互いのことを知らない。何を考えているのかも、どういう嗜好なのかも理解していない。
単なる他人でいるのならそれでもよかった。
けれども、側にいていいと彼女に言ったのだ。
とはいえ、お互いについて知ることは、長期的な努力目標としての話になる。いまするべきことは、直近の話だろう。
「それで、葉山さんは……明日ってまだ空いてる?」
「は、はい、空いてますけど……」
「なら、せっかくだし明日に遊園地、行っちゃうのは、どうかな」
「……い、いいんですか? あの、先輩を振り回さない自信、いま私ないですよ? 絶対疲れちゃいますよ?」
「それは……お手柔らかにして欲しいけど」
早まったかな、なんて思いながらも、自分の言葉を撤回する気は、今の俺にはなかった。
「葉山さんのおかげで少しは体力もついてきたし、大丈夫でしょ。たぶん」
少なくとも、多少の無理をする価値はあるのだ。
■4-1
年齢差はともかくとして、この年の男女が二人で遊園地に行くのは、世間一般にデートと呼ばれるものになる。
これまでは、意識しすぎていた。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。
例えるのであれば……そう、あくまで散歩。あるいはその延長線上なのだ。
と思考を整えてから、家を出る。
今日は最寄り駅で集まり、そこから目的地である遊園地に向かう予定だ。
こういうとき、車があればもっと手軽なのだろうな、とは思う。次いで、一人でいる分には、考えなかった悩みに少しだけ笑ってしまう。
さて、待ち合わせの時間は過ぎている。事前に遅れると連絡は来ているから、そのことは問題ない。ただ、葉山さんは仕事の出勤でも、早朝のランニングでも遅れたことはないので珍しい。
予定から十分程度過ぎたあたりで、小走りで葉山さんがやってくるのが見えた。
「すすす、すみません、ど、どう詫びればよいか……」
「大丈夫だから、落ち着いて……」
焦ってはいるが、息は切れていないのは、流石は元運動部、なのだろうか。それにしても、今日はいつもと何か違う気がする。
その原因は、すぐに気づいた。彼女の服装だ。
彼女の身に着けている服装は、確かにこれまで見たものとは異なるものだ。
葉山さんの普段の服装は、パンツスタイルが基本。いつも動きやすい服装をしているイメージが強かった。
しかし今日の服装はブラウンのニットに、緑のロングスカート。普段のボーイッシュな雰囲気はなりを潜めている。
正直に言おう、かわいさに目を奪われてしまっていた。
「……あの、先輩は、この服、どう思いますか?」
「どう」
ふいに尋ねられて、一瞬思考が硬直する。
いや、余計な意図はないだろう。彼女は(元)犬。そう考えると、自然と意味がくみ取れる。
つまり、犬が拾ってきた枝を「いいでしょ!」と自慢してくるようなものであるはずだ。故に、変に意識して返す必要もない。
「うん、似合ってると思うよ、すごく」
「実はこの服、友達に選んで貰ったんです。先輩と……その、遊園地までお出かけするってお話したら、いい服着ていけーって。だから褒めて貰えて、うれしいです」
ほら、微笑ましいものではないか。
それにしても、一瞬見とれてしまったが、気負う必要はないと再認識する。
見かけは美人だけど、中身はいつものわんこ系後輩なのだと。
今日一日、彼女に楽しんでもらえるようにお供することにしよう。そう心を新たにするのだった。
電車を乗り換えること数回、一時間程度で目的地に到着した。
今日、足を運んだ『わくわくワンダフルランド』は、アトラクションを多く揃えている遊園地になる。特に犬を模したキャラクターが数多く歩いているために、子供から大人まで幅広く人気があるらしい。しかし近年の業績は悪化の傾向にあり、立地の悪さからもうそろそろ畳むのでは……と噂されているそうな。
というのが、事前に調べておいた情報になる。もっとも、園内に入れば、日曜というのもあって活気で溢れている。噂も当てにならないものだ。
「じゃあ……今日は葉山さんが好きなところ回っていいから、好きなだけ振り回してくれていいからね。俺はこういうの、前にも来たことあるから」
俺が遊園地に最後に行ったのは中学の修学旅行か。そう考えると、十年以上も足を運んでいないことになる。久しぶりの遊園地は、なんというか、趣深い。昔より、落ち着いて眺められる余裕があるからか、はしゃいでアトラクションに向かう体力がないからか、それとも斜に構えて興味の無いふりをしなくてもいいからか。
今の気分は保護者だ。ただ、人によっては実際に保護者になって、子供を連れてきている年齢だろう。意識がそこまで辿りつくと、少し気が遠くなってきた。
勝手に凹んでいると、追い打ちのように横やりが来る。
「ちなみに……昔に行ったのって彼女さんとかと、です?」
「いや、学校行事で行っただけだよ。一緒にいたのは男どもだし」
「あ、そうですか」
淡白な回答。かと思いきや、葉山さんは早口で言葉を続ける。
「あの、こんな風に一緒に連れまわしてもらっていますし、なんなら先輩を連れまわしていますけど、よく考えたら、先輩に彼女さんがいたりしたら申し訳ないな、と思った次第でして」
この間、葉山さんのことを知らなさすぎると思った身だ。だからそんな立場で考えるのもなんだけど、なんだか普段の葉山さんらしくない発言だと思った。
誰かに変なことでも吹き込まれたのだろうか。
「俺がやりたいからやってるだけだから。ランニングだってそうだよ。一人じゃやらなかった。だから今も色々助かってるんだよ。迷惑なことなんてないから」
紛れもない本心を告げれば、こくこくと首を振る。やはり調子がおかしい気がする。普段は違う場所に来て、彼女も気分が高揚しているのだろうか。
「だから、今日は遠慮無く楽しんでいっていいからね」
「子供扱いされすぎな気もしますが……では、お言葉に甘えて、精一杯楽しみます。それと、彼女さんは」
「いないいない、いたことないから」
「なら、問題ないですね!」
さわやかに問題ないと言われると、それはそれで複雑な心境になる。
まあ、楽しんでくれるならそれでいい。ちょうど近くに来ている犬のマスコットキャラを指さす。遊園地の看板キャラである、ゴールデンレトリバーの『ゴールデンくん』だ。
「せっかくだし、写真とか撮りに行く?」
「いえ、特には。大丈夫です」
そういえば、と葉山さんは思い出したように尋ねてくる。
「先輩はもう、犬は大丈夫なんですか? ほら、犬の動画は見てない、とお話ししてたじゃないですか」
「あー……そんなことも言ったな……でもほら、そこは葉山さんのおかげでそういうのは解消されたわけだし。まあ、今は犬の動画もたまに見てるよ」
そもそもの原因は、犬に裏切られたと逆恨みしていたことにある。逆恨みの原因は、自分より先に死んだ事へのトラウマ。つまりは彼女がここにいる以上、なくなったといっていい。
だから、そう付け足せば安心してもらえるかと思ったのだけど、
「ふーん、ふーん、そうですか」
「あ、あれ? 葉山さん?」
好感触のこの字もなく、速足で先へ進んでいくのだから、あわててその背中を追いかける羽目になる。どうにもお気に召さない回答だったようだ。
かと思えば、いきなり売店前で足を止めて、「先輩はここで待っていてください」といわれる。
指示されて、待つこと二分程度。
「先輩、こちらは、どうでしょうか」
背後から話しかけられて、振り返る。
彼女の頭には、耳が生えていた。
正確には、犬のつけ耳をしていた。白いタレ耳型カチューシャだ。売店で買ってきたらしいが、そんなものまで売っているのか。
「何か言ってくださいよ。どうですか? 昔みたいですか?」
「いや、昔みたいではないと思う」
「そうですか……」
「似合ってはいるよ、うん」
あざとい、と喉まで出かかったが、すんでのところで堪えることができた。
というか、犬の耳はもっとふわふわとしていた。横から垂れるように生えていたからカチューシャでは再現できていないだろう。そもそも耳だけで同じと言えるわけではない。びしばしと当たる尻尾とか、他にも重要な特徴はある。
まあ、ただ、かわいい生き物にかわいいものを着けたなら、当然かわいい。当たり前の足し算だ。
それもやはり答えがお気に召さないようで、口をとがらせている。
「なら先輩も付けてくださいよ」
「え、絶対に嫌だけど」
なにが悲しくてアラサーの男がケモミミを頭につけなければいけないのだろうか。流石に全力で拒否してしまう。
「絶対可愛いのに」
食い下がる葉山さんに、そんなことはないよ、と心の中で返すのであった。
まあまあまあと、一先ず向かったアトラクションといえば、ジェットコースターだった。遊園地界の鉄板、非日常の象徴とも言えるべきそれに初めて乗った葉山さんは、
「楽しかったですね! もう一回乗っちゃいますか?」
すごく生き生きとしている。ひょっとしたら、乗る前よりも元気なのではないだろうか。
機嫌がよくなったことは何よりだが、問題が新たに一つ。
「俺はちょっと一旦休憩挟みたいかも……」
ここの遊園地の目玉の一つだけあって、結構過激に身体を振り回してくる。葉山さんがいる手前、みっともなく叫ぶことは堪えられた。ただ、三半規管がかき回された事によるダメージが未だに響いている。
「なに言ってるんですか先輩、まだ一個目ですよ。どんどん行きましょう!」
絶叫系アトラクションは未だに複数控えている。どうにもお気に召したらしい。
ご機嫌のまま、意気揚々と歩いていく葉山さんだったが。
「あっ」
足下が疎かになっていたのか、転びかけてしまう。反射的に腕を掴んで、転倒するのは防ぐことが出来た。元気なのはいいけれど、やはりもう少し落ち着きもやはり、あるべきだ。
「大丈夫?」
「あ、ありがとうございます」
「楽しむのもいいけど、気を付けなさいな、本当に」
「……先輩って、割と私のこと、子供みたいに扱ってきてません?」
正直にいうと、どこかしらデカい子犬みたいには思っているのは否定できない。とか思ったまま返すのも失礼になる。流石にそれくらいのデリカシーはある。
「別に、それでもいいですよ」
曖昧に笑って誤魔化す俺に、彼女は口を尖らせて言うのだった。
連れ回されるがまま、絶叫系のアトラクションを網羅する。一通り乗り終えたならば、更なる刺激を求めてお化け屋敷にも連れて行かれる。
お化け屋敷では、懐中電灯ひとつだけ光源を渡される。本物の心霊物件、なんていう触れ込みだ。誇張の部分は確実にあるだろう。とはいえ暗がりの中で音やら何やらで驚かしてくるものだから、途中で心臓が飛び出そうになるのは仕方ないだろう。
対する葉山さんはといえば、特に怖がっていた様子もないまま無事出口に辿りつく。怖くないのかと問えば「幽霊とかいるはずないじゃないですか」とのこと。
「いや、前世の記憶があるのに……?」
「あっ、確かに。なんだか急に怖くなってきました」
「今更すぎる」
そんなこともありつつ、過ごしていく。
時間が瞬きの間に過ぎていく。
短く感じたのは、つまり俺は楽しんでいたということになる。
楽しめたのは、葉山さんと一緒だからだろう。
「もう一周全部のアトラクションを回りましょう!」とか言いかねないとは思っていたが、流石にそんなことはなく、心から安堵した。
その代わり、最後に指名されたものは観覧車だ。「一通り回ったあとの、最後に乗るものって友達に聞いたので」という理由らしい。
低い場所から、高いところにゆっくりと上がっていく。
「確かに、いい眺めですね……今日過ごした場所を視界にまとめて収められるのは、なんだか感慨深いといいますか」
確かに言われてみると、そうかもしれない。
風景としてしか見ていなかったけれど、彼女の目には今日の一日が移っているのだろう。
同じように思っていなくても、同じ景色を眺める。別の人間だけど、同じ時間を過ごすことはできる。
「今日は、楽しかったです……いえ、今日も、ですね」
隣の彼女は穏やかな顔で、視線を下げていく。
「楽しいんです。先輩と一緒に過ごしてからは、本当に。だから……」
葉山さんの言葉は、途中で消えていって、そこから続くことはなかった。
無言のままでも、観覧車は回り続ける。
でも、この静かな時間も、彼女と一緒ならどうしてか嫌ではない。
いまは二人で、透明な仕切りの向こうを眺める。
何か言いたいことがあったのかもしれない。今は聞かせてもらえないらしい。言えないこともあって当然だろう。彼女は今は犬ではなく、一人の人間なのだから。
いつか聞かせてもらえたら、嬉しい。聞かせてもらえる人間になれるよう、努力しよう。
電車が最寄り駅に辿り着く。いつものように、家の近くの交差点で足を止める。
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
「俺も楽しかったよ。一緒に行けて良かった。誘ってくれなかったら、行く機会はなかったし……たぶん、もう行く機会もないかも」
「なら、また行きましょうよ、一緒に。来年も、再来年も!」
楽しげに、未来の展望を彼女は語る。彼女にかかれば、まるでそんな未来が本当にあるような気がしてくる。
未来のことを、夢を思い描かなくなったのはいつからだったか。大人になるとはそういうことだと、思考を停止して受け入れていた。
そんな俺が彼女の言葉だけで、この先の人生がいいものであるように少しだけ思えてきてしまうのだから現金なものだ。
「それも、いいかもね」
「です! ……へくちっ」
「あれ、風邪? 大丈夫?」
「へーきですって! 以前お話したとおり、風邪は一度も引いたことないので大丈夫です!」
小さくくしゃみをした葉山さんを気遣うも、特に気にした様子はない。本当に大丈夫だろうか、と老婆心ながら気遣ってしまう。
「今日は念のため、早く寝なさいな」
「心配性ですねー、先輩は! 大丈夫ですって! では先輩、また明日!」
ご機嫌にポニーテールが揺れるのを眺める。
見えなくなる前に、わざわざ振り返って手を振ってくるものだから、こちらも小さく振り返す。
人と出かけた別れ際、一人になるのは寂しい。けど、今日はあまり、そういう気持ちにはならない。ただ、楽しかった余韻が残っている。
一人の生活は快適だけど、それには必然、孤独が伴うものだ。でも、今日はそんなことを考えることなく、眠ることができそうな気がした。
そして翌日、週明けの月曜早朝。葉山さんから、病欠の連絡が来た。
■4-2
いつものランニングの時間、葉山さんは来なかった。
まあ、誰しも寝坊する日もある。昨日は散々遊んだわけで、疲れが来ているのかもしれない。わざわざ連絡して起こすのも野暮だ。寝かせておこう。
ひとりのランニングを行ってから、そして業務の十分前、電話が来た。
「もしもし、葉山さん?」
『はい、葉山です……』
電話越しの葉山さんの声は、どこか息苦しそうだ。時折咳き込んでもいる。もはや言われずともわかった。
「もしかして、熱出したりした……?」
『はい……』
心底申し訳なさそうに、彼女は声を出している。
『すみません、先輩。まだ私、全然なのに……一応、リモートですし、這ってやることはできなくはないかもですけど……』
「病気は仕方ないから、無理しないで休みなさいな」
『ごめんなさいぃ……』
どうにも、よほど弱っている様子だった。声を聞くだけで心配になってくるのだから、相当なものだろう。よほど病気が堪えているのか。
「じゃあ、後で有給の申請については話すから。それと、前に言ったかも知れないけど次からはこういうときはメールでもいいからね」
『あ、それは、覚えてたんですけど、その……』
「何か他に、話す用事があった感じ?」
『いえ、そういうわけではなく……』
一拍遅れて、彼女は続ける。
『先輩の声が聞きたくて、電話をしてしまいました。なので、もう大丈夫です。ご迷惑おかけしてすみません……では、失礼します』
「あ、うん。お大事にね」
あっけなく電話が切れる。
それから間もなく就業時間だ。仕事に入る。キーボードを打つことに意識を向ける。
ただ、作業をしながら、葉山さんのことを考えてしまう。
いつも元気な彼女が、終わり際にあんなことを言ってきたせいだ。
病気のとき、一人でいることの寂しさはわかる。これまで病気にかかったことがないのなら、それもひとしおなのではないだろうか。
(仕事終わりに、後輩の家にでも見舞いに行ったほうがいいのか?)
実際、近いのだ。後輩の家に少し顔を見せるだけ。それだけだ。
ただ……そもそも、俺はお互いの家には行かないようにと線引きした。
自分から言い出したことを、自分で破るのか。
そんなこと、考えるまでもないことだ。
一つ、なんでもない思い出がある。
まだ両親も、犬も生きていたころの記憶だ。俺が熱を出した日、ちょうど両親ともに出かける用事があった。
「すぐに帰るからね」と言って、速足で出かける。広い家に、静かなベッドでひとりきり。時計の針が音を刻む音が煩わしくて、なかなか寝付けずにいた。
そんなとき、あいつが隣に来た。遊びに来たのかと思ったけれど、ただ、傍に来て丸くなるだけ。
もちろん、何を思って来てくれたのか、なんてことはわかりようがない。
それでも、近くにいてくれていることが、ただ、それだけのことが嬉しかったのだ。
病気の時に心細くなる、あの感情を知っている。
傍に誰かがいてくれたときの感情を知っている。
余計なお世話かもしれない。だから、これは俺がやりたいことだからやることだ。
そして迎えた昼休みの時間。
俺は、彼女の住むマンションの前に来ていた。
ランニングのとき、何度か前を通ったりしていたから知っていたが、中に入ったことはない。
ここで、問題が出る。
エントランスで止められる、いわゆるセキュリティしっかりしているタイプの部屋なのだ。これでは、入りようがない。というかそもそも、部屋の番号を知らなかった。
(というか、事前に連絡くらいしておくべきだったな……)
つい勢い任せに来てしまった弊害が出ている。
まあいい、気づかなかったら仕方ないと思おう。諦め半分で葉山さんに電話をすれば、すぐにつながった。
『あれ……先輩、どうかしましたか?』
微睡んでいるような、甘い声がする。起こしてしまったのかもしれない。
「ごめん、起こしちゃったかな……ええーっと……葉山さんって、何号室だったっけ?」
『え? ど、どうしてです?』
「お見舞いに来た。迷惑だったら、お見舞いの品だけ家の前に置いて帰るよ」
『い、いえ! そんなことないです! 少し待ってください!』
電話越しに、どたばたと音がする。部屋の番号を教えてもらい、エントランスを開けてもらって中に入る。
「す、すみません。お待たせして」
「……いや、急に来てごめんね、本当」
「い、いえいえ……ど、どうぞ。中に入ってください」
出迎えてくれた葉山さんは、チェックの柄の、水色のパジャマ姿。それに、いつもは結んでいる髪を、そのままにしているからだろうか。あまり見てはいけないものを見ている気にさせられる。
熱で顔が紅潮している。
悪い気がして、視線を他所に彷徨わせつつ、恐る恐る部屋に足を踏み入れる。俺の家より広い。そして広い分、空間にゆとりがあって小綺麗な部屋だ。
「ど、どうおもてなししたらいいのでしょう。いきなりで何も準備できてないのですが」
「病人が余計な事気にしないでいいから……お昼は食べた?」
「いえ、まだです」
「じゃあ、準備しておくから。寝て待ってて。お粥でいい?」
「あ、はい」
葉山さんを寝かせて、キッチンを借りて食事の準備をする。とはいえ、お粥はレトルトのものだ。もう少し余裕があったなら作ってもよかったのだが、そもそも今回は足を踏み入れるのも初めての場所になる。すぐに帰ることも視野に入れていたし、鍋の場所を聞く手間をかけさせるわけにもいかない。時間も手間も必要ない、文明の利器を使うに限る。
「あ、薬とかも持ってきておいたから。食後に飲むの、忘れないようにね」
一応、家の中にあった風邪薬や解熱剤も持ってきていた。いつも、あれだけ病気にかかったことがないと言っていたのだ。病に伏せたときの備えもないだろう。
準備している間、忘れないように言い含めるも、葉山さんは他のことが気になる様で、
「……えと、先輩、お仕事は……その、大丈夫ですか?」
「まあ昼休みって、結構時間あるし。それにいつもは横になって休んでる時間だし、問題ないから。あ、梅干しとか苦手?」
「大丈夫です、けど……」
「ならよかった」
レトルトでできたお粥を、適当な皿によそう。それから種を除いた梅干しを上に置き、スプーンと一緒に持っていく。
「本当に大したものじゃないけど、ごめんね」
「い、いえ……それで、あ、あの……お願いがあるんですけど……食べさせて貰っていいですか」
「別に、そのくらいならお安い御用だよ」
たぶん、普段の葉山さんなら、もう少しこちらも緊張していたかもしれない。でも、いま目の前にいるのは、まるきり病人の子供みたいなものだ。
ベッドで上半身だけ起き上がらせる彼女に、スプーンで掬って食べさせる。思ったよりも勢いよくぱくぱくと食べていく様子に、少しのおかしさと共に安心する。
「ごちそうさまです。朝ごはん、食べてなかったので、その、助かりました」
「病気の時こそ、ちゃんと食べないとだめだからね……あとは、他に、何かして欲しいことはある? 何でも言って」
「それでは、ええと……背中を、拭いてもらってもよろしいでしょうか?」
背中を、拭く。
それは、俺がしてもいいことなのだろうか。
彼女の表情を見ても、赤らんだ顔でどこかぼんやりとしていて、何を考えているのかわからない。
まあ、拭くだけ、ただ拭くだけなのだ。何も気負う必要はないではないか。
「……うん、わかった。タオルはどこにあるか聞いていいかな」
「洗面台のほうです、あと……電気を、消してもらってもいいですか?」
「な、なんで?」
「私も……その、さすがに、恥ずかしいので」
「あ、ああ。わかった」
電気を消してから、タオルを取りに行く。
戻る前に、少し深呼吸。
別に変な意図ではないのだ。もはや段々慣れきてしまった心がけを、再度行う。
部屋に戻ったとき、彼女は既に、服を脱いでいた。
カーテンの向こうから漏れる、か細い光で彼女が映っている。普段はポニーテールで結んでいる長い髪が、暗がりの中でもわかるほどに白い肌にかかっている。まばらに髪が肌に張り付いた姿は、色気の漂うもので、
「……せんぱい、どうかしましたか?」
「あ、ああ。ごめん。拭くね」
彼女の言葉に、現実に引き戻される。見惚れてしまっていた。服を脱いだままにさせていたら、病状を悪化させてしまう。
髪を手で軽くよけてから、努めて急いで、濡らしたタオルで拭いていく。
信頼して、こうして頼んでくれているのだ。それを反故にすれば、俺はけだもの以下になる。
邪な目で見ないように、意識しないようにする。
「どうして、先輩は……こんなにしてくれるんですか?」
拭いている最中、彼女に問われる。その問いは、むしろ俺の方が疑問を抱くものだった。
「それを言うなら、葉山さんが俺にいつもしてくれてることだって同じだよ」
「私は、したいからしているんです。先輩が幸せになればいいから。でも、先輩はそうじゃないのに」
俺が幸せじゃないから側にいてくれると彼女は言っていた。
「でも、それで葉山さんが不幸せになるのは、俺だって嫌なんだよ。当たり前でしょ」
「不幸せなんか、そんなことないです……むしろ、私は、こんなに幸せでいいんでしょうか」
彼女は、顔を背けながら呟く。
「最初は本当に、先輩が幸せになってくれればよかったはずなんです。でもいまは、それ以上を望んでしまっているんです。一緒にいられたら楽しいですし、こうして来てくれるのが嬉しいんです。ずるい、ですよね」
たぶん、俺は言葉だけなら、なんとでも返すことができた。
でも、安易に言葉一つで返すことは、違うだろう。死んでからも尽くしてくれる相手に、言葉一つで済ませるなんて、していいはずがあるだろうか。
俺は一つ、覚悟を決めた。
タオルを置いて、その場から立つ。
「拭き終わったから……ちょっとだけ、席を外すね。すぐに戻るから」
部屋を出て、手早く連絡をする。こういうとき、文明の利器に感謝する。
ベッドの隣に戻ったときには、葉山さんは既に服を着直して、横になっている。そんな彼女に、切り出す。
「会社に午後休の連絡したから……このまま看病続けていても、いい、かな? 特に、何ができるってわけじゃないけど……」
半休なんて使うのは、初めてだ。他の人が使っているのは見たことがあるけど、申請が通っているのか、少し緊張する。が、もう連絡はしてしまったのだ。引き返せまい。
「せ、先輩の貴重な有給を……?」
「病人が気にしなくていいから、そんなこと」
急ぎの仕事は午前中にまとめておいたし、今日は会議の予定もない。
それなら、葉山さんのために使った方が有意義だ。
……なんていうのは、言い訳になる。仮に予定が入っていても、彼女のことを優先していた気がする。
「葉山さんのために、使いたいんだよ。恩返しをさせてほしい」
これまで彼女に、多くのものを貰っている。
これくらいはしないと、それこそ罰当たりというものだろう。
「なら私は、風邪を治したら……恩返しの恩返しをしなくちゃですね」
「それなら俺は、そのあと恩返しの恩返しの恩返しをしないとだな」
くすりと笑った後、彼女は布団を口元まで被る。
「では、少し寝させていただきますね……でも、起きても側に居てくれると、うれしいです」
「できる限りは」
一緒に居て欲しい、とはいうけれど、人である以上は限度がある。
いまこの瞬間、側にいることに限ってではない。これから先、例えば、転勤したり転職したりするかもしれない。人生、何が起きるか分からないから、ずっと一緒にいられるわけではないだろう。
「俺はこれからの人生、どうする予定とか、ないけどさ……一緒にいられる間は、こうして一緒にいるから」
未来がどうなるのかはわからない。それでも、こうして言葉にして伝えるのは、自分なりのけじめで、宣誓だった。
「……はい」
一言。それだけを呟いてから少し経って、彼女はすうすうと寝息を立て始める。
まるで子供みたいだ。あるいは、そのものなのだろうか。
礼義正しい姿も、普段は背伸びしているのかもしれない。犬っぽいところは彼女の素で、他の人の前ではあまり見せていないから、かもしれない。
あくまで推測だ。でも、完全に的外れではない気がする。
紆余曲折あった。彼女が飼い犬だと気づいてからも、心のどこかで遠ざけようともしていた。
でも、今の彼女を受け入れて過ごそうと思う。元飼い主として、彼女にできることの誠意の一つであるはずだ。
彼女の頭を撫でる。さらさらとした、柔らかい髪を、起きることのないようにやさしく触れる。
「おやすみ、ハル」
■4-3
私は夢を見ていた。
昔から何度も見ている夢だ。
犬の頃の記憶。繰り返し再生されたはずのそれが、再び流れている。
私は家の中にいる。ほかにも大きな二人に、それに群れに加わった小さな子がいる。
小さい子はどんどん大きくなるけど、私の方がまだ大きい。その子は新しい群れの一員の中でも、とびきり弱い。すぐに泣くのだ。おかげで目を離せない。
それに干したばかりのあったかい布団の上、日向の下で、一緒にお昼寝をすることが、私はすきだった。
あたたかな夢だ。私にとっての、あたたかな場所の原型だ。
あの風景に憧れたから、私はたぶん、ここまで来たのだ。
目を覚ましてから、夢を見ていたことに気づいた。
余韻に浸りながら、私は起き上がる。時間は既に十五時。昼食のあと、飲んだ薬が効いたのか、またすぐに寝てしまったみたいだ。
風邪で休んでから、既に一日経っている。リモートで作業出来る程度には元気になったけど、念のためにともう一日休み。
先輩は今はいない。ただ、夜になればまた来てくれるらしい。そのときが待ち遠しい。
「……先輩が作ってくれたおかゆ、おいしかったな」
特別大したものではないはずなのに、繰り返し思い返してしまう。
それに、と、昨日のことを思い出す。
一緒にいてくれる、と。そう言ってくれた。
先輩と会ってから、うれしいことが沢山ある。
会いたいと思っていたら、本当に来てくれた。先輩は、ひょっとして魔法使いだったりするのだろうか。
だから私は、どんどん欲深くなってる。
初めは、もう一度、一目見たかっただけだった。元気に生きていることを知れたなら、それで満足できるはず、なんて思っていた。
でも、先輩の側にいたいと思って、私が飼い犬と知って欲しくなってしまって。
犬だった頃は、もっと単純だった気がする。先輩との関係だってそうだ。
いまの先輩は、一筋縄ではいかない。変なところが理屈っぽいし。
でも結局は頭を撫でるのも、一緒に散歩することも、先輩は、そのどれもを叶えてくれた。
もしかしたら、容易いことだと思ってしてくれているのかもしれない。
でも、私が先輩のおかげでどれだけ満たされているのか、先輩は知らないだろう。
その気持ちを、知って欲しいと思うのは、よくないのだろうか。
先輩の事を考えるのは、胸がいっぱいになる。でも、いっぱいになりすぎて、きゅう、と苦しくなるときがときどきある。
その苦しさのゆくえが、どこから来ているのか。
「わかんないなぁ……」
考えすぎて、熱っぽいのが戻ってきた気がする。大人しく布団を被って目を瞑るけれど、既にたくさん眠ったあとだから、中々寝付けない。
先輩が隣にいたら寝てしまえるかも。
昨日のお昼も、先輩の声を聞いていたら、いつの間にか寝てしまった。既に就業時間。電話をするのは迷惑になるだろう。グッと堪える。
先輩のことを考えると、温かい気持ちになる。
先輩といま会えないことを考えると、早く会いたくなる。
でも、それだけじゃない気持ちもどこかにあって、いまはそれに名前を付けないでおこう。
一人暮らしを始めてから、一人で眠るのは、少し寂しい。
でも、夜になれば先輩が来てくれるから、私はそれを待つのだ。
待つことには、もう十分慣れているのだから。
■4-4
週末、金曜、出勤日。
今日も今日とて変わらず仕事だ。
今週は葉山さんが二日ほど休み、かつ俺も半休を急にとったため、その埋め合わせで忙しい部分もあった。結果として、葉山さんがいることのありがたみを知ることになるのだった。
幸いにも、水曜日までには仕事ができるようになり、多少の残業をしながら今週も無事、終えることができた。
葉山さんと肩を並べて帰る。その最中、彼女は尋ねる。
「先輩、先日のお返しがしたいんですけど……今夜って、何か用事あります?」
「ない、けど。普通に夕飯の食材買って帰るくらいかな」
「じゃあ、私が先輩の夜ご飯作ってあげます。つきましては、先輩のお家にお邪魔してもよいでしょうか! 先輩が私の家に来たんだから、私も先輩の家に行っていいと思うんですよ。先輩はそのことについて、どう思います?」
蒸し返されてしまえば、俺からはもう何も言えなくなってしまう。約束をしたのも、それを破ったのも俺。
何も、看病しに向かったことを後悔している訳ではない。
ただ。お互いの家に行き来しないという約束は一つの線引きだった。単なる先輩と後輩。それ以上から余計に抜け出さないための境界。
それも、もう今更なことだろう。
彼女との間に余計な事が起きることがないと、今なら思える。彼女は、ただ元犬として俺に慕ってきているだけだ。それ以上の事なんて、起きようがない。
「わかった、わかったから。でも、面白いものなんてないから。そこは期待しないように」
「私が楽しいからそれでいいんですよ」
元飼い主と飼い犬。先輩と後輩。
そういう枠に収めるのも、野暮というものだ。
(まあ、誰かにバレたりしたときは……そのときはそのときでいいか)
彼女の喜ぶ姿を見て、それでいいかと思ってしまうのは、彼女に甘すぎるのかもしれない。
それから、駅前のスーパーで食材を買って帰る。何を作るのかは、お楽しみだと隠されている。
荷物を袋に詰めていれば、二人分だからか、けっこうな量だ。手持ちの手提げ袋に収まったからまあ、問題ない。
「先輩、袋持ちますよ。ほら、私後輩ですので!」
「そういう体育会系ルールを持ち出してくるのは、話が違うんじゃないかな……結構重いし、俺が持つよ」
「それなら、半分こしましょうよ」
そういって、こちらの返事を待つことなく、袋の持ち手の片方をひったくるように掴まれる。
「……持ちにくくない?」
「いいんですよ、これで」
葉山さんは、無邪気に笑っている。まあいいかと、思わせて来る。そんな顔だ。
というか、前々から思っていたけれど、一応言い含めておこう。
「こういうの、あんまり無闇やたらとやらないほうがいいと思うぞ」
「こういうの……って、何のことですか?」
理解していないらしい。小首をかしげて問われてしまう。そういう仕草も、見方によってはあざとい、というものなのだろう。
「相手との距離がだいぶ近い気がするところ。葉山さんにそういうつもりがなくても、相手が相手なら勘違いして得てして悲惨なことになるものだからな」
女子校育ちなのと、前世が犬なのが合わさってこうなっているのか。いずれにせよ、自分のことを好きなのだと勘違いする人間がいつ出てもおかしくない。
サークルクラッシュならぬ会社をクラッシュさせられたら、わりとたまったものではない。
俺の言葉に、葉山さんは「なるほど」と小さく頷いている。果たして俺の言葉の意図が伝わったのかどうなのか。
「安心してください。先輩にしかしませんよ」
「そう、か。なら、いいか。いいのか……?」
彼女の言葉に、一瞬、どういう意味なのか疑問に思った。けど、気にするほどのことでもないだろう。
俺は元飼い主で、彼女は元飼い犬。いまは違う関係でも、そういうつながりがあった。それはもう、認めよう。
その過去があって、今がある。それだけのことだ。
「そういや……どうして生き返ったんだろうな」
「どうして、といいますと?」
「ほら、こういう……生き返ったりするのって、神様にお願いしたりとか、善行をしたりだとか、色々原因があるべきだろ。でも、別に俺に心当たりはない。因果関係がないのはおかしいと思うわけで」
ずっと気になっていた。俺はそんな恵まれていいような人間の覚えはない。世の中には自分よりも恵まれてない人間が沢山居る。その中で、俺みたいな人間に幸運が降り注いでいいのか。他に訪れた方がいい人がいるのではないか。
罪悪感を抱いているわけではない。ただ、理由が欲しいのだ。
それに対して、葉山さんはあきれたように溜息をつく。
「先輩は、考えすぎなんですよ。ちょっとそこまでいくと、理屈っぽすぎます」
いいですか、と彼女は説くのだ。
「私が先輩のことが好きだから。それで、いいじゃないですか」
当たり前のことのように語られる。その言葉に、彼女への眩しさに目を細めてしまう。
たぶん、いま、このときだろう。
俺が葉山あいという人間のことを、初めて好きになった瞬間は。
「……ああ、確かに、そうかもな」
袋を両側から持つ、なんて状態でよかった。顔を見られずに済む。自分がどんな顔をしているか分からないから、面と向かうことができない。
「私、先輩と会えてよかったです」
彼女は、口ずさむように語る。
俺もだよ。
なんて気軽に言えるほど、俺はもう青くはない。
求めれば欲が出る。言葉にしてしまえば、そうだと思い込むようになる。そういうものだと知っている。だから自分で線を引いてしまう。
誰もが彼女のように純粋にはなれない。だからこそ、そんな彼女のことを眩しく思うし、大切にしたいとも思う。
あるいは、彼女に期待しているだけだろうか。
答えはわからない。けど、それでもいい。
いまはただ、隣の彼女と同じ歩幅で歩いていく。