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夜に怯えて

 カツン、カツン。


 それは、俺の歩く足音だ。


 妙に音が響くのは、ここが誰一人いないビルの中だからだ。


 築30年、鉄骨鉄筋コンクリート造陸屋根地下2階(つき)5階(だて)というこの建物の本来の所有者は、株式会社ガルウイング出版。


 出版物の内容は、ファンタジー小説。


 1996年を境に始まった出版不況の波に対し、この会社は、月刊小説雑誌を新刊し、活字離れが進む若者の中から新たに読者を獲得しようと試みた。


 売り上げを確保するのを、新刊の種類を増やす方法で対処しようと考えたのだ。


 その背景には、出版業界は不況知らずという、神話にも似た根拠のない自信があった。


 次から次に、新刊を増やす。売れないから、売上を増やすためにさらに新刊を増やす。


 そうやって、当面の売上で糊口ここうをしのいでいた。


 ただの自転車操業でしかないことに気づいていながら。


 しかし、体力は確実に削られていく。足は重くなり、タイヤは泥沼にかっている。見渡す限りの泥の地平に、すでに道を見つけることはできそうにない。


 それでも、新刊を出さなければ、足を動かさなければ、売上が入ってこない。実際、売れていないんだから、手を変え品を変えて読者にアピールするしかない。


 しかし、このとき、すでに市場構造は変化しつつあった。


 かつて、出版業界は、出版社と取次、書店の連携で成り立っていた。紙の雑誌や書籍が売れることで三者ともに繁栄してきた歴史があった。


 その構造を破壊したのは、もしかしたら、ウインドウズ95の出現だったのかもしれない。


 インターネットは急速に身近なものとなり、企業の実用と高級な趣味でしかなかったコンピュータは、魅惑的に、家庭へと、個人へと、その居場所を広げていった。


 デジタル化の波は、産業革命のように、印刷業、製本業、書店のあり方を変えていく。


 紙媒体はもういらない。欲しいときはネットで注文すればいい。本屋で探さなくてもネットで検索すれば、好みの作品を見つけることができる。新刊だけじゃない。絶版になった本だって手に入れられる。


 そして、とうとう、その波に読者が追いつき追い越した。


 広告収入により利益を生み出すことで、無料の物語を、投稿作品を読者に届けることを営業目的にした小説投稿サイトの巨大化がそれを可能にした。


 作者は読者の中からしか生まれない。


 たったそれだけの、絶対的真実。


 出版社が作家の卵を囲い込める時代は終わった。そして、その軸足を紙媒体からウェブへと移行していく。


 新たなコンテンツを生み出す者は、出版社への持ち込みや投稿ではなく、ウェブの中にいるのだから。


 だが。


 その波に乗り切れなかった出版社もあった。その理由は、ひとえに紙媒体への信仰、ウェブの軽視、投稿作品の質の低さにあった。


 しかし、読者が作者を育てる、作者が読者の目を育てるという循環からあえて目をそらし続けた結果、とうとうそのときがきた。


 優れたウェブ小説の席巻だ。


 わざわざお金を払わなくても、携帯で面白い小説が読める。多少の粗さは、スピード感と迫力に裏打ちされた原石の輝きゆえと受けとめればいい。なんせ、プロではないのだから。


 なにより、誰におもねることのない自由で伸び伸びした書きぶりは、既存の作家の枠をはみでた荒ぶるたましいの発露を思わせる。


 読者が投票するポイントは、熱意のあらわれとなり、後続の読者に、この作品は面白いよとすすめてくる。


 本屋で、面白いかどうかわからない本を探す必要などない。


 そもそもが、誰も本屋に置かれたすべての本を読破することなどできないのだから。


 そう。


 読者が求めたものがここにあった。


 だが、出版社としては考えてしまう。


 そもそも無料で読めるものを書籍にしたところで、買ってくれる人がいるのか? 出版社の矜持としてどうなのか。


 PVもランキングも売上を保証してはくれない。しかも、この作家、いまだ完結作品を書き上げたことがない。


 安易に飛びつけない理由は山ほどあった。しかし、背に腹は代えられない。


 そうやって、少しずつ、だが確実に、ウェブ小説は書籍の一角を占めるようになっていった。


 その変化に追いつけなかった出版社は、流行はやりのコンテンツを失うことになる。


 もっとも、本を売るには宣伝が必要だ。アニメ化は最高の起爆剤だった。これと前後してコミック化で仕掛ける。


 ウェブ小説がありなら、ウェブコミックもありだろう。

 

 出版社の差別化がこうして進んだ。


 その結果、時代の波に飲み込まれて倒産に追い込まれる出版社が出てくるのは当然のことだった。


 この土地建物の本来の所有者である株式会社ガルウイング出版もそういった会社の一つだった。


 印刷物に拘泥こうでいした。


 長年友誼(ゆうぎ)を結んできた書店、取次を切ることができなかった。


 良い作品に巡り会えさえすれば、なんとか乗り切れると信じた。そんなことはないのに。


 なぜなら。


 才能タレントはすでにウェブの手の内にあったのだから。


 経営判断の誤りに気づかないまま、自社ビルと敷地に抵当権を設定して銀行から資金調達までした。


 しかし、本は売れない。赤字が続く。ついには、書店が激減したことで、発刊したのに売り場に本が並ばないというところまで追い詰められてしまった。


 最後の望みをかけて、銀行に資金の追加融資のお願いに行った。しかし、その席で、逆に破産を勧められるにいたっては、裁判所に破産の申立てをする以外に道はなかった。


 それが3年前のできごとだ。


 東京地方裁判所は、破産開始決定をし、俺のボスの田中弁護士が破産管財人に選任された。


 破産管財人に資格は必要ない。弁護士を選任しているのは、訴訟になったとき、ただで弁護士を使えるからという裁判所の都合に過ぎない。


 破産管財人を3年やって、報酬が60万円とか、世の中をめているのか?


 だが、それももうすぐ終わる。


 株式会社ガルウイング出版の債権・債務の調査は終わり、めぼしい財産は換価、つまり、お金に替えた。優先債権である税金も支払い、未払いの給料も中間配当で支払った。


 あとは一般債権者への最後配当をするだけだった。そこで問題が起こった。いや、顕在化したというべきか。


 問題は、この自社ビルだった。


 土地建物の価額と抵当額を比較すると、どう見てもマイナス評価にしかならない。


 抵当権は、この不動産に関しては別除権として一般債権に優先する。


 本来なら、抵当権者である銀行が不動産競売で債権回収を図り、残ったお金があれば破産財団に組み入れて配当に回せば終わる話だ。


 しかし、銀行は、このまま裁判所の競売に付しても債権全額を回収できない、更地にすればもっと高く売れるはずだと主張して、任意売却の道を探し続けた。


 実際のところ、十億近いお金を出して、地上5階、地下2階の建物と敷地を買い求める人や会社があるとは思えない。更地にするのだって数千万はかかるのだ。


 裁判所も破産管財人も、売却先を探しているという銀行の言葉を信じて、無為に時間が過ぎていった。


 そして。


 この土地建物の固定資産税問題が顕在化した。


 固定資産税は、その年1月1日時点の所有者が負担することになっている。


 今はまだ8月になったばかりだが、このまま年末を迎えると、破産財団から数百万円が消えていく。正しくは東京都に納めることになる。配当に回せるはずのお金を。


 そして、今あるお金は、いつか食いつぶされてしまう。税金によって。


 ただ。


 これを切り抜ける方法が一つだけある。


 破産財団からの放棄だ。


 土地建物を破産財団から切り離し、元の所有者に戻す。


 所有者は税金を払えないから、東京都が滞納処分で差し押さえ、自身で売却して税金分を回収すればいい。銀行は残ったお金から債権回収をすることになる。


 不動産を放っといて、破産管財人は最後配当を行い、破産業務を終了させる。


 万が一、不動産が売れて、東京都と銀行が全額回収し、さらにお金が残ったときは、破産業務終了後であっても、破産管財人がそのお金を追加配当をしなければならない煩雑さはあるけれど。


 そして。

 

 今日、ボスはその決断をした。


 あとは、裁判所に破産財団からの放棄の許可を求める資料作りだ。担当する裁判官には、裁判所書記官を通して内々に話はしてある。


 今夜、俺は、その物件の最終調査に来た。もちろん、昼間できる仕事だが、夜間は昼間には見えないことが見えてくることがあるからだ。


 と、うちのボスが言ったから。


 刑事裁判が好き過ぎて弁護士になったボスの立ち位置は、常に現場百回にある。


 テレビドラマの見過ぎとしか思えないボスは、弁護士が事件を解決するドラマを観ていると、突然、ツッコミを入れ始める。


 ちょっとした支出が重なって、家賃が払えなくなり、アパートを退去して一週間ほど、ボスの家に居候をしたことがあったが、さすがに辟易へきえきとした。


 録画して何度も繰り返し再生してつきあわされるのを、ボスの奥さんと子供達が俺を憐れんで見ていたことは一生忘れられない。


 ……あれ、ハラスメントだよな? 家賃も食費も払わない居候の分際で言えることではないけれど。あと、まだ幼稚園児のボスの娘の由美ちゃんがアメをくれた。「がんばってね」と。泣きたくなった。


 まあ、とにかく。

 今は物件の調査だ。


 残業手当が出るんだからと、自分を納得させ、俺は、電気を止めた、空調も効かないこのビルの屋上から地下2階まで、部屋の隅々を懐中電灯で照らしながら階段を下りていた。


 そのとき。


 誰もいないはずのこのビルのどこかから、妙な音がした。


 ジジジジジッ。


 気のせいなんかじゃない。誰かがいる。


 入口に鍵はかけたはずなのに。


 調査はまだ4階の途中だが、不審者がいるのなら、捕まえなければならない。


 音は階下から聞こえてくる。


 俺は懐中電灯をたよりに、階段を踏みはずさないよう下りていく。


 ジジ、ジジジ。


 音が大きくなった。

 音源は近い。


 やがて。


 導かれるように、一つの部屋へと入っていった。


 キュイーン。


 音が変わり、声が聞こえてきた。


「ワレワレワ、ウチュウ、ジン、ダ」


 やばい。

 ヤバいやつがいる。


 いや、地球人も宇宙に住む仲間だから、宇宙人であることを否定するつもりはない。


 だが。


 俺達が、ことさら日本人を名乗るとき、そこに何某なにがしかの穏当でない意見表明がなされることが多いのも、また事実。


 ここは、穏便にお引取り願おう。不法侵入とか大上段に構えて、反撃されるなんてたまったもんじゃない。


 俺は、ゆっくりと懐中電灯を向けた。


 ラジオが鳴っていた。


 応接セットのテーブルの上で、ひとり寂しく、誰も聞くことのない音を出していた。


 ほっとしたのもつかの間。


 このビルは電気を止めている。乾電池で動いているにしても、こんな放置されたビルで何年も?


 ありえない。


 俺は、あたりを照らした。


 ソファを指でぬぐって、ほこりを確認する。誰も座った形跡はない。


 ゴクリと喉が鳴る。


 後ろを振り返り、部屋中の壁を照らして侵入者の姿を探す。


 誰もいない。


 恐る恐るテーブルへと近づく。


 懐中電灯の揺れる明かりに影もゆらゆらとその姿を変えていく。


 闇に潜んでいる何者かが今にも飛び出してきそうだ。


 俺は、幽霊とかゾンビとか、信じない。わけではない。ということもない。


 あえての三重否定は、肯定の意味でもなければ否定の強調でもない。


 ただもう帰りたいだけ。


 俺は、ジェイソンもダミアンも貞子もチャッキーも信じないが、ジャック・トランスやノーマン・ベイツならいるかもしれないと思っている。


 いや、360度全方位に向けた殺意は、通り魔の存在が証明している。


 信じる、信じないの話じゃない。


 このラジオ、貞子が置いたかもしれないじゃないか。


 ソファの後ろに隠れてるかもしれないじゃないか。


 もう、隠れてる段階で話が通用するとは思えない。暴力には、ひたすら逃げるのみ。


 現状保存は捜査の鉄則。


 今はその言葉がありがたい。怪しげな状況に目をつぶる言い訳を与えてくれる。


 明日、明るいうちにもう一度確認すればいい。その上で、夜間見回る必要があるのなら、複数人で来るべきだ。


 俺の盾になってくれる勇者とか、逃げるときに囮になってくれる剣士(後輩)とか。攻撃を担当する魔法使い( 先輩 )とか。


 パーティーを組んでこのダンジョンを探索すべきだ。


 俺は後ずさる。迫りくる闇をにらみつけながら出口を探す。


 かかってこいや〜!


 心の中で叫ぶ。


 自分を奮い立たせ、逃走への勇気を振り絞る。


「ボク、ワルイ、スライム、ジャナイヨ」


 信じるかぁっ! ボケーッ!


 俺が間違っていた。


 あれはラジオじゃない。ラジオの姿をした何かだ。もしかしたら。


 本当にスライム?


 ありうる話だ。いや、スライムがいるとは思ってないけど。ホントだよ?


 とにかく、俺は逃げる。


 廊下までたどり着いたら、後ろは見ない。脱兎だっとごとく駆け出した。


 確か、ここは2階だった。


 俺は階段を走り抜ける。懐中電灯がゆらゆら揺れて足元もおぼつかない。


 それでも足を止めないのは、止まったら最後、背中に手が伸びてくる恐怖にかられているからだ。


 だが。


 ザザザーと音がする。次第に大きくなるのは、ラジオが追いかけてくるあかしだ。


 あわせて。


 ひたひたひたと。足音のようなものが聞こえてきた。


 ラジオに足がはえたわけでもあるまいし。そう思ったところで、安心などできない。


 追いかけてくるのが人間だとしたら、害意以外に持ち合わせない殺人鬼だ。


 多くの破産者は、債権者から恨まれている。貸したお金が返ってこない、約束した代金を払ってくれない。理由は様々だが、破産手続きは、債務超過の債務者を丸裸にして債権者に平等弁済する手続きだ。


 当然、全額弁済などありえない。


 その結果、連鎖倒産、自主廃業が起こりうる。いや、会社ならそれで済むだろう。しかし、個人債権者としては到底納得できないことだってある。


 現に、この会社の代表取締役社長は自分自身は破産しなかった。会社のカネは会社のもの。個人のカネは個人のものと割り切って、自宅に抵当権は付けなかった。


 正確には、銀行に追加融資をお願いするのに抵当権を付けようとしたのを、断られた。


 だが、現実はどうだ。


 社長、いや、元社長は今も大豪邸でのうのうと暮らしている。社員には未払給料と退職金の一部が遅れて支給されたものの、職を失い、当面の生活にも差し支えたというのに、蓄えた預貯金で老後をのんびりと過ごそうとしている。


 この間、会ったとき、老後の趣味は小説投稿ですと言って、なろうのページを見せてきやがった。ふざけた話だ。


 そんな元社長に恨みを持っているやつがいたとしても不思議じゃない。


 自社ビルにいた俺を元社長と間違えて襲ってきたのかもしれない。


 ラジオが叫ぶ。


「ムダ、ムダ、ムダ、ムダ、ムダ、ムダ、ムダァーッ!」


 これは、もしかしたら。


 あのチャラチャラした編集者と間違えてるのか?


 この会社がウェブに移行するか悩んでいたとき、勝手に投稿者に接触したやつがいた。


 書籍化を持ちかけ、散々校正を入れて時間を使わせたあげく、社長の方針から「あれ、なくなりました」と出版しないことを告げて逃げたらしい。


 襲ってくるのは、なろう界の魑魅ちみ魍魎もうりょうに堕ちた投稿者の一人かもしれない。


 ジョジョ立ちとかやって、時間を無駄にしてくれないかな? ムダだろうけど。


 あいつなら、大手出版社に再就職した。


 今頃はディベロッパーとかうそぶきながら、適当に読み漁ったウェブ小説を、キャラの名前も覚えていないまま、「書籍化どうYO! チェケラッ」とか言って新たな被害者を勧誘してるはず。俺の勝手な想像だけど。


 そんなやつらの代わりに俺が犠牲になるなんて納得できない。


 ラジオが叫ぶ。


「ニゲチャ、ダメダ、ニゲチャ、ダメダ、ニゲチャ、ダメダ」


 何を補完しようとしてるかはわからないけど、切羽詰まった怖さだけはしっかり伝わってくる。


 捕まってたまるかっ!


「オマエワ、モウ、シンデ、イル」


 恐ろしいことを言う。絶対に逃げ切ると、決意を新たに懐中電灯を先に向ける。


「シンパイ、スルナヨ、サヤカ、ヒトリボッチワ、サミシイ、モンナ、イイヨ、イッショニイテ、ヤルヨ」


 誰だよ? さやかって。完全に人間違いじゃねーかっ!


 正面玄関のガラス戸に光が反射して出口が近いことを教えてくれる。


 もうすぐだ。


「ココカラ、ハジメマショウ、イチカラ、イイエ、ゼロカラ」


 怖い。怖い。怖い。言ってることが、もう修羅場の後みたいだ。


 しかも。


 ひたひたという足音は、たったったに代わり、俺を追いかけてくる。


「ヤツワ、トンデモナイ、モノヲ、ヌスンデ、イキマシタ、アナタノ、ココロ、デス」


 俺は何も盗んでないっ!


 人生を台無しにされたと言うのなら、それは会社の経営者に言ってくれっ!


 deathとか言うなっ!


 足音が大きくなっていることでわかる。もうすぐ追いつかれることが。


「ヒト、ハネルノニ、メンキョ、ナンテ、ヒツヨウ、ナイ、アル」


 明らかに、俺よりも速い。やつは、車にでも乗っているのか。


 玄関に鍵をかけたことを後悔した。


 鍵を出して解錠している間に間違いなく追いつかれる。サバイバルナイフで背中を刺される。


 ラジオの音も大きくなってくる。


「クチク、シテヤルッ!」


 やつの怒りも最高潮だ。ノリノリで俺を殺しにきている。


 背中にナイフが近づいたのがわかる。急いで内鍵のサムターンをひねる。


「ボクワ、シンセカイ、ノ、カミ、トナル」


 やはり、こいつは狂ってるっ!


 俺は、ガラス戸の通用口に体重を乗せて、力一杯ちからいっぱい押し開ける。


 月あかりと周囲の街灯に一息つくが、まだ油断はできない。すぐ後ろにやつはいる。


「モーイーカイッ、マアダダヨォ、モーイーヨー、メンマ、ミイツケター、ミツカッ、チャッタア」


 やめろ。俺に触れるなっ!


 だけど。


 肩に手が乗せられた。


「キンキンニ、ヒエテヤガルッ!」


 その違和感に、俺は、ゆっくりと振り返る。


「生殺与奪の権を他人に握らせるな!!」


 ラジオが叫び、手に持った女が笑う。


「うわあーっ!」


「ぶーた、失礼だよ。人の顔を見て驚くとか」


 立っていたのは、俺の同居人にして、彼女・同僚・債権者。そして小学校の同級生にして、初恋の女の子。


 俺に、ぶーた、なんてあだ名を付けた礼儀知らずの幼馴染みだ。


 山武太一さんぶたいちの真ん中を取って、ぶーた、だと? 失礼にもほどがあるぞ。


 だが今は。


 緊張感が抜けて、立っていられない。思わず抱きついてしまった。


「怖かった。……驚かさないでくれ」


「ごめんね。わたしも怖くてね。ラジオを流して気を紛らわせてた。怖いよね。誰もいないビルって」


「ラジオが追いかけてくるかと思って、ビビった」


「ぶーたを見つけて追いかけたんだよ。わたしだって怖かったんだからね」


「そっか。ごめんな」


「こっちこそ、驚かせてごめん」


「ラジオ、聞いてたんだ?」


「うん。『あなたが選ぶ名セリフ特集』っていう番組」


「そっか。ど〜りで聞いたことがあると思った」と安心して抱きしめる。


 こいつの口から「好き」とか「愛してる」という言葉を聞いたことはないし、今はまだ何の約束もできないけれど、彼氏彼女の関係なんだから、これくらいは許されるだろう。


 そのとき。


 ラジオが叫んだ。


「俺が結婚してやんよっ!」


 こいつの体が硬直した。続いて。


「僕と契約して、魔法少女になって欲しいんだっ!」


「無理っ!」


 そう言って、大原いずみは俺から離れる。


 何が? 何が無理なんだ?

 結婚か? それとも、魔法少女か?


「降りて来いよ。ド三流。格の違いってやつを見せてやる!!」


 うるせーよ。ラジオは黙ってろっ!


「あはははっ」


 大原は、ラジオの電源をオフにして笑いだした。


「ところで、どうやってビルの中に入れたんだ?」


「わたしね。裁判所事務官の試験に合格したんだ」


 こいつが高校時代の同級生の勧めで、裁判所事務官採用一般職試験を受験したことは知っていた。


 合格発表はそろそろだった。今日、合格通知が届いたのだろう。


 そうか、合格したのか。事務所を辞めるとなったら、ボスが悲しむだろうな。


 でもしかたがない。なんせ待遇が違う。公務員だからな。


「ボスに報告したら、ぶーたに知らせてやれって、ビルの合鍵を渡してくれて」と喜ぶ大原を見て、俺の顔もほころぶ。


 だけど。


 もし、書記官試験に合格して裁判所書記官になったら、パラリーガル契約の俺の給料をあっという間に超えていくはず。


 俺達の関係も変わっていくのだろうか。


 大原が伸ばした手を、そっと握る。


 今は、まだ、何も約束できない。


 大原は待っていてくれるだろうか。

 俺の夢が行きつくまで。


 未来はいつも不安だ。

 形にできない分だけ、怖さでうずくまってしまいそうになる。


 ひとりで生きていくことが、こんなにも恐ろしい。


 怯えたまま、夜に押しつぶされてしまいそうだ。


 月が明るく照らす夜、俺達は寄り添いながら家へと向かう。足元から影が伸びる。


 それは、この街に怯えるふたつの影がひとつに重なるようにも見えたんだ。



     一 おわり 一


【あとがき 8/8追加】


太一「こんにちは。【夜に怯えて】を読んでいただきありがとうございます」


いずみ「なろうが主催する夏の期間限定企画、『夏のホラー2022』への参加作品『夜に怯えて』のあとがきを、作者に代わってわたし達でお送りします」


太一「司会進行の山武太一と」


いずみ「彼女の大原いずみです」


太一「さて、この物語、投稿したのはいいものの、連載作品にかまけてすっかり放置していました。今日、久しぶりに読み返してみたところ、解消されていない疑問があったので改稿して【あとがき】でお届けすることにしました」


いずみ「なんで? 本編を改稿すればいいのに?」


太一「ホラー色が薄まるからだ。ただでさえ、読み返したらコメディにしか思えなかったのに、これ以上のコメディ要素はいらない」


いずみ「まあ、いいけど」


太一「そこで質問だ。ラジオを点けっぱなしにして、君はどこへ行ってたんだ? 部屋に隠れてたわけじゃないだろ」


いずみ「それを聞くっ⁉」


太一「おおよその見当はついてるけどね」


いずみ「しょ~がないな。もよおしてきちゃったから、そのね」


太一「水道を止めてあるから流れなかったろ」


いずみ「あっ、違うよ。大きい方じゃないよ」


太一「手を洗った?」


いずみ「え〜と」


太一「トレペもなかったはずだけど」


いずみ「そこは、まあ、雰囲気というか」


太一「洗ってない手で俺の肩にさわり、俺と手をつないだと」


いずみ「てへっ」


太一「拭かないで出てきたと」


いずみ「ちゃんと拭いたよ。手持ちのティッシュで。……流してないからそのままだけど」


太一「やってることが怖いんだけどっ!」


いずみ「ホラーになってよかったね。ははは」


太一「全然よくないっ!」


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