襲撃
「HAHAHA、Airborneはどの国もCrazyだな。Major・加藤はその中でも最高の気違いだ」
「サンキュー。女王様によろしくな」
オーストラリア派遣軍司令のアレックス中佐から最高の褒め言葉をもらい、俺は上機嫌だった。もちろん、燃料の話は最初に頼んで快諾してくれた。アレックス中佐も空挺出身で、俺と同じくフリーフォールで脳味噌が蒸発したクチだ。
オーストラリア軍も、指揮官が執務する天幕は質素なものだ。副官が出してくれたアイスティを飲み干すと、俺は席を立った。
「ああ、加藤少佐。ひとつ忘れていた」
「なんだい」
立ち上がりかけた姿勢のまま、アレックス中佐に眼を向ける。
「国連軍を狙うテロリストの情報が入っている。事実、我々も偵察中にIEDを発見した。不発だったがな」
顔が引き締まる。帰ったら二科長に調べさせなくては。
「貴重な情報をありがとうよ。今度ビールでも差し入れするよ」
イスラム国家で、酒は本当に貴重なのだ。
「そいつは嬉しいな。これから加藤少佐が来るときには情報を用意しておくかな」
「よろしく頼むぜ」
アレックス中佐と握手をして、天幕を出る。とりあえず、トリポリまで燃料を買い付けに行く徒労はしないで済んだ。
空野が、天幕の前で待っていた。
「中隊長、以外と英語うまいんスね」
「当たり前だろ。英語できねえ奴が海外派遣の中隊長になるかよ」
小平学校の英語課程で、外出も出来ず勉強漬けだった日々を思い出す。
自衛隊は、パラシュートから英語までいろいろやらせてくれるものだ。
「おまえの方の用事は済んだのかよ」
「明日の作業の境界の確認スから、すぐ終わったッス。ほかに用事はないッスか?」
「ああ、当面の燃料も確保できたし、帰ろうぜ」
ふと、アレックス中佐からの忠告が頭をよぎる。空野に言っておくべきだろうか。
どうせ夕方の会議で全員に達することになる。今言う必要はなかった。
パジェロに乗り、後部ドアを閉めた。空野がドライバーの石田に出発を指示する。
オーストラリア軍の宿営地を出て、また単調な道を走っていく。行きとは違って、心配事がひとつ解決した安堵で、砂漠の空が輝いて見えた。
「中隊長、お子さんいますよね」
「なんだよいきなり。男がふたりいるぜ」
「どんな感じですか? 仕事に張り合いが出るとか、家に帰るのが楽しみだとか」
空野らしからぬ質問だった。
「いや……家族のためだから仕事が頑張れるってのはないな。いくら働いても給料同じだし。家に帰って嬉しいのも、二~三歳までだな。大きくなると、兄弟喧嘩するのを叱ってばかりだ」
「いいっスね、そういうの」
「まあ、その身になってみなきゃ判んねえよ」
空野が、助手席からくるりと後ろを向いた。じゃがいものような顔が、だらしなくやに下がっている。
「いやあ、実はコレがコレでして。日本に帰ったら籍入れるんスよ」
空野はまず小指を立て、次に腹の前で両手で弧を描いた。
「マジですか!」
ハンドルを握る石田が叫ぶ。
「おい、俺のセリフ言うんじゃねえよ」
「すいません」
恐縮した石田は、前を向いて運転に集中した。それでないと困る。
「おいおい、彼女がいることさえ俺は知らなかったぞ」
「言ってませんでしたっけ?」
「どこで捕まえたんだよ? 富士見町のキャバクラか?」
空挺団員が足を伸ばす飲み屋街の名前を出す。
「違いますよ。出入りの保険屋のおばちゃんに紹介してもらったんス」
「へえ、意外と真面目だな。名前は? 今度ドライブがてらウチに飯食いに来いよ。嫁もひとに飯食わすの好きだからよ」
「第十師団ですよね。派遣後の休暇で、美奈と一緒に遊びに行きますよ」
空野の眼が博多にわかのように垂れ下がる。俺も、日本に帰った後の楽しみがひとつでも増えるのは嬉しい。
さて、空野の彼女に、空挺団時代のどんな馬鹿ばなしをしてやろうか。
努力しなくても次々と思い浮かぶ記憶に、思わず笑いがこぼれる。
その瞬間は、唐突に訪れた。
前ぶれのない衝撃が、左側から強く身体を叩く。
一瞬後に、鼓膜の限界を超える轟音が全身を震わせる。
眼の前が真っ暗になる。耳鳴りが脳をかき乱す。
自分が横たわっていることが、ようやく判る。
車ごと倒れているのだと、なんとか理解した。
IED。
頭の中に、電光のように最悪かつ妥当な理由が思い浮かぶ。
「空野……大丈夫かっ!」
呻くような声で問いかける。
「う……中隊長、生きてるっス……けど、石田がヤバいッス。オレの下敷きでたぶんアバラが折れてるッス。折れた感触がしたッス」
空野が、きれぎれの声で答える。考えろ。判断しろ。最良の行動方針は何だ。
「石田! 無事なら返事しろ!」
返事はない。耳を澄ますと、ぜんそくのような呼吸音が、弱々しく聞こえる。
落ち着け。まずは状況の確認だ。敵が、囲んでいるかもしれない。
身体の受けたショックは、次第に落ち着いてきていた。全身の痛みを確かめる。
打撲の痛み。速い鼓動。骨が折れたときの鈍痛はない。どうやら、俺はまともに動けそうだ。
「空野、動くなよ。小銃を掌握しとけ。弾ごめして、安全装置かけろ」
右腰の拳銃ホルダーに手をやる。ホックを外し、ぬるりと拳銃を引き出した。
車は、右側に九十度横転している。ゆっくりと立ち上がり、左側の割れた窓から眼だけを出す。周囲を、ぐるりと確認する。爆発の余韻か、砂煙は舞っているものの、敵は見当たらない。連係攻撃はないようだった。
ほっと息をつく。
「俺が先に出て警戒する。石田を引きずり出せ」
「了解……ッス」
空野の声が小さくなっていた。
「どうした、ケガしてんのか」
「異状なし……ッス」
空野ができるというならできるのだ。俺はドアを垂直に跳ね上げ、身体を外に乗り出した。
外に転がり出ると、エンジンから煙が上がっている。燃料に引火したらふたりとも丸焼けだ。
「空野、急げ! 爆発するかもしれねえ」
拳銃を構え、四周を警戒する。アドレナリンが満ちていた。今なら、ためらいなく引き金を落とせる。
かほりのことも家族のことも頭から消えた。闘争心が、燃え上がる瞬間を待ちながら、心の底をうごめいている。
助手席のドアが開く。空野のじゃがいも頭が見えた。鉄帽は、飛ばされてしまったようだ。
「よい……しょっと」
空野が、ずるりと巨体を外に出す。
「空野……おまえ!」
左腕の肉が吹き飛び、上腕はほとんど骨になっていた。肩の腱で、かろうじてぶら下がっている。迷彩服が、血で黒く染まっていた。
「すんません、中隊長。小銃、撃てないッス」
血の気を失った顔で、空野がうっすらと笑う。そして、右腕一本でぐったりとした石田を車内から引きずり出した。
「石田、生きてんのか」
空野の状況は心配だが、周囲から目を離すわけにはいかない。
「意識はないッス。呼吸が弱いッス。すぐ医者に診せないとヤバいッス」
「車から離れるぞ」
立っているのが奇跡のような空野に無理をさせるのは本当に忍びないが、銃を持てない空野に警戒をさせることはできない。万が一のとき、全員やられてしまう。
先頭に立ち、周囲を警戒しながら車から離れていく。空野は右腕一本で、石田の襟をつかんで引きずっている。
五十メートルも離れたところで、轟音とともに衝撃波と熱風が背中を叩いた。振り返ると、パジェロが炎に包まれ黒煙を上げている。
「ちくしょう……」
歯をぎりぎりと噛み鳴らす。空野が膝をついた。
「空野……!」
「……厳しいッスね」
空野の顔色が、紙のように白くなっている。太陽は、地獄のように照りつけているというのに。
砂の上に横たわった石田も、まずい状態だ。フライパンのように熱せられた砂の上に寝かされて、このままではすぐに死んでしまうだろう。
左腰のホルダーに入れてある、衛星携帯電話を取り出す。副長の登録番号をセットした。
コール音が二回、三回、四回。
「くそったれ、早く出やがれ!」
焦りから、誰も聞いていない罵倒が口をつく。
五回目で、通話状態になった。
「はい、副長ですが。どうされました?」
怒鳴りたくなる気持ちを、一度深呼吸をして押さえつける。
「どうされました?」
喋らない俺に、副長の声がけげんなものになる。
「IED攻撃を受けた」
「えっ……!」
「場所はオーストラリア軍宿営地からウチへの道を約十キロの地点。空野と石田が重傷だ。すぐに回収に来い」
今度は副長が黙る番だった。
「中隊長のお怪我は……?」
「軽傷だ。ふたりは危険な状態だ。一秒でも早くこい!」
「了解しました!」
最後は怒声になってしまったが、副長は即電話を切った。
これで何とかなる。ただし、空野と石田の体力が持てばだ。
肉がほとんど吹き飛んだ空野の左腕は、どう応急処置をしたらいいのか見当もつかない。
迷彩服を脱ぐ。上腕の骨ごと包むように巻いた。とても包帯代わりに使えるものではないが、救急包帯ではこの傷を覆うにはまるで足りない。
空野は腰も下ろさず、ゆらりゆらりと揺れている。
「座っとけ、空野」
「ダメッス。座ったら二度と立てる気がしないッス」
血の気が引いた白い顔で、空野はそれでも笑ってみせた。
と、地の果てから砂煙が湧き上がるのが見える。副長の救援か。
一瞬喜んだが、来るのがあまりにも早すぎる。
「空野、隠れろ!」
何も聞こえていないかのように、空野はゆらゆらと揺れ続けている。
「空野!」
「見えてるッス。ウチにしては来るのが早すぎるッス。ただの民間車両ならいいッスけど、敵だったら終わりッス。中隊長、石田をつれて砂の中に隠れてください」
「馬鹿野郎! 武器も持ってねえくせにカッコつけるんじゃねえ!」
空野は、ぼんやりとこちらを見た。口元に、軽く笑みが浮かんでいる。
「中隊長が戦ってくれても、オレは石田を連れて帰れないッス。間違いなく途中でくたばるッス。中隊長なら、帰れるッス」
そんなことは判っていた。そしてこのとおりにやれば、最も多くの生存者を出すことが出来るだろう。しかしそれは、空野に死ねということだった。
「親父と美奈に、ちゃんと伝えてくださいよ。嫌な仕事ッスけど」
「馬鹿野郎……」
声を絞り出す。俺は、決然と顔を上げた。
「空野二尉! 前方から接近する車両の彼我を確認しろ!」
「了解……ッス。終身名誉誘導小隊長殿」
空野が、残った右腕で敬礼をする。笑っていた。
砂煙は、どんどん近くなってきている。
俺が、俺の責任で空野に命令を下した。空野の意志に甘えて、自分が責任を逃れようなどということは、俺自身が絶対に許さない。
砂丘のくぼみに石田を引きずっていく。上衣を脱がし、顔にかぶせる。潜ったときに砂が鼻や口に入らないようにするためだ。急いで、手で砂を掻く。ちょっとした穴ができると石田を寝かせて、砂を一気にかけた。あまりに長くこの状態にしていると窒息してしまうかもしれないが、これ以外に方法がない。
そして、俺の分の穴も掘る。自分で自分に砂をかけるのは難しい。どうにか、迷彩の色は隠すことができた。顔を両手で覆って呼吸できる空間を確保し、首を左右にひねって顔に砂をかけていく。
砂の中は、直射日光が当たらない分、思ったよりも涼しかった。しかし、そんなことを考えている場合ではない。
遠くから、ごおおという震動が伝わってくる。音が重い。トラックかもしれなかった。どうか民間車両であってくれ。
音は、次第に大きくなってくる。近い。無意識に身体がこわばる。ただ隠れているという状態は、戦闘の備えになっていない。襲われても対応できない恐怖が、身体を硬直させる。
ぎいいっときしむような音を立てて、震動が止まった。すぐ上に、いる。
静寂。何が起こっているのか。空野の声も、相手の声も聞こえない。
どうか、何でもないただの車であってくれ。空野は、腕を失い自衛隊で働くこともできなくなるかもしれないが、早く治療をすれば助かるかもしれない。
ただの希望的観測か。違う。最悪を想定しつつ最良を目指すのが作戦だ。ただ、今は最良のために運と時間だけが必要で、俺にはどうすることもできない。
いきなり、どどどどっと砂が震えた。
身体が凍りつく。何度でも聞いたことのある音だ。重機関銃の音。
そんなものを空野は持っていない。そもそも個人で携行できる代物ではない。
そして、もし民間車両であるなら、そんなものを持っているわけがない。
何人かの現地語が、砂の向こうから聞こえる。
しばらくすると、震動が起こり、そして遠ざかっていった。
心臓が、痛いほど不規則に打っている。音が完全に聞こえなくなってから、さらに百を数えて、砂から跳ね起きた。
「空野……!」
窪地から駆け上がる。
誰もいなかった。砂漠を吹く風が、何にも遮られず駆け抜けていく。
「空野っ! 現在位置送れ!」
口の中が砂でざりざりする。そんなことに構ってはいられない。
俺は気づいた。見たくないものから、目をそらしていた。知らないふりをして、空野の名を呼び続けていた。
絶望的な量の血が、砂に吸い込まれつつあった。
「ぐうっ……」
心臓が痛い。息が詰まる。眼をぎゅっと閉じた。
俺は、大人になって初めて泣いた。