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空野

「行ってらっしゃい」


 日曜日の午後、玄関で妻と息子ふたりが見送ってくれる。喧嘩したとき以外は、この習慣が途絶えたことはない。週末の休みが終わる前に、俺は静岡県の駒門駐屯地にある国際活動教育隊に戻らなければならない。


「お父さん、いつ帰ってくるの?」


 次男の永人(ながと)が、寂しそうな顔で見上げる。もう指揮幕僚課程(出世コース)も放棄した身としては、子供たちにこんな顔をさせない平凡な仕事に転職したいという気持ちがしばしば起こるが、今辞めるわけにはいかない。


「また金曜日に、帰ってくるよ」


 もう二十キロを超える永人を、荷物を持たない腕で抱き上げる。あと一年たったら、こんな芸当もできなくなるだろう。首筋にぎゅっと抱きつく顔が熱い。泣いているのかもしれなかった。


「じゃあねえ」


 長男の(あきら)はまったく悲しそうではない。何かを任せるにはまだ幼すぎるが、少しは頼もしく思う。玄関の扉を閉めた。

 別れを惜しむのはここまでだ。

最寄りの駅から私鉄を乗り継いで、新幹線に乗る。三島駅までは一時間ほどだ。駅前に止まった赤いランドクルーザーの運転席から、腐れ縁のでこぼこ頭が顔を出す。


「同窓会はどうでした? 終身名誉誘導小隊長殿」

「いちいちその呼び方すんじゃねえよ、空野(そらの)


 この筋肉の塊にじゃがいもを乗せたような男は、空野神兵(しんぺい)という。俺は助手席に乗りこむと、缶コーヒーを渡してやった。


「いただきます。空挺団で小隊長ドライバーしてたときも、よくコーヒーくれたっスよね」

「誰でもやってるだろ」


 空野はひと口でコーヒーを飲み干すと、スチール缶を紙コップのように潰した。


「じゃ、出発します」


 ランドクルーザーがそろりと出発する。ほとんどの陸上自衛官はそうだが、空野も外見に似合わず運転は繊細だ。

 駅前の道を、車は富士山に向かって走っていく。


「くくっ」


 運転席の空野が、含み笑いをする。


「なんだよ」

「いやあ、親父と小隊長、毎日のように喧嘩してましたよね。おかしくって」

「おまえ、それ何度目だよ。話がなくなるとそれしか言わねえよな」


 空野の父親は大造(だいぞう)といい、空挺団の最先任上級曹長だった。ずいぶん前に定年になったが、空挺団の(ぬし)と言われた男で自衛官人生を空挺団にささげた。空野という苗字をいいことに、息子に神兵と名付けるような奴だ。

 もちろん軍歌の「空の神兵」から取っている。


「最初に喧嘩したの、小隊長が着隊した日でしたよね。まだ三尉にもなってない候補生が、団の最先任に口ごたえするんですから、ビビったっス」

「いやさ、いくら年上だって俺より階級下だろ。いきなり『挨拶が悪い』は階級社会舐めてるよ。何年自衛官やってんだ」

「まあ、正論っスよ。そっくり同じ言葉言ってたの、覚えてるっス。親父のやつ、何言われたのか判らないみたいにぽかんとして、そのあとようやく怒鳴ったっスね」


 空野がまた笑う。今は年上で階級が下のベテランをどう扱うかは心得ているが、若いころは思いのままにしか行動できなかった。


「親父さん、今どうしてんだ」

「毎日十キロの駆け足と腕立て・腹筋を百回ずつやってから、棒振りに行ってるっス」


 棒振りとは警備会社の交通誘導員のことだ。空野の親父は准尉で退官したので、五十四歳で再就職した。


「何だか切ないよな。空挺団じゃ泣く子も黙る鬼の先任が、一日中道路に立って誘導してんのはよ。息子が働いてんだからよ、もう隠居してもいいじゃねえか」

「親父に隠居なんて何の冗談スか。そんなの、一番似合わないって小隊長が知ってるでしょう」

「まあな」


 窓の外が、見慣れた御殿場市街のものになっていた。富士山が近くなってきている。富士山を見るたび、空挺レンジャー課程でシゴかれた思い出や、二夜三日で富士山一周百五十キロを歩く行進訓練を思い出してうんざりする。できれば二度と拝みたくなかった。


「富士山、見飽きたな」

「いやあ、オレも来年幹部上級課程(AOC)っスからねぇ。また富士学校っスよ。指揮所演習(MM)って、マジ泣きするまでシバかれるんスよね」

「そうだよ」


 まあ洗礼のようなものだ。幹部は全員経験する。空野は、俺が空挺団にいるときに部内幹部候補生試験に合格していた。


「まあ、小隊長も空挺団長かったっスよね。幹部候補生学校(OCS)卒業して、同じ部隊に十年もいる人、珍しいス」

「いなくはないけどな」


 そのおかげで、敵地に真っ先にひとりで飛びこむ誘導小隊長をやらせてもらえた。


「いい小隊長でしたよ」

「何言ってんだ」


 不意打ちのような言葉に、少し驚く。


「オレも新隊員後期から空挺団にいましたけど、終身名誉誘導小隊長なんて仇名(あだな)がついたのは、小隊長だけっス」

「……ふん」


 窓の外に顔を向ける。市街地から県道に入っていた。柵が見える。駒門駐屯地の営門をくぐるまで、もう少しだった。


「照れてるんスか?」

「馬鹿言え」

「生活隊舎の三階から素面(しらふ)で『俺の五点着地を見ろ!』って本当に飛び降りた幹部なんて、小隊長しかいなかったスよ。あれでみんな、小隊長を好きになったんス。馬鹿ッスけど」


 苦笑しか出てこない。自分がよほど馬鹿だったのはそのとおりだ。幸い、軽い捻挫で済んだが。ちなみに五点着地というのは落下傘で着地するときに、ショックをやわらげるための着地法だ。


「着いたっス」


 空野が窓を開ける。警衛の陸士が身分証を確認する。

 ようやく、モードが変わった。休暇は終わりだ。

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