第十三話 〜〜もう師匠のことは放って置いて主人公にスポットライトを当てて欲しいんですけど〜〜
「場所を変えるぞ、愚か者」
リエナは着地と同時に言うと、女魔族と姿を消した。苛立ちを僅かに含んだその声はセリナとダンクトンには聞こえなかった。
「消え……た」
気が付けば、ダンクトンは見たままを単純に口にしていた。別段、声を大にして言ったわけでもなかったのに自分の声が暗がりの道によく通っていく。
町に静寂が戻った、と言うことだろうか。その証拠に、篝火の薪がパチンッと爆ぜる音だけが遠くから響いてきた。
「ダンクトンさん、大丈夫ですか!」
「っ!?」
傍らで呼びかける声にハッとする。
見ればセリナが膝を付いて様子を窺ってきていた。
「ぁ、……ああ、なんとも」
半ば放心状態だったダンクトンは尻餅をついている自分の体に軽く目を配らせて返事をした。
「よかった」
「それよりセリナさんは」
「私も平気です」
その答えにほっとする。
ダンクトンは額から頬を伝う汗を素手で拭って顔を上げた。すると、次に顔を上げた瞬間、不意に女魔族が自分を蹴り殺すその一撃を思い出してしまった。リエナと共に消えたはずなのに、心臓と鳩尾の底が同時にぎゅっと突き上げられるような感覚に襲われる。
「ぅ……」
何とか吐くのを堪えると、もう一度顔を拭った。
強く瞼を閉じて目を開ける。
そう幻覚だ。
実際には直撃は愚か、擦りもしていない。
(俺はちゃんと生きてる……)
あそこでリエナさんが助けに入らなければ自分は確実に死んでいた。それどころか最悪、後ろに庇ったセリナさんを巻き添いにして二人諸共死んでいた可能性だってあったかもしれない。
「どうかしましたか」
「いや、なんでも。ただ……」
手の震えがどうしても止まらない。おまけに思うように脚に力が入らなかった。
「情けない。大の大人がこんな有様とはね」
「……ダンクトンさん」
ダンクトンが自嘲気味に言うと、セリナも彼の手を見下ろした。
実際、魔族に遭遇し襲われてからリエナと魔族が姿を消すまでほんの僅かの時しか経過していない。だからと言って、それを現実感の無い出来事に思えるほど生易しい体験ではなかった。
自分達が今こうしていられるのはリエナという存在がいたお陰だ。彼女がいなければとっくに死んでいた。
単なる人間が叶うはずもない上位の存在。
モンスターや魔獣といった魔物と遭遇し襲われるものとは全く違う、別次元の死の恐怖。
この震えは、それが心身に深く刻まれてしまった結果なのだとダンクトンは理解した。
「あはははは、参ったな、本当に情けない……」
空笑いをしながら言うが、子供の前だからと虚勢を張ることは出来なかった。
あの存在が怖くてどうしようもない。
「そんなことありません」
「っ…………」
そんなダンクトンをセリナの一言が止める。
「私を庇ってくれたじゃないですか。情けないなんて、そんなことありません」
「あれは咄嗟に、大したことじゃ」
「いいえ。助けてくださってありがとうございました」
セリナは優しく言いながら、まるで謝るように頭を下げた。そうしてなかなか顔を上げようとしない彼女にダンクトンは慌て始める。
「どうしたんですか?……セリナさん?あの、顔を上げて。そんな、それこそ違う。あれは本当に咄嗟のことで。そんなに頭を下げるようなことじゃない。その……ほら、こうして二人して無傷で生きてるんだ」
「……」
なんとか言葉を絞り出すことができたが、セリナの顔はさらに俯いてしまう。
「どうしてそんな。大丈夫だ。なんともないさ。気を落とさないで」
「でも、私、あの時気持ちが一杯になってしまって」
ダンクトンは困ってしまった。
彼女の立場からしてみれば、魔族相手に誰かの盾になって割り込んだとして、そいつが死ぬのは確実だ。それが気が動転して錯乱した自分のせいで死んだとなれば最悪だろう。
そんな可能性があった、あの一瞬。
彼女は自分が取った行動の正否について考えてしまっているのだろう。平静を取り戻し、冷静になってしまった。普通は恐怖が過ぎ去って安堵する場面だというのに、この子は真面目だな。
「極限の状態だったから仕方ないさ。もし目の前で妻が同じ目にあっていたら俺はセリナさんと同じ事をする。それぐらいセリナさんの反応は普通だった。俺たちは訓練された人間でもないし、そもそも相手はあの魔族だ。生きてることに喜びはすれど、落ち込む要素なんてどこにもないさ」
「はい……」
どうにか元気付けようとしてみたがやはりというか、あまり言葉は響いていない様だった。
ダンクトンはセリナから目を離し、自分を見て肩を竦めた。それはそうだ、尻餅をついたままじゃ説得力に欠ける。
「悪いけど手を貸してくれるかい。緊張していたせいで上手く立ち上がれないんだ」
戯ける様に言って手を伸ばすと、セリナは何も言わずに太った体を引っ張り上げてくれた。ぱっぱっと尻についた埃を払いながらダンクトンは言った。
「いいかい?君が責任を感じることは全くない。俺があそこへ飛び込んだのは俺自身の責任だ。そして、魔族の怖さが身に染みたのも俺自身が感じた結果だ。決して君の所為じゃない。この経験は俺のものだ。君のじゃない。俺を背負い込もうとしたら君の足腰じゃ足りやしないさ。…………。あー、んん゛っ!それにだ。結局はリエナさんが美味しいところを全部持っていってしまったんだから。俺がセリナさんを庇ったところでどうして格好付けられる?俺は間違っても妻にそんな自慢話をするつもりはない。間違ってる。全部違う。今考えるべきは、この後どうやってあの人にお礼をするかだ。命の恩人にはそれ相応の感謝を示さないと。そうだろう?」
「……はい。……はい、そうでした。ちゃんとお礼しないとですよね。お菓子を焼いたら喜んでくれるでしょうか」
ぎこちなくも笑みを作るセリナにダンクトンは首を縦に振った。
「うん。いい、アイデアだ。それなら俺が果物を用意しよう。マリンには珍しい物がよく入るんだ。それでパイでも焼こう」
「いいですね。そしたら、たくさん焼いてみんなで食べましょう」
「だったら妻も呼ばなきゃな。もちろん、お兄さんにも食べてもらうんだろ」
「はい」
「じゃあ、まずは俺たちのすることを終わらせなきゃな」
ダンクトンの言葉にセリナは今度こそ大きく頷いた。
ドノット町長にマリンからの伝令役へ話を聞けるように取り継いでもらう。それが当初の予定だった。しかし、今は更に伝えなければならないことも増えてしまった。
魔族が町中に現れた以上、この町はもう安全とは言えない。奴らは集団で町を襲うのが常だ。あの女魔族が単独である可能性は低いと考えたほうがいいだろう。
一刻も早く町の警鐘鳴らし、避難しなければならなかった。
二人は瞬時に手分けをすることを決めて別れた。
そうして、ドノット町長へ面識のあるセリナはそのまま邸宅へ。ダンクトンは町中の警備兵に避難指示を仰ぎに駆け回っていった。
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その頃、リエナはリーリャ峠の麓付近にある大きな広場に居た。
そこは、近隣住民から『終焉の境界線』などと呼ばれていたり、とある一人の馬鹿に『自殺実演試験研究広場』など訳分からん名称で呼ばれている例の場所である。
もちろん、前者の不名誉な呼ばれ方をされる原因を作ったのは後者だ。そもそも、その馬鹿さえ居なければ、ここは今でも他と変わらず、自然豊かに木々の生い茂る動物たちの憩いの場となっていただろう。決して、こんな有様には……。
「あやつめ。どれだけ好き勝手したらこんなことになるんじゃ」
円柱型の不可視の結界に覆われた広場には、木の一本たりとも生え残っていなかった。端から端まで見晴らしが良いばかりか、足元の地面は土が剥き出しで緑を主張する草花は絶滅寸前と言わんばかりである。
「…………荒野とすら呼べぬな」
ぱっさぱさに乾いた土の足場の悪さときたら、この上なく最悪な状態だった。足を付けるだけで砂埃が舞い、水に濡れると泥のように粘着し、更に地中にいくつも空洞があるのか、踏み抜いて大穴が空いてしまうところもあれば初めから大きく陥没しているところもあった。まさに雑草が生息することを諦めるのも頷ける土壌の酷さである。
おまけに。
「濃度も純度も最低最悪じゃ」
この一帯のエーレアの濃度はかなり、いや、酷く薄かった。
その所為で身体を覆うリーフに違和感を感じる。
分かりやすくこの感覚を例えるなら、空気の薄い山の上にいる状態と言おうか。このまま魔法を行使したとしても望む効果は得られまい。実際、女魔族は自滅するように体力を減らしていきよったわ。
「まったく、あの馬鹿は」
廃山の洞窟や荒廃した都市、それに戦場跡地でさえこうはならない。
環境破壊の賜物としか言えない有様じゃ。
(アーロックめ。こんな環境になってもあんな馬鹿げた結界を張りおって。あれでは結界が邪魔をしてここら一帯に流れてくるはずのエーレアが入ってこんではないか)
視線の先にある広場と森の境。丁度、その境に結界が張られている。
円柱の形をして張られている不可視の結界は、レトノアの町に張られていたものとは“異なる条件付けがされた障壁”のようだ。フローチャートは町のものよりもより簡素で、物体と音を内から外へ出ないように遮断する役割を持っているようだ。そして、魔物以外の動物は自由に出入りできる仕様になっている。と言うことは、不死身の弟子は一応、人間かまたは動物の分類であるらしい。魔法を使って自分の存在を確かめたのじゃろうか。つい笑いが込み上げてきてしまう。
(じゃが、笑えるのもそこまでよ)
我の目を持ってすれば術式構築の拙さと杜撰な管理が一目で分かってしまう。劣化の様子を鑑みるにメンテナンスを一度もしておらぬようで、構築文が短絡している箇所が幾つもみつかった。
おそらくそれがエーレアの循環を悪くしていると見て間違い無いじゃろう。
「抱き付く前に、キツい一発をお見舞いしてやらねばならんな。たわけが」
何せエーレアが枯渇していたお陰で【リベロレイト転換作用】が上手く働かず、転移現体に失敗してしまったのじゃから。
「このぉぉお……はな、しなさいっ!!」
「腐っても魔族よな」
転移の際の情報欠落。
それを補完する法則が、レイトの考案した理論だ。
しかし、それは転移先のエーレア濃度に大きく左右されてしまうという弱点があった。簡単に言うと、ここのように極端な環境破壊がされた場所が転移先の場合、現体時に術式の理論構築文が空回りし、“誤った補完”をしてしまうのだ。
その結果、どうなるのかというとーーー。
「我にとっても予想外じゃった。許せとは言わんが、悪かったの」
女魔族は左腕を肩から指先まで全て消失しており、更に左耳に付けられていた筈の装飾が右目と同化してしまっていた。
「その状態でも我に歯向かってきたのじゃ。胸を張って誇ってよいぞ」
「ぅううああああああ!!!黙れええ!んぬあああああ、どけえっ!離せっ!!わた、くしの、腕を返せええええええッ!」
「じゃから、それは無理じゃと何度も言うとろうが。分からんやっちゃのう」
顔面を片手で押さえつけられながら我の下敷きになっている女魔族は、怒りの限り叫び散らす。その度に装飾と同化した右目から血が噴き出した。幸いにも消失した左腕痕は、不恰好であるが皮膚が繋がっており血の一滴も出ていないようだ。
この女魔族は腕一つを補わなければならないほど転移現体時の欠落が深刻だったわけではない。砂粒程度の穴に腕一つが分解されるという反動を被ったのだ。
【リベロレイト転換作用の補完法則】は周囲のエーレアから欠落情報の補完が正常に出来なかった場合、補完対象物に最も近い物から補填しようする。
しかし、そこに制御は効かない。
女魔族の姿を見て分かる通り、“誤った補完”の本当に恐ろしいところがこれなのだ。魔法の単なる不成立ではない。
『爪が一枚なくなったとして、代わりに心臓を補填に使われてしまう』といった、一を十で補おうとする。エーレアの伝導・変換率が、同程度か或いはそれ以上の“対象物”がエーレアへと強制変換され、欠落部位に再構築されてしまうのである。
「痛々しいのう」
「だまれえええええ!!」
で。
斯く言う我はと言うと、転移現体不全の影響は全く受けていなかった。
当たり前じゃ。誰が己の魔法で自爆すると言うのかや。【ユーストラル限界】を無しにしても、補う方法などいくらでもある。あらゆる状況に対応出来て初めて魔法使いと名乗れるのじゃ。寧ろ、こんなことにも対応出来ぬなど三流の下の下よ。
「そう恨むな。謝ったじゃろ。あとは我に喧嘩を吹っかけてきた自業自得じゃ」
「こ、ろす、殺す!ブッ殺してやる!!」
「そうかそうか。頑張れ」
しかし、困ったのう。
こんな状態じゃ会話すら成立せん。
状況を察するに、こやつは我の馬鹿弟子を狙って襲ってきたのじゃろう。それを我と馬鹿弟子を間違えたのは甚だ遺憾じゃ。性別も声質も背格好も全く違うと言うのに、何をどうしたら間違えると言うのじゃ。
(こやつ、実は馬鹿弟子のこと何も知らないで当てっずぽうに突っかかって来たんじゃあるまいな……)
「詰めが甘すぎじゃ。そもそも貴様如きがアレにどうやって勝つと言うんじゃ。計画があまりにもズブズブ過ぎではないかや」
そうは言いつつも、ただ単にアーロックを今日この時に偶然襲いに来たわけでないことくらい分かる。
「いっそ馬鹿正直にそうであると言ってくれた方がありがたいのう。あの馬鹿はどこで人様に恨みを買っておるかわからんからのな。夜な夜な刺されても文句は言えん」
そう言いつつも、考えないことには真相には近づけないので眠い頭を仕方なく働かせる。
突然の海を越えた国からの宣戦布告無しの侵攻。
正常に機能しているように見えない王都の反応。
馬鹿弟子を狙って単騎で町に降りてきた女魔族。
(普通の者なら人は人、魔族は天災に近い抗えない不運と考えるんじゃが……。まぁ、我の手札は多いからのう。なんとなく予想が付いてきたわ)
「正直言って、我は物凄く眠いのを我慢してるんじゃ。眠過ぎて機嫌が途轍もなく悪くっておる。そんなところにわざわざ絡んできおって。貴様。普段であれば我の視界に現れた瞬間、消し炭になっておるからな」
必死にもがく女魔族を胡乱な目で観察しながら悪態を吐く。
ざっと見て、特徴的なのは布面積の少ない服と過度な装飾品か。その他はさして重要ではない。褐色の肌や側頭部から生える二本の角、背中の鱗に覆われた羽とか腰の尾などは魔族なら普通の部類じゃ。強いて言えば、羽があるなんて今時古風な血筋じゃなくらいのもの。
注目すべきはやはりーーー。
(ふむ。右の眼球と同化した装飾品は右手の指に嵌められている指輪と連携しておるようじゃの…………)
我の記憶にある形と違うが、偽装工作を施しているとしたら呆れるほど納得がいく。なるほど。馬鹿弟子の命を狙うのは体の良い言い訳作りかや。獲物を狩り取れたら献上し、無理なら別の物を代わりにということじゃな。本当の目的は、コレを使った方か。小物の癖に大博打を打つとは大したやつよ。
「そうか……。貴様、思ったよりも相当やらかしておるな?」
「んんぅぅうあああああああっ、どきなさいよ!!どけぇえ!退けって、言ってるのよおおおお!」
聞いてはみたものの、やはり受け答えは皆無だった。
「さて」
我は別に自分の推理をこやつに聞かせて確認するほど暇じゃない。核心を突いて、知りたい部分だけ事実確認できればそれでよいのじゃ。しかし、我の知りたい事は相手が自分から差し出してこない限り確認し得ない状態の物じゃから……。
(であれば、やはりやる事は一つじゃな)
「貴様は生かされている今という時を、全身全霊を以って感謝しろよたわけ」
「黙れ、劣等種風情がっ、その口を引き裂いて喉元まで抉ってーーーふぐっ!」
「今、我が話しているのが分からぬのかや?」
我は横顔を押し潰すように掴んでいた左手をずらし、口を塞いだ。
「んんんんんんんんんんんッ!!」
「ここで生かしているのはな、なにも我の慈悲などという優しさでも情けでも憐れみでもない。貴様にはな、あってはならぬ事をしでかしているという『自覚』をしてもらうためじゃよ」
「ん、んんんんーーーーー」
そう言って我は女魔族の右眼球を握り潰すように取り出した。
「ーーーーーーーーーーーーーーっんんんん゛!!!!」
口を塞がれている女魔族の聞くに耐えない絶叫が辺り一体に響いていった。金の瞳を持つ少女は、しかし、女魔族の様子には全く興味を示さなかった。
星明かりしかない暗がりの中、輝くようなその瞳が見つめるのは、抜き取った眼球から取り出した耳飾り。そこに嵌め込まれている鉱石だった。
目を細め、次に何の躊躇いもなく、女魔族の右手の中指に嵌められている指輪を強引に毟り取る。
「よくもまぁ、ここまで小さくしたものじゃ。“あやつ”のはもっと大きかったろう?」
その質問に涙目を浮かべて絶叫を止めない女魔族は首を降るだけでしか答えなかった。いや、押さえつけられた手から逃れようとしているだけかも知れない。
しかし、我を苛立たせるにはその仕草だけで充分だった。
女魔族の胸と鳩尾を押し潰すように座していた我は立ち上がり、左手を掲げながら更に質問を続けた。
「これを持っているのじゃから、もうやらかしておるのじゃろう?我が何を言っておるのか分かるよな?」
奪い取った耳飾りと指輪を女魔族の残った左目の前にチラつかせ、そして懐へとしまう。
「小物の貴様のことじゃ。瓶にでも詰めて持っておるのじゃろう。さあ、出せ」
「んんん、んんんんん、んんんんんん」
女魔族はリエナとの身長差で上半身だけが釣り上げられた状態で体を揺さぶった。だが、何も起きない。それもそうだろう。今もまだ、リエナの“触れたものを拘束する”魔法の術中にあるのである。身動きできてもそれが限界なのだ。
そのことに今更気付いたリエナは鷲掴みにしていた顔を離した。
「忘れておったわ。ついな。こんなふうにするのは弟子以外では久しぶりゆえな。ほれ、面倒な抵抗などせず、さっさと出さぬか。己が身を考えた方が良いぞ」
「ーーーっは、はぁ、はぁっはぁはぁっはぁ」
しかし、ようやく拘束から解き放たれた女魔族は空になった右目からぼたぼたと血を流しながら肩で息をするばかりだった。
「我を苛立たせるな」
「っんがはッーーーーーー」
ほとほと詰まらなそうにリエナは台詞を吐き、女魔族に容赦なく蹴りを放った。それも、まるで刀を横一閃に振り抜いたような鋭さと速さでだ。
女魔族の左肩から側頭部を巻き込むように蹴りが直撃し、広場の結界まで一直線に吹っ飛ぶ。そして、鈍い音が鳴って結界から弾かれた女魔族は受け身を取ることなく地面に崩れ落ちた。
「手加減してるに決まっておろう。『自覚』が足りぬ貴様は簡単には殺さぬわい」
女魔族の残った左目の視界には、舞い上がった砂塵の中で揺らめく二つの金色の瞳を僅かに捉えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
女魔族ーーークシャナ・ムルブス・カイン・オルデナウトは現実を疑わずにはいられなかった。
「どうした。声すら出ずとも、持ち物くらい出せるじゃろ」
「ーーーがふっ」
冷え切った言葉が空気を鋭く伝い、強張る私の体はまるで路傍の石ころのように蹴飛ばされていく。
ーーーどうして。
ーーーなんで。
ーーーこんなはずじゃ。
体から伝わる痛覚と、はらわたが煮え繰り返るような憎悪は現実のはずなのに。
ーーーなぜ、この私が。
見聞きする世界が悪い夢にしか思えなかった。
ーーーこんなのは嘘よ。
この場を囲う見えない壁と、大袈裟なくらい砂を舞い上げる地面に体を打ち付けながら否定を繰り返す。
「…………あり…………えな……い」
「ん?なんじゃ?聞こえんぞ。あの威勢はどこへいったのじゃ。我を殺すのじゃろ?よいぞ、刃向かってこい。我の前で飲んで見せても構わん。やってみせよ。確認さえできれば、我はそれでよい」
砂塵の中でゆらゆらと揺れる金色に輝く二つの瞳がゆっくりと近づいてくる。
「その上で、初めて貴様に仕置きしてやる」
敵は、ざりっと足音を立てて目の前で立ち止まってそう宣言した。
私は右腕と脚に力を入れて立ち上がろうとする。
ーーーただの作り話だと思っていた。
だが、バランスを崩して再び倒れてしまう。そこで初めて視界が定まっていないことに気が付いた。脳震盪か、酸欠か、それとも、魔力の使い過ぎか。奴の手から離れたというのに体は思うように動かない。
まずい。立ち上がれない。
ーーーかつて魔族はたった一人の少女に大敗を期し、種の絶滅寸前まで追い込まれた。
逃げなければ。
このままではまずい。
がむしゃらに、暴れるようにして立ちあがろうとする。しかし、上手くいかない。
そんな私を蔑むように見下す敵は、舞い上がる砂塵を煩わしそうにし、片腕を横に一振りした。
ーーー其奴のことを、所詮は底辺の人種だと勘違いすることなかれ。最弱の人の子などと侮ることなかれ。己が勝るなどと驕ることなかれ。一目散に逃げろ。視界に入れるな。近寄るな。戦いを仕掛けるなど以ての外。そこに一切の勝機すら存在しない。
たったそれだけの動作で砂塵は吹き飛び、同時に雲間に隠れていた大きな星が丁度顔を出し、敵を背後から照らした。
(ぁぁぁぁぁぁあまずいまずいまずいまずいまずいまずいマズい)
ーーー今も何処かで生きている。我ら同胞を狩りながらこの世を彷徨い続けている。故に、残る同胞達に言葉を残す。其奴に気を付けよ。金の瞳と……。
狙っていたとでも言わんばかりに頭に被る外套を引き剥がした敵は、金の髪を夜風に翻し不敵な笑みを作っていた。
ーーー金の髪。そして、自らをこう名乗っていたーーー
「『シンロカンター』……!」
ーーーと。
その名を口にすると敵は「滑稽じゃな」と笑い声をあげた。
子供の声音でなんと品のない声だろう。
「今更、勘違いを認識でどうするんじゃ?貴様は底無しの阿呆じゃな。それと、その名で呼ぶな」
私はその時、一体どんな表情をして奴を見ていたか分からない。
ただただ後悔していた。
触れてはいけない箱を持ち上げるだけでなく、中をこじ開けてしまったことに。
もっと早く気づくべきだったのだと。
「……どうして、こんな」
「は?」
私はどうしてこいつを【死にたがり】だ、などと勘違いした?
ジラン様を倒した【死にたがり】がそこに居ると宣言していたからか?
その町、【死にたがり】が確実に居て、それ以外の脅威はいないと踏んでいたからか?
どうして私一人で充分だと思った?
町の結界に危険を感じ、そこまでは最善の注意を払っていたではないか。
計画の遅れのせいか?
感じ取った気配に油断した?
本当にそれだけか?
万が一を考えて保険を用意していたではないか。
私はなぜ……。
「まちが、えた……の」
「おい」
「ぁっ……!?」
不意に強い力で引っ張り上げられた。頭の角を強引に掴まれたのだ。残った左目にシンロカンターの金の瞳が合わさるように映る。
「何をさっきから言っておる。ぼそぼそと喋りおって。言いたいことがあるなら腹から声を出して言わんか」
「ーーーッ、……ッっ……っ!」
言われながら腹の底を殴り付けられる。抵抗すらできず、胃の中の物が急速に駆け上がってきて吐き出してしまう。
せめてもの仕返しにと、奴に掛かってしまえばよかったのに。
シンロカンターはそうなる前に私を地面に叩きつけていた。
「本当にどうしようもない奴じゃな。もう良いわ。貴様はそこで寝ておれ。こうなる前にさっさと出しておればよかったものを」
ゲロのことじゃないぞっ!
吐瀉物に埋もれた私は最後に視界の外からそんな言葉を聞いた。最悪の気分だった。早く私を殺してくれとそう思い始めていた。
そして、背中の羽の付け根に手の平の感触がして。
私の意識は、そこで途切れた。




