猫の神社
深く深い暗がりへ。
息は続かず、その手は何を掴んでいたのか分からない。
それでも代わりに流し続ける君を離す事は無い。
これ以上重ねる事だけは出来なかった。
意識を手放し、気泡が唯の泡となって消えたとしても。
それが罪だとしても、君の表情がそうだと語っていても。
青い光が水面を照らす。
”猫”が、鳴いていた。
毛むくじゃらの重みで、意識を取り戻す。
深く揺らめいていた水底ではなく、何時もの天井と猫の匂い。
いつも通りに清々しさを発する愛猫は、不機嫌そうに両手に抱かれる。白い体毛に、仄かに柔軟剤の香りを香らせている彼は、不機嫌にこちらを眺めている。
夢の事情を片隅に置きながら、目の前の家族に聲を掛ける。
「ぐっしゃん」
「なぁ!」
怒ったような様子の彼は後ろ脚を器用に使いこちらを蹴ろうとする。
その命令口調にも慣れてきたところだ。時計を見ると、時刻は六時を過ぎたあたり。
朝。雀の鳴き声と路線の轟音が、それを嫌でも理解させる。
「ご飯、行く?」
「なぁ」
朝食のメニューは決まっている。
そんな事を言いたげに肩を叩く。彼の好物は家族全員の会議で禁止されているが、その中でも異端はいて、俺はその中の一人だ。
「先に行っていたらよかったのでは?」
「なぁ!」
味気ない食事になる事を理解しているからこそ、その言葉には怒りをもって答える。もちろん、これはジョークとして言ったまでだが、そんな事は猫には通ず。常識外れだと言いたげに、白猫は抵抗の足を出した。
「コーンビーフはまた今度ね?」
「なぁ」
「アレ塩分高いから駄目」
「……」
鰹節を目の前で奪われたような顔をしなさる。
「今日の夜ね?」
「……ァ」
冷めたげにネコは呟いた。
それでも我儘な彼は、その前足で悪戯をするだろう。その上で今日も怒られることは目に見えている。少なくとも、今日もまた休日。猫を抱える時間は作れる。
そして抱き寄せた相棒を抱えながら、スマートフォンの画面を確認する。通知が来ている通話アプリに、たわいもない話題を送りながら、寝室から台所へと降りた。
「おはよう」
「……おはよう」
不思議そうな表情でこちらを見ている。
あり得ないモノを見るかのように。それに、現実感を感じていないかのような表情を見せる。
随分と失礼な話だ。
相木奈々は、癖が強い白髪に何時もの如く左手を添えながら、ため息交じりに事情を聞いてくる。
「どうしたの?兄貴。今日は早い」
「意味もない、三十分前行動だけどね」
「……何それ?ご飯其処にあるから勝手に食べて」
淡白な妹は、それだけを語るとお気に入りのエプロンを壁に掛ける。
リビングのソファーの方へと向かいながら、スマホを取り出し操作をした後、何時もの定位置に腰を下ろした。両親は相変わらず残業で忙しいらしく、そういった場合の家事選択は彼女が執り行う。
もちろん、俺も参加を手伝いはするけど。それ自体趣味の様になっている彼女のペースについていくのは並大抵ではない。
そしてほとんど趣味と化している料理は、彼女の趣味であり生活の一部となっている程だった。
「兄貴」
「何?」
「変なバイト辞めた?」
こちらに顔を向けることも無く、そんな事を聞く。
変なバイト。というのは、師匠の店の話だという事は直ぐに分かる。バイトをするのはそこだけだし。それに、奈々が嫌がっていることも分かっていた。
「いや、変なバイトじゃないけど?」
「変な噂しか聞かないから辞めてほしい」
そう断言される。
しかし、はいそうですかという言葉はすぐに出せない。
「……兄貴が変人なのはわかるけどさ。やめて、そういうの」
「……学校で噂になる程の変人なのかよ。俺は」
普通の性格だとは自負しているが。
周りからの評価は品人としてあるみたいだ。
「妹の心配も聞けなくなった?」
「……」
「また、病院に担ぎ込まれるのは嫌でしょ?」
「……確かに、病院は嫌いだけどさ」
「それとさ」
ああ。そういえば。
昨日深く考えていた書類はリビングに出しっぱなしにしていたのを。
それはあの神社に関連する資料であり、歴史をつづった文献が数枚置かれていた。中には借りた本も混ざっている。眠気には勝てず、昨日愛猫と共にそのまま部屋に戻ってしまった。……ああ、怒られるのはしょうがないが。……そんな雰囲気にも見えない。
「これ。何?」
何。と言うとするなら。
「勉強の成果。……かな?」
「宗教にでも目覚めたの?」
「いや、普通にあれ。今度お参りに行こうと思いまして。安全祈願とか厄除けとか。そんなお守りあるらしいからな」
「……まあ、いいから早く食べて。洗い物、終わらせたいから」
「洗い物ぐらいは自分でやるよ?」
「兄貴、食器片す場所分からないでしょ?」
「さすがに分かるわ」
「……料理人の聖域を汚すなって事だけど理解している?後、毛むくじゃら近づけるな。カーペットに毛が付く」
「……お前の主人は辛口だな。ぐっしゃん」
図書館で調べた資料を受け取り、朝食が並べられたテーブルへ腰を落ち着かせる。
所定の席に座ったぐっしゃんは、並べられた味気ない食事に口を付け、複雑そうな顔をしながら朝食をいただく。スマホに夢中な妹を一瞥しながら、渡された資料に目を通した。
名護神社
猫を賜る神社として有名なこの神社では、地域信仰が形となった経歴を持つ。山脈と広々とした田園が印象的なこの地域では、近くにある湖水の反乱により水害が多発しており、その為の対策として古くから贄を捧げていた。それは作物であり、人の代わりとしての雛人形だ。
そして、その儀式が確立したのは、今から五百年ほど前。
比べものにならない洪水量から湖を守り、多数の人を救った猫たちに対しての感謝の印に。彼等はその神社を立てた。そして今でもそれは行事として有り、作物と人形が奉納されている。
生贄とは、主に荒神に用いる手段が多い。
だが、それらは簡略化され。少なくとも生贄としての文化は無くなった。
師匠が言うには、かの神はそういった類の神様ではない。猫は人を食さない。それが原因であるのなら、師匠はあのような言い方をする事は無い。
原因。……原因か。
ふっくらとした白米を口に運びながら、その原因とやらを考える。
信仰の対象としてのそれとは違い、本物としての生き神は、其れに近い機能を持つ。
そして、かの猫の権限は生命に根幹するようだ。いや、伝説的には天候というワードもあるのかもしれないか。分かる事は、その猫が健康としての意味合いで苦しんでいること自体が不思議な事だ。
神社の行事は彼女が知っている。
生き神を保つための儀式は確かに行っているはずだ。……だが、それは今の時期は消極的な今現在。何せ、信仰心の欠片も無い今頃に執り行っても意味がないのだから。だからこそ祭事はあり、人を呼び、その熱気で彼らは保たれる。
貯蔵が十分でない可能性はない。それが不足ではない。……という事は、それ以外の何か。
確かあの神社には、……もう一つ。
もう一つの資料を手に取る。
そこには、かの神社で有名な”紅石の道”と呼ばれる観光スポットが詳細に書かれていた。