二日目・夜
怒涛の語りもいくらか落ち着いてきた頃。
よくもまあ話題が尽きないものだと半ば意識を飛ばしながら聞いていたアイリスだが、メリアリルが抱いている感情に恋慕はないのだろうかとふと疑問に思った。これだけ慕っているなら、少しくらいはあってもおかしくはないと思うのだが。
「あの、ラドクリフ様を尊敬しているのはとってもよくわかったんですけど、その、恋人になりたいとか、もっと一緒に過ごしたいとか……そういう気持ちはないんですか?」
このままメリアリルに語らせていたら夕飯の時刻ですら過ぎてしまう。それと話の内容が抽象的なものからだんだん具体的になってきて、これは自分が知っても良いことなのだろうかと不安になってきたからでもある。
ぱちくりと目を瞬かせてアイリスを見るメリアリル。げんなりした様子のアイリスを見て、はしゃぎすぎたと少し冷静になった。咳ばらいをひとつして、質問に答えようと口を開く。
「私は、アーサー様に対しては恋愛感情のようなものは持っておりません。そうですね……あるとしても敬愛に近い感情でしょう」
先程までとは違い、わりと真剣に話を聞いて相槌を打つアイリス。ちょっとした興味から聞いたことだったが、気になりはするらしい。
「敬愛、ですか」
「ええ。同じ貴族の立場として人間的に尊敬し、憧れているというだけです。公的に仲良くしろと命じられれば近づきますが、言われてはおりませんので。個人的な好意によって、迷惑にならない程度に留めているわけです」
ファンクラブの会長を務めるだけはあって、彼女は節制がしっかり出来ている。時には身内を取り締まる立場にもなるため、自らを律するのは大切なことである。侯爵令嬢として培ってきた精神力が生かされている。生かすところが間違っている気がしないでもないが。
そして恋人云々に関しては、とメリアリル。
「婚約している方がいらっしゃいますので」
「あっ、そうか」
我が国の公爵令息であるアーサーは、友好国である隣国の王家の令嬢と婚約を結んでいる。
立場があるということは、それに責任が伴うということ。その身の振り方は、広い範囲に多大なる影響を与える。婚姻ともなれば特に時間をかけて吟味する必要があり、結ばれたものは簡単には覆せない。
あと二年で成人を迎える彼になら、既に熟考された婚約者がいるのは当然である。
アイリスがそれに思い至ったのに気付いてメリアリルは頷く。
「貴族って、大変、ですね……」
「何を他人事のように。貴女も貴族ですわよ」
潰れた唸り声を上げるアイリスをじとりと睨みつけ、この際積もりに積もった文句を言ってやろうとメリアリルは居住まいを正す。
「前から思っていたことですけれど」
この言葉にアイリスはじりじりと逃げ腰になった。しかし逃げようにも逃げる場所がないと気付き渋々座り直す。お説教は回避できたと思いきやできていなかった。
「貴女は貴族であるという自覚が薄いですわ。まあ、生まれついてではありませんから仕方のないところもありますが、心構えがなっておりません」
「うえええ……」
「みっともない声を出さない。もう15歳なのですから、子どもっぽいところは直したほうがよろしくてよ」
あくまでメリアリルにとっては善意である。反りが合わないと嫌ってはいるものの、無関心というわけではない。貴族としてのプライドも理由ではあるが、アイリスはできると思うからこその文句である。
「突然貴族に投げ込まれたその境遇には同情します。ですが、保護者が貴女のことを令嬢として家に入れている限り、貴女は貴族であらねばならないわけです。……それにしても、家からの支援が足りていないように思えますが……」
成人になっていない子女は保護者の管理下にあり、保護者に従う義務がある。しかし逆に言えば、管理下にある以上責任は保護者にあり、庇護されている立場にあるとも言える。アイリスはエイミールの家名を与えられているため、貴族の一員として見なされる。
与えられる分の働きはしなくてはならないというのがメリアリルの持論であり、貴族の在りかたに慣れないアイリスとは価値観が合わない。
メリアリルは貴族として生きる責任を持てと言い、アイリスは貴族として生きることを拒否したがっている。二人の不仲はこれが原因だ。
「……だって、どうせわたしは仕方なく引き取られた、何かあった時のための保険ですもん」
静かに言うアイリスに、メリアリルは暫し沈黙した。
上に兄や姉がいる場合、下が卑屈になることは珍しくない。上に何かあった時にその役目を引き継げるよう、スペアとして育てられていることが少なくないためだ。
しかしアイリスのこれは、おそらく家の者に言われ続けてきたのだろう。アイリス自身が、そうであると強く思っているようだ。
貴族である以上、家の存続は重要事項である。基本的に血縁が重視され、王国の法律では、男女関係なく家は長子が継ぐことになっている。
メリアリルも姉の立場であり、下に弟が一人いるのだが、今のところはメリアリルが家を継ぐ予定だ。
対するアイリスは、元々子爵家には男子が一人おり、アイリスの兄になった。しかし病弱で、正直に言えば何があってもおかしくはない。伯父が彼女を引き取った目的が、いざという時の保険であることは明白だ。
そして、アイリスは子爵家で歓迎されなかった。冷たい態度を取る大人に懐く子どもはいないだろう。実際子どもであったアイリスも、家の人間や使用人には懐かなかった。
そんな中で最低限の礼節を身に着けるためにと厳しく指導され、アイリスは自信を無くしていった。それが、11歳の時のこと。
母が亡くなって、利用されることにはなるが最低限が保証される子爵家に引き取られた今のほうが良かったのか、いたかもわからない他の誰かに引き取られたほうが良かったのかは、アイリスにはわからない。
一つ言えるのは、子どもであったアイリスが一人で生きていくことは出来なかったということだ。
それともう一つ、アイリスにとってどうしても受け入れられない貴族の慣習がある。
「……貴族って、親とかが決めた人と結婚しなきゃいけないじゃないですか」
「政略結婚ですか? まあ、よくあることですわね」
特に長子であれば珍しくもない。恋愛結婚もないわけではないが、どうしても家同士の利益が優先になる。アイリスは完全に立場が弱いため、保護者に設定される可能性が非常に高い。
メリアリルが口ごもるアイリスを促すと、意を決した彼女から思いもよらない言葉が飛び出てきた。
「わたし、好きな人がいるんです!」
勢いよく言い切ったアイリスに、メリアリルは目を丸くする。
「わたしが庶民として暮らしてた頃からの付き合いなんです。しょ、将来の約束もしたんですよ……!」
顔を真っ赤にして打ち明けるアイリス。おそらく誰にも、それこそ亡くなった母くらいにしか話していなかったのだろう。秘密を打ち明ける緊張と、ようやく言えたという安堵が混ざったような表情をしている。
「あらあら、まあまあ……」
メリアリルは口角が上がるのを抑えきれなかった。声も弾んでいる。貴族の令嬢とはいえ、人の色恋沙汰というものは面白いのだ。
「詳しく教えていただける?」
いつの時代でも、女性は恋バナが好きだと言う。メリアリルも例外ではなく、アイリスに馴れ初めから最近の事情までを話させた。根掘り葉掘り聞かれたアイリスは羞恥のあまり頭から煙を出している。
曰く、相手は幼い頃から付き合いのある、会計士の息子だという。歳は一つ上の16歳。
将来の約束こそ子どもの頃の話とはいえ、現在でも手紙のやり取りをしているらしい。また、半年に一度は会いに行っているとも。
関係性は変わっていないとアイリスは言うが、頻繁に会えなくなっている以上相手の感情がどうなっているかはわからない。そしてもう一つ懸念事項が。
「市井の人間ということは庶民でしょう? 子爵令嬢である今の貴女とは立場が違いましてよ。相手も尻込みするのではなくて?」
「うっ……そう、それなんですよね……」
肩を竦めて縮こまるアイリスは、指に髪を巻き付けながら不安を零す。
「伯父さんにはわたしがその人に会いに行ってるのを知られてますし……会うなって言われてるんです」
貴族の令嬢が一人で男性に会うとなれば、恋人関係にあると認識されるのが一般的である。体の関係を持っているとでも認識されてしまえば、その後の婚姻が不利になることも十分に考えられる。
伯父がその関係を断ち切れと言うのは家の醜聞を避けるためであるだろうが、アイリスにとってもあまり良いことではない。
周りなど知ったことかと駆け落ちでもすれば話は別だが。
「お勧めはしませんわ」
「うん……生きていけなくなる……」
疎まれているとしても、後ろ盾を失うのはあまりに痛い。しかし円満に解決できるとも思えない。
貴族になって4年、アイリスが自分の立場を理解するのには十分だった。
一人で生きていくにはお金も伝手もなく、かといって彼と二人で逃げるとすれば多くを敵に回すことになる。物語のように愛や恋さえあれば幸せになれると思えるほど、彼女は夢見る少女ではいられない。