二日目・放課後
放課後。
気力を使い果たしたアイリスはふらふらとメリアリルとの合流場所へ向かっていた。
やはりと言うべきか、メリアリルが受けている授業は難度が高かった。到底アイリスが付いていける内容ではなかったのだが、昨日頭を強く打ったためと誤魔化させてもらった。
また、さらりと投げられたファンクラブ欠席の連絡も無事に終わらせた。すごく残念そうにされて顔が引き攣りかけたが、ここでしくじったら後でひどいことになりそうだと全精神を以て対応した。
「お待たせしました」
「…………どうにかなったようですわね」
先に合流場所であるベンチに座っていたメリアリルに声を掛けると、しばらく表情を観察された後ほっと息をつかれた。どうにかなったかは正直疑わしいところだが、アイリスもここで漸く一息つけた。
メリアリル・バーチェスとして行動している以上、普段程度の気の使い方では足りない。髪を指で巻き付ける癖が出ないようにするのにも必死だった。もう疲労困憊だ。
対するメリアリルは、アイリス・エイミールとして行動するのを特に苦には感じていないようだった。アイリスが貴族然としていて損をすることはないからである。
連れ立って歩く二人は相変わらず遠巻きにされている。
今朝あたりからメリアリルとアイリスが和解したという噂が流れているのをちらほら聞くようになったのだが、当人たちとしては不服を申し立てたいところである。好きで一緒にいるわけではない。
「今夜も私の部屋に泊まりますわよ」
「そうですね。はあ……ずっとこのままは嫌です」
「同感です。やはりもう一度ぶつけるしかないのでは」
嫌そうな顔をするアイリスを周りから見えないようにたしなめ、二人して溜息を吐く。
この状態が続けば、近いうちに取り返しのつかない支障が出るかもしれない。ストレスは溜まる一方であるし、打開策が見つからなければ、メリアリルは額の強打を強行することも辞さない考えだ。
ふと顔を上げたメリアリルが、道の先に誰かを見つけて顔を綻ばせた。頬は上気し、瞳は潤み、まるで恋する乙女のような表情をしている。この状態には見覚えがある。そう、メリアリルが憧れの彼について語るときと同じ表情だ。
そんな表情の劇的な変化を真横で、しかも自分の体でやられたアイリスが受けた精神的ダメージは大きかった。何も言葉が出てこない程度のショックである。
アイリスのダメージをちっとも気にすることなく、はっと現状を思い出したメリアリルはアイリスに脅しを掛ける。入れ替わってから一番の必死さだ。
「よろしいですか、今は貴女がメリアリル・バーチェスなのです。アーサー様を前にして失態など決して許されませんわよ。……決して!!」
彼女にとっては授業で失態を晒すことよりも重大であるらしい。強すぎる目力で穴が開きそうだ。
必死なのはわかる。わかるが、その必死さでこちらが気圧されすぎているということをメリアリルは理解しているだろうか。多分していない。アイリスの手首を痛いくらいに掴んで凄んでいて周りも見えていない。
現に、立ち止まっているアイリスたちに向かって、件の人物が段々近づいてきているのだが、メリアリルは気付いていない様子だ。
…………近づいてきている?
「こんにちは、バーチェス嬢。お隣はご友人かな?」
「「!!!」」
悲鳴を上げかけて飛び上がりかけた。メリアリルは本当にちょっと飛び跳ねていたかもしれない。
明らかな動揺を見せる二人に対して、にこやかに笑いかけるのはもちろん、アーサー・ガイル・ラドクリフ公爵令息だ。
柔らかそうなごく薄い茶色の髪に、鮮やかな緑色の瞳。アイリスは近くで見るのは初めてだが、なるほどこれは容姿端麗と言われるはずだと数秒見惚れた。顔のパーツが収まるべきところに収まり、今は微笑んでいるが、笑うのをやめれば近寄りがたいほどの美貌になるだろう。
また、友人なのか護衛なのか、彼と同い年くらいの男子生徒が近い位置に控えている。彼女たちとの会話を止める素振りはないので、今日は時間に余裕があるのだろう。
数秒呆けていたアイリスだが、アーサーが話しかけているのは自分、つまりメリアリルのほうだ。失敗したりなどしたら後がとても怖い。
冷や汗が見つからないようにと願いながら、アイリスは精一杯メリアリルがするような優雅な礼を見せた。若干指が震えているのは仕方がない。
「ごきげんよう、アーサー様。こちらはアイリス・エイミール様、ええと……さ、最近友人になりましたの」
「ごきげんよう、初めまして」
「うん、初めまして」
メリアリルにとってはとんだ悲劇だろう。隣に自分の姿をした別人がいて、自分はその別人として接しなくてはならないとは。
しかしここで下手なことをするわけにもいかない。憧れの人には、みっともないところなど見せたくない、もとい、それをさせたくない。失態を演じたら一生の傷であるかのように、メリアリルは強い視線でアイリスを見据えている。
その視線にアイリスは逃げ出したくなった。しかしそれを見抜かれたのかメリアリルがアーサーに見えない位置でぎゅっと手の甲を抓ってきたため、笑顔を引き攣らせて会話を続けるしかなくなった。
「そういえば、人とぶつかって医務室に運ばれたと聞いたけれど。大丈夫かい?」
この発言にはアイリスもメリアリルも内心悲鳴を上げた。触れて欲しくなかった話題だ。大丈夫ではあるけど大丈夫ではない。
「え、ええ! 痛みは引きましたし、跡も残らないだろうと言われました」
これは事実だ。前髪で隠れている額にはまだ痣が残っているが、そのうち完治するだろう。
不自然にうろたえるアイリスにも、アーサーは微笑みを絶やさない。その裏で何を考えているのかは読み取れないが、二人、特にメリアリルは戦々恐々としていた。公爵令息の仮面は伊達ではない。
「そう。お大事にね」
「ありがとうございます」
会話が途切れたと見て、ぼろを出される前に離脱したいメリアリルはアイリスの腕を取り、軽く引っ張って声を掛けた。
「メリアリル様! この後、予定がありますでしょう? 時間になってしまいますよ」
「……っ!?」
アイリスは噎せそうになるのを必死に堪えた。いやちょっと堪えられていなかったかもしれない。
何故だかいきなり名前で呼びだしたメリアリルに、アイリスの頭は真っ白になる。
今まではどちらも相手をファーストネームで呼ぶことはなかった。全く仲の良くない相手をそちらで呼ぶ必要はないので当然ではあるが。
アイリスは混乱していて理解できていなかったが、メリアリルはアーサーに対して二人は仲が良いというアピールをしたかったのだ。わざわざ嫌いな人がいますと宣言しても良い印象は持たれないだろう。何故嫌いな相手と一緒にいるのかと聞かれても説明に苦心するから、というのもある。
素直な性格ゆえ裏を読む、ということが苦手なアイリスだが、今は凄みのある笑顔を向けてくるメリアリルに逆らうべきではないと悟った。
「そっ、そうですね。その、やることがありますので、失礼いたします……」
「……おや、そうだったの? 引き留めてすまないね。では、また」
「は、はい」
特に深入りすることなく離れてくれるアーサーに、アイリスは返事をしつつ礼、メリアリルは無言のまま礼をする。
少し離れてからちらりとメリアリルのほうを見ると、達観したかのような表情で黙り込んでいる。穏やかな表情が逆に怖い。アイリスが話しかけようにもなんとなくできず、二人は部屋に着くまでずっと無言だった。
遠ざかっていく二人を見て、アーサーは微笑みの形にあった口角を吊り上げた。
「なんか、面白いことになっているみたいだね?」
傍に控えていた男子生徒は、また悪い癖が出たと溜息を吐いた。
ずうん、と音がしそうなほど部屋の空気は重い。その発生源は言わずもがなメリアリルだ。
あれからひたすら無言で歩き、部屋の扉が閉まった瞬間に纏う空気が重くなった。誰がどう見ても落ち込んでいる。それもどん底に。俯いているので顔は見えない。
様子を伺うメイドたちに、アイリスは自分がどうにかするからとメリアリルをソファーに座らせてこっそり溜息を吐く。
「…………あのー……」
アイリスが恐る恐る声を掛けるも、メリアリルはぐったりと俯いてソファーに座り込んだまま動かない。明かりはちゃんと点いているのに、なんとなく周りが暗い気もしてきた。
困った。メリアリルが落ち込んでいる原因はわからないでもないが、ここまで落ち込まれるとは思わなかった。熱狂的なのが悪いことだとは言わないが、燃え尽きて真っ白になるデメリットがここにあった。
それほど致命的な失敗をやらかした覚えはアイリスにはないが、メリアリルにとっては駄目だったのだろうか。
何と声を掛けていいかわからずにうろうろと視線を彷徨わせるアイリスの姿も、メリアリルの目には入らない。
「……………………」
これは重症だ。何も言われないのは怒られるよりずっと怖い。
子爵家に入ってから立ち居振る舞いで叱られることが多かったアイリスは、こういった雰囲気に弱い。叱られるかもしれないと思うと、萎縮してしまうのだ。
「あの……わたし、上手くできなくてすみません」
頭を下げるアイリスに、メリアリルは漸く顔を上げる。ただし目は虚ろだ。
「いいえ……違いますのよ、その……」
「……?」
言葉にされなかったのでアイリスは今まで勘違いをしていたが、メリアリルの内心は彼女を責めるものではなかった。
問題は彼女自身のプライドである。アーサーの前から逃げるように立ち去ってしまったことが、彼女のファンとしてのプライドを傷つけたのであった。つまり直接的にはアイリスの振る舞いは特に問題なかった。あの場ではそうするのが一番だったと理解していても、メリアリルは浮上できない。
途切れ途切れに内心を話すメリアリルに、アイリスは密かに胸を撫で下ろした。怒られなくて済むならそれに越したことはない。
しかし言葉を聞いているうちに、アイリスは何とも言えない表情を浮かべることになった。
もしかしたらメリアリルが落ち込んでいるのは、自分のせいではないのでは? と。
メリアリルがアーサーに憧れているのはアイリスには関係ない。
メリアリルはアイリスの言動は特に悪くないと言った。
よって今メリアリルが落ち込んでいるのも、アイリスのせいではない。
「うん、とりあえずそれでいいや」
アイリスは無理矢理思考をポジティブに切り替えた。切り替えが早いのは彼女の長所である。若しくは、都合の悪いことは見なかったことにしただけとも言う。
「もう起こってしまったことはどうしようもないですし、次に挽回すればいいじゃないですか。そんなに気を悪くされたようには見えませんでしたし……」
開き直ったアイリスは、メリアリルのぽっきり折れたプライドを立て直すため言葉を重ねる。
「それにほら、元々好意的な関係を築けていらっしゃるでしょう? 聞いたところだと一度の失敗で切り捨てるようなお方じゃなさそうですし、元に戻ったらいつも通りに接すれば良いと思います。悪意はないんですし、許してくださるんじゃないかと」
「…………」
「まあ、入れ替わった原因はわたしが走ってたからなんですけどね……」
「……そうですわね」
うっかりこれ以上余計なことを口にしてお説教になるのはごめんだと、アイリスは話題を逸らすことにした。
「えーっと、あの、そうだ、さっきのラドクリフ様ですけど、気を使っていただいたんですよね? あんまり深く聞かれませんでしたし」
「まあ……そうでしょうね」
「良い方ですね」
アイリスがそう言った瞬間、メリアリルの瞳に光が戻った。むしろ戻りすぎてギラギラしている。
それを見たアイリスが短い悲鳴を上げて後ずさると、逃がさないと言わんばかりに強く腕を掴まれソファーに座らされた。
一日ぶりの、メリアリルの怒涛の語りが始まる。
満足いくまで語り倒してすっかり調子が戻ったメリアリル。対するアイリスはメリアリルに気力を吸い取られたかのように萎れている。
メリアリルの語りを聞いてアイリスが持った感想は、アーサーのことになるとメリアリルはものすごく面倒になるということだけだった。