二日目・午前
翌朝。
「…………おはよう、ございます……」
「……おはようございます。……まあ、戻っていませんね」
寝て起きたら元通りなんて奇跡は起こらなかった。当然と言えば当然である。
朝一番から大きな溜息を吐いた二人は、もそもそと朝の準備を始めた。じきに朝食の時間になる。
今日は、午前中は二人とも同じ授業を受ける。
学院の授業には、共通科目と専門科目がある。共通科目は、入学した年度ごとに一クラスとし、いくつかの基礎的な授業をする科目である。座学のみならず、ダンスなどの実習も含まれる。
専門科目は、文字通り専門的な勉学をする科目で、学年に関係なく一年間で履修するものだ。ちなみにメリアリルが履修している専門科目は、アーサーが取っている授業とほぼ被っている。学院のなかでもトップクラスの授業なのだが、メリアリルは成績優秀なので全く問題ない。……今回のような事態にならなければ。
朝食を食べ終え、制服に着替える。髪を整えるのは着替えの後でメイドにやってもらうが、メリアリルは癖の強いアイリスの髪に苦々しい顔をしている。制服は昨日着たまま着替えを持ってメリアリルの部屋に来たため、メイドに預けて整えてもらっていた。
「貴女の制服、所々擦れていますのね」
袖を通す前にアイリスの制服を眺めるメリアリル。彼女が普段着用する制服に比べ、アイリスの制服は草臥れている。それに少々、小さいようにも見える。
さらには、綺麗に縫われていて気づきにくいが、ほつれを直した跡があるのも見つけられた。メリアリルは知らないが、この修復跡はアイリスがしたことだ。母から教わったもので、頻繁に服を買い替えない庶民にとって、裁縫は出来なくてはならない技術なのである。実はその延長で、アイリスの裁縫の腕はかなりのものになっている。
引き取られてからは不要であったはずだが、寮に入ってからはメイドが気を回してくれないので使う機会も少なからずある。
「それはそうですよ。バーチェス様みたいに何着も持ってませんし」
今年で三年目ですから、来年は新しいのを買ってもらえるはずですと言うアイリス。
学院には十三歳で入学する。制服や教科書など一式で貰えはするが、予備などは各々で用意することになっている。消耗品の買い替え頻度はその家の経済事情によって変わり、メリアリルの家なら割と値の張る制服を毎年買い替えるほどの余裕がある。
一方アイリスの場合は、子爵家で元々想定していない出費であることもあり、彼女に掛けるお金は必要最低限である。アイリスも年相応に背は伸びているのだが、作るときに少し大きめにしたため少々窮屈程度で済んでいる。
「…………」
「バーチェス様?」
制服を凝視して黙り込んだメリアリルにどうかしたのかと目を向けるアイリス。
結局、草臥れた制服を着るのが我慢ならなかったメリアリルが、自分の持っている予備の制服を貸すという形でアイリスも綺麗な制服を着ることになった。幸いにも二人の身長はメリアリルのほうが僅かに高いがほぼ同じであるので、着心地に違和感がなくて済む。
経済格差を感じて複雑なアイリスだった。
「ああぁ……なんとか、ギリギリ、半日乗り切れた……」
午前の授業が終わり、二人は食堂に来ていた。ぐったりとしたアイリスは他に人がいないのをいいことに机に突っ伏している。
学院の食堂には、テーブルが配置された開放部分と、少人数で使用するための個室が存在する。
二人が今いるのは個室のほうで、話し合いをするときや、静かに食べたいときなどに使用される。予約者が優先だが、空きがあれば予約していなくても使用できる。使用する際には申告が必要で、方法を知らなかったアイリスがメリアリルに手本を見せてもらうことになった。外から見たらメリアリルがアイリスに個室を取らせたように見えただろう。ちなみにメリアリルはアイリスのフルネームを間違えず綺麗に書いたが、アイリスはメリアリルの家名の綴りを間違えずに書ける自信がない。
「乗り切れたのは良いことですけれど。……何でしょうか、このノートの取り方は」
ペラペラと脇に置いたアイリスのノートを捲るメリアリル。持ち物は本人の私物を使うことにしているため、メリアリルが今日使ったのはアイリスのノートだった。そうすれば当然、今までアイリスがどのようにノートを取ってきたか見ることになる。
「……書く形式が一定ではない、書くことに集中して聞き逃しが多い、それに何より」
すうっと目を細めてアイリスを見据えるメリアリル。
「字が綺麗ではありません。これでは読み返す時も苦労するでしょう?」
自分でも思っていたことを指摘されて、アイリスは苦い顔をしながら髪を巻き付ける。メリアリルに睨まれてすぐに手を膝にやった。
授業でメリアリルとアイリスは隣同士に座っていた。ぼろを出さないようにするためだが、正直誤魔化せた気がしない。幸いにも何か発言するようなことはなかったが、奇妙に映ったことだろう。
ノートの取り方で指摘したように、アイリスは授業を受けるための下地ができていない状態だということがよくわかった。これでは成績も悪いだろうとメリアリルは納得する。
「うぐ、わかって、ますけど……」
「貴女、根本的にやり方が下手なのですわ」
メリアリルの歯に布着せぬ言い方に、アイリスは悔しげな表情をした後、何かを思いついたようで静かに切り出した。
「……バーチェス様、昨日おっしゃってましたよね。アーサー様は自分だけでなく、周りも引き上げようとなさるって」
「それが何か?」
ぐっと手を握りしめてメリアリルを見るアイリス。彼女から飛び出してきた言葉は、メリアリルが予想もしなかったものだった。
「なら、上位の貴族であり成績優秀なバーチェス様が、元庶民で成績の悪いわたしに、勉強を教えてもらえませんか? 憧れのお方がしていることですし、悪いことではありませんよね?」
数秒沈黙。引き攣った笑顔を見せるアイリスの発言に、メリアリルはすごく動揺した。
「は……」
「わたしの勉強の仕方が悪いのは知っての通りです。昨日勉強を教えてもらってわかりました。バーチェス様、教えるのお上手ですよ。お時間は取ってしまうことになりますけど、バーチェス様の評価も上がると思いますし」
「え……う……」
もちろん、メリアリルがばっさりと断れば終わる話だ。しかし今の彼女は動揺していた。だからついうっかり、答えてしまったのだ。
「……ええ、ええ! いいですとも。そ、そうですわね、アーサー様がなさっていることですもの。……相手が貴女ということが少々不服ですが、まあ……力を貸してもよろしくてよ」
プライドと尊敬している人を引き合いに出されたメリアリルはちょろかった。
言質を取ったアイリスは、安堵と喜びを滲ませてお礼を言う。
「ただし」
「……えっ?」
「やるからにはしっかりとやりますわよ。当然でしょう? この私が特別に教えて差し上げるのですから。中途半端は許しません」
自分に利のある話に誘導したはずだったが、早まったのではないかと思うアイリスだった。
「さて、午後ですけれど」
「授業、別ですよね……」
話は変わって、この後のこと。専門授業となる午後は、二人一緒にはいられない。となると心配なのは、本来メリアリルが受ける授業を受けることになるアイリスである。
「休む、って選択肢は……ないですねすみません!」
上目遣いに様子を伺いながらの言葉は、メリアリルの絶対零度の視線で即座に撤回された。共通科目ですらボロボロだったアイリスからすれば、より高度になる専門科目は出来るだけ避けたいものである。
だが、メリアリルが許さない。彼女が言うには、授業の欠席は本棟の体調不良か外せない用事があるときのみらしい。今現在がある意味での体調不良ではないかという考えはアイリスの心の中に留めておいた。
「……あっ」
「ま、まだ何かありました?」
じっとりとした目を向けていたメリアリルが、突然声を上げた。不安になるアイリスは、聞くのが嫌だと言わんばかりに耳元に手をやっている。
「その……アーサー様のファンクラブがあると言いましたでしょう?」
「聞きましたね」
「そのファンクラブには、私も所属しておりますの」
「……まあ、あの様子ならそうでしょうね」
あれだけの熱狂ぶりで所属していないほうがおかしい。
この時点でアイリスは、メリアリルが何を言い淀んでいるのかわからなかった。わからなかったが、嫌な予感だけはしていた。
メリアリルはひとつ咳ばらいをすると、何故か少し頬を赤らめて続けた。
「私は、ファンクラブの会長でして。その……毎日のように集まりに顔を出しているのですわ……」
アイリスは絶句した。ついでに少し白目を剥きかけてもいた。気合で耐えた。
メリアリルがファンクラブの会長なのはいい。それだけであれば何も問題は無い。が、集まりがあるとなれば話は別だ。アイリスにあの熱狂さを再現できる気は全く無い。これっぽっちも無い。
「ちょっ、嘘でしょ!? 無理です無理! 授業より無理!!」
「まあ……でしょうね……」
髪が乱れるのも構わずぶんぶんと振りかぶるアイリス。メリアリルも頷いている。
ついでに言えば普段のメリアリルは午後、ファンクラブのメンバーと一緒にいることが多く、放課後はそのまま集まりに参加することがほとんどである。そう考えると、メリアリルと多くの時間を過ごしてきた彼女若しくは彼らは、メリアリルのことをとてもよく知っているということでもある。
「ですから、本日は用事があるので集まりを欠席することにいたしましょう」
「それ以外無いですよ……」
こちらに関しては欠席を容認されてアイリスはほっとしている。まさか授業よりも難度の高いものがあるとは思わなかった。
「それにしても毎日のようにって……そんなに話すことがあるんですか……?」
一応の不安が解消されて、興味が顔を出したらしい。半分ほどは呆れのようだが。
「あら、ファンクラブと名は付いておりますけど、ずっとアーサー様について話しているわけではありませんわ。せっかく学科や学年の違う方たちが集まっているのですもの。情報交換であったり、勉強を教え合ったりすることもあります。有意義な時間なのですよ」
得意げに話すメリアリル。実際、彼女の運営しているファンクラブは本人の許可を得ているし、規律もしっかりしている。トラブルを起こさないようきちんと監督するのが会長であるメリアリルの役割だ。
女性と男性では集まる情報も違うし、学年が違えば交友関係も様々で、違う授業の教師などとの繋がりもできることがある。サロンとは違った形で伝手ができる場所でもあるのだ。ただし入会条件はそれなりに厳しいものであるらしい。
思っていたよりもまともな組織だったと感心するアイリスを横目に、メリアリルは荷物を片付け始める。そろそろ次の授業の教室に移動を始める時間だ。
お互いの教室を教え合い、席を立つ二人。澄ました顔のメリアリルに対し、緊張で強張っているアイリス。それに追い打ちを掛けるような、何が何でも遅刻だけは許さないというメリアリルの言葉にアイリスは頷くしかなかった。
そして個室の扉に手を掛けて振り向いたメリアリルは、挨拶をするような気軽さでアイリスに重要任務を押し付けていった。
「ファンクラブの欠席連絡、任せましたわ。授業が終わればお誘いが来るでしょうから、その時に告げて頂戴。では、また放課後」
一人残されたアイリスは絶句した。