初日・夜
二人は、誰にも引き留められることなく寮へ帰ってくることができた。というよりは、メリアリルとアイリスがどんよりとした雰囲気を出しながら並んで歩いているのを見た全員が遠巻きにしたのである。学院内でこの二人の不仲はずいぶん広まっているらしい。面倒ごとには関わりたくないのが人心である。
寮に着いた二人が最初にしたのは、連れ立ってアイリスの部屋に行くこと。
反りが合わないと言って不仲な彼女たちだが、プライベートをわざわざ調べてまで相手に突っかかったりはしない。具体的に言うなら二人とも相手の部屋の場所すら知らない状態だ。普段の生活がどんなものかなど知っているはずもなく、このままでは生活に支障が出る。
話し合った結果、お互いがフォローし合えるよう、言い方を変えればお互いが変な言動をしないかの監視のために、なるべく一緒にいるということで決定した。
中身アイリスの外見メリアリルが普通に部屋に戻れば、間違いなくメイドに不審に思われる。逆も然り。
故に今日は、メリアリルがアイリスに勉強を教えるという名目で、メリアリルの部屋に泊まり込みをすることにしたのである。
ということでまずは、メイドへ外泊することの報告と、アイリスの泊まりの荷物を取るために彼女の部屋の前までやってきたのだが。
「貴女くらいの家格だとこういったところになりますのね……」
歩き疲れたと言わんばかりの顔をしたメリアリルは、通ってきた廊下を振り返ってそう口にした。
「まあ……バーチェス様のお家と比べられるような家でもありませんし」
「……たとえそれが事実だとしても、自分の家を貶める発言はよろしくありませんわよ。どこで誰が聞いているかわかりません」
寮内でのアイリスの部屋は三階の奥にある。エイミール家は子爵位として可もなく不可もなくといった財政状況であり、他の家を押しのけてまで良い部屋を取る利点はない。とはいえ場所が少々遠いというだけで、貴族の子女が生活する場所として一定以上の快適さは備わっている。その点については、アイリスは文句はないし言える立場にもない。
一方バーチェス家は侯爵位。威厳を示すためにも先陣を切ってお金のかかることをするべきという貴族の暗黙の了解がある。そして寮の中で一番お金のかかる部屋はどこかといえば、二階から繋がる別棟である。安全性もより強化されており、高位の貴族は別棟に部屋を構えるのが通例だ。
棟が分けられているだけあって、その設備は本棟のそれを数段上回る。学院に入学する子女の中では、別棟に部屋を構える生徒と仲良くなって、部屋に招待してもらうのが憧れとされている。図らずもアイリスは、自分の体と別人としての振る舞いのストレス、そして額の痛みを犠牲にしてその憧れを叶えることとなった。
「さて……。言われた通りにしますけれど、本当にそれで大丈夫ですのね?」
「はい。わたし付きのメイドは一人で、わたしという個人には何の興味も持っていないようなので大丈夫です。気付かれません」
訝しげにアイリスを見やるメリアリルに、表情を硬くして頷くアイリス。関心を持たれていないとのことだが、メリアリルはいまいち納得がいかない様子だ。
気を取り直して見た目はこの部屋の主のメリアリルが部屋の鍵を開けドアを開ける。中にはメイドが一人立っていた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りました」
無愛想なメイドに挨拶を返し、今日はメリアリルの部屋に泊まることを説明する。そしてそのために必要な物を準備してほしいと告げる。特に意識していなければ流暢なお嬢様言葉になるメリアリルは、できるだけ普段アイリスが話しているような口調を心掛けた。メイドは少し黙り込んだ後、特に疑うことなく準備を始めたようだった。なんとか乗り切れたらしい。
アイリスは部屋の外で待っていると言ったため隣にはいない。見慣れない部屋の内装に視線をあちこち動かしてしまうメリアリルだが、メイドが戻ってくるとスッと表情を引き締めた。
変わらず無関心そうな表情のメイドは持ってきた荷物をアイリスに手渡すと、低い声で彼女を呼び止める。
「お嬢様」
「な、何か?」
「くれぐれも、バーチェス様方に迷惑をお掛けしないよう。エイミール家の評判を落とさないようになさってください」
不審に思われたかと密かに冷や汗を流していたメリアリルは、投げられた言葉に一瞬思考が固まった。しかし持ち前の頭の回転の速さで立ち直ると、わかっていますとだけ言い残して足早に部屋を出た。
扉をやや乱暴に閉めると、廊下で待っていたアイリスが心配そうなのとほっとしたのとを混ぜたような顔を見せた。無事に荷物を持ち出せたことは良いのだが、対するメリアリルの内心は全く穏やかではなかった。
「…………何なんですの、あの態度……!」
「あー……えーっと、とりあえず離れましょう。ね?」
鞄の持ち手を握りしめて怒りをむき出しにするメリアリルをどうにか落ち着かせて、今度は彼女の部屋へ向かわせる。
アイリスには予想できていたことだった。あのメイドはエイミール家に仕えているのであって、アイリスという個人についているわけではない。言ってしまえば家からの監視役である。貴族の血を継いでいるとはいえ元庶民の彼女が、エイミール家に不都合や失態を犯させないための存在だ。アイリスは彼女のことは名前しか知らない。それ以外の情報など教えてもらえない。
アイリスの父は現子爵の弟で、母は子爵家で働いていた元メイドであった。いわゆるお手付きで、正式な婚姻でもない母が子爵家を追い出されるのは当然のことだった。その後市井で暮らし始めやがてアイリスを産んだ母であったが、アイリスが十一歳の時に病で亡くなった。
簡素な葬儀の後しばらくして、アイリスは父方の伯父だと名乗る男に引き取られた。一応とはいえ血縁関係がある子どもを野放しにはできなかったらしい。実の父親も既に亡くなっており、アイリスは味方と言える人がいない状況で、子爵家で生活することになる。使用人の態度も冷たいものだった。
上がぞんざいな扱いをしていれば、下が同じ扱いをするのも不思議ではない。彼女はエイミール家ではいなくなっては困るが、家に迷惑を掛けることは許されない、といった立場である。いつしか、アイリスは子爵家の人たちに期待をしなくなった。
そんな事情をかいつまんで小声で話しながら廊下を進む。メリアリルはそれらを聞いても納得できないのか、不機嫌そうな顔を隠さない。仮にも仕えているお嬢様が怪我をしたというのに心配の言葉の一つもない。私の家なら解雇だと文句を言うメリアリルに、アイリスは曖昧な頷きを返す。
怪我や病気などで医務室に行った場合、そこから本人の使用人に連絡が行く。アイリスのメイドにも情報は届いているはずだが、様子を聞く言葉の一つもなかった。
期待をしなければ失望せずに済む、それが今のアイリスの気の持ち方だ。
別棟の警備を抜けた先、その廊下の装飾の豪華さにアイリスは目移りしてしまう。流石高位貴族のために設えられた場所だと感心する。メリアリルはそわそわするアイリスの服を引っ張って外面を取り繕わせた。誰からも見られない場所に行くまで、彼女にはメリアリル・バーチェスでいてもらわねばならない。
「よろしいですか? 貴女が完璧に私を演じられるとは思いません。不審に思われたら頭を打ったせいだとでも言っておくことです」
これは、事前にアイリスが言われていた言葉である。
どうにでもなれという思いでアイリスが部屋に入れば、心配を前面に押し出したメイドたちに出迎えられ自分のメイドとの違いに目を回しかける。怒涛の勢いで世話を焼かれそうになり、緊張と不安でいっぱいだったのが逆に冷静になった。結果としてはこのアドバイスが役に立つことはなかった。
「お嬢様、何か欲しい物やして欲しいことなどはありませんか?」
「ハーブティーです。お嬢様、ちょっとしたことでもお申し付け下さいね」
「だ、大丈夫……大丈夫です……!」
メイドたちの猛攻をなんとか凌ぎ、居間から続くメリアリルの個室兼寝室のソファーに腰を落ち着けた二人。アイリスも快く迎えられ、とりあえずの不安はなくなったと言える。
「……な、なんとか……今夜の寝るところの心配はなくなりましたね……」
「そう、ですわね……。はあ、自分の部屋のはずなのに全く落ち着けません……」
中身が入れ替わってまだ半日も経っていないというのにひどく疲れている。別人として振る舞うことは大きなストレスになるのだと、否が応でも体感してしまった二人の目は虚ろだ。
入れ替わってしまったことを全て話すという選択肢もあったのだが、言動が大きく違うので信じてはもらえるかもしれないにしても、メリアリルは家に報告されて大事になるだろうと予想できたし、アイリスは家に報告がいくのを阻止したかったため内密にしておくことを決めたのだった。怪我をしたこと自体は報告されるだろうが、完治したなら問題はない。
入れ替わりが発覚してしまえば叱られるだろうが、その時はその時だと腹を括っている。問題を先延ばしにしただけとも言える。
こうなってしまったことで一時休戦とした二人は、しばらくぐったりとソファーに埋もれるのであった。
学生寮は男女別の三階建てで、一階の一部が繋がっている。その一階に、男女共用の食堂がある。
食事の時間は決まっており、二人はなるべく人の少ない時間帯を狙って夕食を食べに行ってきたのだが。
「……食べた気がしない」
「私も、あんなに注目されて食事をするのは久しぶりですわ……」
連れ立って姿を見せた二人は注目の的だった。そしてやはり遠巻きにされた。給仕までもが近寄ることを躊躇った。
メリアリルは鋼の精神で周囲を意識しないようにしつつアイリスのテーブルマナーを監視し、アイリスは睨まれつつ夕食を食べきることに専念した。テーブルマナーはどうにか及第点だったらしい。
夕食から帰ってくると、普段メリアリルは明日の学業の準備をする。
アイリスに物の位置を教えながらメリアリルが思いついたのは、アイリスに勉強を教えることだった。口実を事実にしてしまおうというのである。アイリスのほうを振り向いた彼女は、とても良い笑顔をしていた。
「アイリス・エイミール。この私が勉強を教えて差し上げますから、もう少しマシにおなりなさい」
「…………え、な、ひええっ」
後ずさって悲鳴を上げられた。メリアリルは問答無用でアイリスを椅子に座らせた。
勉強をするからとメイドたちを部屋に入れないようにし、アイリスはしばらく勉強を教わっていた。意外と言うべきか、メリアリルは教えるのが上手かった。
メリアリルはこの調子で明日の授業は大丈夫かと考えて、あることを思い出してさっと顔を青ざめさせた。
教師に見られるのはまだ良い。しかしこの学院には、メリアリルが尊敬してやまない男子生徒がいる。
「……アーサー様に、この状態の私を、見られる……?」
必死で勉強に齧り付いていたアイリスは、突然目を見開いてペンを落としたメリアリルに恐る恐る声を掛ける。
「ど、どうしたんですか……?」
「こ……こんなことって……! この状態になって最大の問題ですわ……!!」
人生で一番ショックを受けたかのように嘆くメリアリル。アイリスはついていけない。しかし零れた名前は、アイリスでも聞いたことのある人物だった。
「アーサー様って……公爵家のですか?」
ガタンと音を立てて立ち上がったメリアリルは、無言で大きく頷き、それから怒涛の勢いで語りだした。
「ええそうです公爵家のアーサー・ガイル・ラドクリフ様です。学院でも有名な方ですから貴女もご存知でしょうね。成績優秀、容姿端麗、それに運動もお得意。国内だけでなく外国に関する知識も豊富で外交に力を貸すこともおありだとか。交友関係も広く多方面に理解がありますわ。まさに貴族の模範と言うべき存在! 優秀な方なのは以前から知られていましたし憧れている者も多くいます」
メリアリルの口は止まらない。今はメリアリルのものである薄茶色の瞳を夢見るように潤ませ、胸の前で手を組んでうっとりしながら語っている。アイリスは呆気に取られている。
「この学院に入学されてからもその存在に憧れる者は増える一方。一年遅れて入学した私もその一人です。家の関係で以前お会いしたことはありましたが学院でのご活躍は輝きを増すばかり。そして人を見る慧眼! その才を見抜き置くべきところに置く。アーサー様が見出した方々が専門の分野でご活躍されていることは有名ですね。それでいて自身の研鑽も怠らず。自己のみならず周りをも引き上げようとする……本当に尊敬いたします」
いきなりマシンガントークをかまされたアイリスは、ぽかんと口を開けたまま硬直している。勢いが凄まじかったのもあるが、何よりメリアリルの熱狂っぷりに驚愕していた。そして引いてもいた。
特に隠してもいないことだが、メリアリルはアーサー・ガイル・ラドクリフ公爵令息の熱烈なファンである。当然、メリアリルはファンクラブに所属している。しかもかなり重要な地位で。
アイリスはファンクラブが存在することは知っていたものの、興味がなかったのとそんな暇が無かったのとで詳細は知らなかった。
メリアリルの語りはまだまだ続く。
「これほどまでに有能なお方ですから、そのお力を利用しようとする者がいるのも事実。まあ高位の貴族であらせられますので、悪意のある者を見分ける訓練はされておられるのでしょうけれど。しかしアーサー様は人の本質を見抜くことに天才的な能力をお持ちなのです。ですから二心があれば気付かれますし、不自然な様子であれば疑いを、抱か、れ…………」
それまで立て板に水を流すように語っていたメリアリルの口が止まった。
速すぎて内容の半分も覚えていないが、アイリスにも直前の内容は思い出せた。確か不自然な言動をしていれば気付かれるとか何とか……。
「あっ」
「ああ……」
アイリスが気付いて声を上げると同時、メリアリルが絶望したように呻いて机に突っ伏した。
現在の二人の状況は、はたから見れば不自然そのものである。侯爵令嬢であるメリアリルの言動がいきなりぎこちなくなれば、周りは疑念を持つだろう。
また、アイリスは公爵令息などと関わりはないし自分から近づきもしないが、メリアリルは違う。憧れの人と話せる機会があれば、邪魔をしない程度に積極的に関わりに行く。つまりアーサーは普段のメリアリルの様子を知っているということだ。
「これでは、お話どころか……挨拶すらままなりませんわ……」
メリアリルにとって一番の憂いはそれらしい。普段の彼女なら、こんな風に歯切れ悪く喋らない。本気で落ち込んでいるようだ。
嘆く彼女をどう扱っていいかわからずアイリスがおろおろしていると、ドアがノックされメイドから風呂の準備が整ったがどうするかと声が掛けられた。
「あ、あのほら、とりあえずお風呂に入りましょう、ね?」
「……ううぅ……」
落ち込み切ったメリアリルを風呂に促すことになんとか成功したアイリスは、一息ついて先ほどのメリアリルの熱狂ぶりを思い出して遠い目になる。
「…………驚いたは驚いたけど、あれはさすがに引く」
風呂のほうを見て、ぼそりと零すアイリスだった。
メリアリルと交代でアイリスも風呂に入り、支度も整えてそれでは寝ましょうという段になって、はたりとアイリスが気付いたのは自分はどこで寝るべきなのかということである。
困った表情になったアイリスがベッドに腰掛けるメリアリルを見ると、むすりとした顔のメリアリルが口を開いた。なんとかプライドは取り戻したらしい。
「……今の貴女の体は私のものです。貴女をソファーにでも寝かせて、私がベッドで寝ているのをメイドに見られたら大問題になりますわよ」
幸いというか当然と言うべきか、メリアリルのベッドは少女が二人寝ても全く問題ない広さがある。アイリスの部屋の物よりも数段上等な物だ。自分が天蓋の付いたベッドに寝ることがあるとは、とアイリスは呆れるやら感心するやらである。
「それに、部屋に泊まることを了承したのは私です。それくらいの寛容はありますわ」
ふい、と顔を他所に向けて言い捨てたメリアリル。
アイリスはそんな彼女を見て、この人は決して悪い人ではないのだと気付いて目を瞬かせる。……プライドは高いけれども。そしてやっぱり反りは合わないけれども。
ベッドに潜り込み、その丁度良い弾力に密かに感動するアイリス。メリアリルは既に目を閉じている。
収まりの良い場所に体を落ち着けたアイリスは、まだ眠りに付いていないだろうメリアリルにそっと声を掛けた。
「……朝起きたら、戻ってるといいですね」
「……そうですわね」
こうして、彼女たちの波乱の初日は終わった。夜は更けていく。