第1話 小笠原丸
定期船小笠原丸は九月十四日の朝十時に東京竹芝桟橋を出発し、父島に向かって大海原を快調に突き進んでいた。
九月中旬とはいえ、まだ夏休み真っ只中の大学生や、交代で夏休みを取って遊びに来た会社員などで、船中は大いに賑わっている。
小笠原丸が竹芝桟橋を出発してから、丸一日が経過した九月十五日の十時。
すでに朝食を済ませた一部の乗客は、船のデッキで優雅なひと時を満喫している様子。
雲一つない済んだ青空......
モヤの掛かった都会で見る事はない。
地球が丸い証である海と空の境の放物線......
ビルが立ち並ぶ都会では、絶対に見ることが出来ない。
都会に閉じ込められていた人達にとっては、船上で観るもの、肌で感じるもの全てが新鮮であり、また癒しであった。
大海原を写真撮影している人。
カモメに餌をあげている人。
ただひたすら日光浴をしている人。
人それぞれ楽しみ方があるようだ。
そんな中......
「うっ、うっ、気持ち悪い......吐きそう......もうダメ」
一人デッキの片隅でうずくまる年若き女性。
白のタンクトップにデニムの短パン姿。誰がどう見ても観光客。周囲に完全に溶け込んでいた。それはエマだ。
「おじょうちゃん。酔い止め飲まなきゃダメだよ。用意してこなかったのかい?」
気の良さそうな老人が、エマの辛そうな様子に見かねたようだ。
老人はきっちりとした身なり。高貴な雰囲気が漂っている。引退して余生を旅行で楽しんでいるのであろうか。左の手首には、ダイヤが埋め込まれたロレックスが光り輝いていた。
「昨日から酔い止め何度も飲んでるけど、全然効かないんです。ウェッ」
そう答えたエマの顔色は、妙に青白い。
「そういう体質なのかのう。可哀そうに。父島までもうちょっとだから頑張れ。おう......言ってるそばから父島が見えてきたぞ。ほら見てみい」
エマはふらつきながらも何とか立ち上がり、視線を南の海に向ける。
大海原の遥か遠方に浮かぶ小さな黒い塊。よく見ればそれは確かに島だった。
「あれが父島じゃ。島が見えたと言ってもこの船は時速四十二キロだからのう。着くにはまだ少し掛かるぞ。レストランで何か食べて、この酔い止めを飲むといい。この薬は効くぞ」
フレンドリーな老人は、内ポケットから薬を二粒取り出し、エマに手渡した。
「有難う。でも食べ物喉通らないや」
エマは頭をペコリ。
作り笑顔が痛々しい。
「何も食べないで薬飲んだら、気持ち悪くなるに決まっとるじゃろ。無理してでも何か食べて薬飲んどきな。すぐ楽になるから」
老人はまるで、自分の孫にでも言い聞かせるような口振りだ。きっと同じ年頃の孫でもいるのだろう。
島に到着したら、すぐにまた別の船に乗らなければならない。ここはこの老人の言葉に従おう......
「分かりました。レストラン行って何か食べて薬飲んできます」
「おう、それがいいぞ。そうだそうだ、わしはこういう者じゃ」
気のいい老人は内ポケットから名刺を取り出し、エマに手渡した。
「君島造船株式会社 会長 君島寛一」
名刺にはそう書かれている。
「おじいちゃんもしかしてすごい人? 君島造船ってテレビのコマーシャルでよくやってるあの君島造船?」
「良く知ってるな。それじゃそれじゃ。もう隠居だがな。そんな事より、こんなわしにも可愛い孫娘がおってのう。お嬢ちゃんと同じ年頃じゃよ。お嬢ちゃんは元気そうでいいのう」
老人は羨望の眼差しでエマを見詰めていた。
「おじいちゃんのお孫さん。体良くないんですか?」
「ちょっと心臓を患っててな。色々大変じゃよ」
老人は目を落しながら呟く。
「そうなんだ......大変なんですね」
何か余計な事言っちゃったかな?......
「おお、すまんすまん。何だかつまらん事話しちまったな。まあ人生色々あるよ。お嬢ちゃんも何か困るような事があったら、この老骨を頼るといいぞ。
まあ、あんたは悩みなんかなさそうだけどな。ハッ、ハッ、ハッ」
何だかすごい失礼な事を言われている気がするのだが気のせいか?
悪気があるようにも見えないから、まあいいか......
「おじいちゃん有難う。早速薬飲むからね。レストラン行ってくる。それじゃあ」
エマは笑顔で老人に手を振りながら、レストランへと向かって行った。
何て清々しい娘なんだろう......
老人は暖かい眼差しで、エマの後ろ姿を見送った。
すると後方から、ゴロゴロゴロ......
何やらタイヤの転がるような音が近づいて来る。
「おじいちゃん」
老人はすぐ様、声のする後方に振り向く。
そして緩み切った頬の肉を引き締めて言った。
「おお幸か。いい天気だな。体調はどうだね?」
「誰と話してたの? おじいちゃんとっても楽しそうよ」
見れば車椅子に乗った一人の年若き女性。
にこやかな表情で老人に話し掛ける。
「今なあ、とっても健康そうなお姉さんと話をしてたんじゃよ。幸と同じ年頃じゃないかな。幸もあんな風に元気になってほしいと思ってな」
老人は遠くを見つめながら、なぜか寂しそうな表情を浮かべている。
「大丈夫。私絶対に元気になるから。だってその為に来たんだよ」
幸は手首に刺さる点滴の管を見詰めながら、努めて無理矢理の笑顔。
「そうじゃった。そうじゃった。年を取るとどうも気弱になっていかん。幸は元気になるんじゃったな」
「そうだよ。私まだ死にたくないもん」
「幸......」
「おじいちゃん......」
デッキで交わす二人の会話......
これから南国を観光するにしては少し内容が重い。
少なくともこの二人。
観光に来た訳では無さそうだ。
何やら深い事情があるのであろう。
無言のまま二人が見つめる父島は、見る見るうちに大きくなっていく。
そしてもう目と鼻の先に迫っていた。