第1話 激走
エマは重いナップザックを足元に投げ捨て、息絶え絶えの玲奈を静かに負ぶった。
軽い......率直な感想だ。
肌が触れ、改めてその贅肉の無さに驚かされる。
恐らくまともな食事を与えられていなかったのだろう。育ちざかりの少女には酷な話だ。
玲奈はエマの背中から落ちないよう、モミジの様な小さな手でしっかりとエマの肩を掴んだ。
腕時計のストップウォッチを二十分に設定する。
血清の効果が望めるのは、咬まれてから三十分以内。しかしそれは成人の話だ。
まだ五才という年齢を考えると、リミットは二十分程度と考えるのが妥当であろう。
よしっ、行くぞ!
エマは東の方角に体を向けると、一気に走り始めた。
引き締まった足の筋肉が躍動する。
命のカウントダウンのスタートだ。
エマが向かう東方の空は、いつしか明るみを帯びていた。
それはエマにとって、人生最も長かった夜の終焉を告げていた。
もうそんな時間か......
撃たれた左肩の痛みはいつしか感じなくなっていた。というよりはむしろ麻痺していると言った方が正しいかもしれない。
足は棒、目はかすみ、心臓は破裂寸前。
このまま走り続けたら、体はバラバラになってしまうのでは? そんな不安さえ抱く程の消耗ぶりだった。
にも拘らず、カモシカの如く走り続けるエマの原動力は、玲奈を救いたいという使命感のみ。
火事場の馬鹿力とは、正にこういう事を言うのであろう。
ストップウォッチの示す数字は18、17、16分......容赦無く絶望の数字『0』へと近づいて行く。
「玲奈ちゃん大丈夫?」
「......」返事が無い。
エマの声が聞こえていないのか?
それとも、まさか!
「玲奈ちゃん!」
エマは戦慄の表情を浮かべながら叫んだ。
「お......お姉ちゃん」
かすかな声ではあったが確かな反応。まだ意識はあるようだ。
良かった......エマは胸を撫で下ろす。
朝方の西の森、それは夜とまた違った顔を持っていた。
小鳥はさえずり、リスが木の実を求めて枝の上を行き来する。
危険な夜行性の動物も、この時間になると鳴りを潜める事を自然と理解しているようだ。
そんな森の中を走り抜けるエマだけは殺気に満ちていた。
上り坂だろうが、足場が悪かろうが、エマの突進は止まらない。
そして南側に崖を望みながら走り続ける事十分。
狩人公園に到着した頃にはすっかり朝日が顔を出し、それは新たな一日の始まりを告げていた。
疲れ切った体で瀕死の少女を負ぶって走るような状況で無ければ、実にすがすがしい朝である事この上も無い。
首を九十度右に回し、横目で玲奈の様子を伺う。
玲奈の鼻からは一筋の血が流れ、小さな唇を朱に染めていた。
まずい! 体内出血が始まっている。思っていた以上に症状の進行が早いみたいだ。
一分一秒でも早く血清を打たねば!
「玲奈ちゃんもうちょっとだから頑張って! お願い......」
「......」
エマのそんな声掛けに対し、もはや玲奈からの返事は無い。
ゼエぜエという苦しそうな吐息だけが耳元で聞こえる。




