第8話 一騎討ち
厳七が右手に持ったサバイバルナイフを振り下ろす正にその瞬間だった。
エマは即座に体を脇にそらし、右手で厳七の左肩を軽くポンと押した。その時全体重を右足に掛けていた厳七の巨体は、一瞬にしてバランスを失ってしまう。
しまった!
大きく前に移動した重心に対し、二本の太い足は遥かに後ろ。もはや体勢の建て直しようが無い。厳七のクマの様な巨体は無重力状態となり、エマの遥か後ろで見事にひっくり返った。その拍子でサバイバルナイフは厳七の右手から離れ、エマの足元にボトッ、見事転がりを見せる。それは正に『小よく大を制す』......合気道の神髄とも言って良い。
しまった!
厳七は打ち付けた腰をさすりながら、恐る恐る顔を上げてみる。その視線の先には、何とサバイバルナイフを持ったエマが目の前で仁王立ちしているではないか。その顔は殺気立ち、いつ右手が振り下ろされてもおかしくは無い。
「まっ、参った。俺が悪かった。勘弁してくれ。改心するから」
厳七はすでに戦意を喪失していた。顔が青白い。先程までの自信はどこに行ったのだろうか?
エマは表情一つ変えず実に冷淡な口調で言い放つ。
「神の命により、お前を処刑する。あの世に行って改心しろ」
エマがこういう口調で言うのも珍しい。
その時だ。
「キャー!」
突如後方から少女の叫び声が! エマは咄嗟に後ろを振り返る。
「玲奈ちゃん!」
なんと玲奈は木から落ちていた。木の下でぐったりしているのがここからでも分かる。
今がチャンス! この隙を見逃す厳七でも無い。即座に立ち上がり、エマに背中を見せたかと思えば、全力で逃げ始めた。
「あっ! くそぉ......」
一度は追い詰めた厳七が、見る見るうちに遠ざかって行く......
今回死ぬ思いまでして、極神島にやってきた本来の理由。それは斉田雄二を殺害した犯人を見付け、この世から消し去る事。その意味では、厳七を今追い掛けて、抹殺してしまえばこれで任務完了となる。
しかしエマは、逃げ行く厳七とは全く逆の方角に向かって走っていた。
玲奈ちゃん!
玲奈は高木の下で仰向けに倒れていた。顔は青白く額には大粒の汗が噴き出している。そして左足首には二つの赤い斑点。その周りは紫色に変色していた。
大牙に咬まれた跡!
「玲奈ちゃんしっかりして! 私が分かる?」
エマは壊れ物を扱うかのように、玲奈の身体を静かに抱き起こした。
玲奈はうっすらと目を開ける。目の前にはエマの顔が......玲奈は微かな笑顔を浮かべ、蚊の鳴くような声で言った。
「あ......お姉ちゃん。戻って来てくれたんだね......木の上に赤目の大牙が上がって来たの。足で蹴り落としたんだけど......その時咬まれちゃった」
しゃべることすらも辛そうな様子だ。
「玲奈ちゃん一人にしちゃってごめんね。私が離れなければこんな事に......大丈夫! 絶対に助けるから」
「うん」
玲奈を抱きしめるエマの腕あに、玲奈の脈の振動が伝わってきた。明らかに脈拍が速い。これは大牙に咬まれた時の典型的な症状だ。
咬まれてから三十分以内に血清を打たなければ命は無い。すぐに血清を打たねば!
血清は料亭潮風のエマの部屋に置いてあるスーツケースの中だ。猶予は三十分。走れば何とか間に合う!
「玲奈ちゃん。血清を打てば助かるから。これからお姉ちゃんの住んでる所に行くよ。お姉ちゃんも頑張るから玲奈ちゃんも頑張って」
エマは努めて明るく言った。
「うん......」
玲奈の息は荒い。苦しそうだ。




