第1話 密室
二人はそのまま扉の奥へと進んで行った。中は驚くほどに静寂している。それは正に音の無い世界だったと言えよう。
人の気配は皆無、しかし食べ物を調理した匂いとかすかなタバコの匂いが、嗅覚を刺激する。
地下であること、土足で上がっている事を考えると、ここが日本である以上まず住居では無さそうだ。
また室温は外と比べて明らかに低い。ついさっきまで、冷房が掛かっていたに違いない。
つまりそれはここに誰かが居た事を示している。誰も居ない部屋に冷房を掛ける人間はいない。
美緒は、ついさっきまで営業していた飲食店の中と看破していた。
店内を七メート位進んだであろうか。
再び扉を開ける音がする。
続いて扉の中へと進んだ。
そこで圭一は立ち止った。
この後、自分はどうなるのだろう......
言い知れぬ不安が美緒を襲う。
美緒は押し寄せてくる恐怖と必死に戦っていた。
「もう目隠し外してもいいぞ。美緒さん」
耳元で聞こえる圭一のしゃがれた低い声。
美緒は手の震えを必死に抑えながら、ゆっくりと目隠しを外した。
三十分以上続いた暗黒の世界......
目隠しを外した瞬間、現世に戻ってきたような錯覚に囚われる。
暗黒に慣れきってしまった美緒の目。突然開かれた現世の光にはついていけない。
「眩しい」
美緒は開きかけた瞼を即座に閉じた。
「徐々に慣れて来る。ゆっくり開けるといい」
恐る恐る薄目を開けると、目の前に立つ一人の女性が浮かび上がってきた。
誰?
その女性はとても若く、とても愛くるしい笑顔で自分を見詰めている。
「ようこそEMA探偵事務所へ。お疲れになったでしょう。お掛け下さい」
若い女性は、笑顔を崩す事なく、奥のソファーに座ることを勧める。
美緒は言われるがまま、ソファーに腰を下すと、顔を上げ、ゆっくりと四方を見渡した。
この事務所の出入り口は、今自分が入ってきた扉が一つだけ。
その手前には圭一という屈強な男が仁王立ちしている。自分をここから逃がさないよう、とうせんぼでもしているのか?
それはちょっと考えすぎ?
いや分かったものでは無い。
次にすぐ自分の後ろに立つ背の高い男。
流し目で見た限り、外人のように見える。
外国の傭兵か?
それともマフィア?
少し軟弱そうには見えるが、後ろから抑え込まれたら手も足も出なさそうだ。
そして最後に、自分の目の前に座る年若き女性。
何だか可愛らしい顔をしているが、こういう容姿の人間に限ってSっ気が強いと聞いたことがある。
まさか眠らされてバラバラにされるとか?
想像が想像を呼び、それがいつの間に、現実のように思えてくる。
何だかここに居る三人が、悪魔のように見えてくるのは気のせいか?
そんな緊張感が彼女を包み込む中、それを中和するかのような可愛らしい三体の人形が、美緒の目に飛び込んできた。
いずれも三つ編みをした女の子の人形で、民族衣装を纏っている。それぞれが特徴のある顔をした実に可愛らしい人形だ。
殺風景な事務所の中、野に咲く一輪の花のような存在と言える。
それはすぐ手前の棚の上に並べて置かれていた。
「この人形とても可愛いでしょう。知り合いが南米旅行に行った時、お土産に買ってきてくれたんですよ。日本語に訳すと『導きの三姉妹』という名の人形らしいです。
人生に迷った時、この人形達に話し掛けると、人形達が表情で答えてくれるそうですよ。
人形ですから実際表情が変わるという事は無いと思いますが、悩んでいる時、この人形達に話し掛けると、不思議と答えが湧き出てくるんです。
この人形達の笑顔が人に力を与えてくれるのは事実かも知れません。私も何度となく助けられました。
もしよかったらこの人形達に話し掛けてみて下さい」
エマは優しく美緒に話した。
「結構です。私は自分の事は自分で決めますので」
美緒は厳しい表情を崩すことなく、極めて冷淡に答えた。
まだあなた達に心を許した訳では無い。そんな意思表示なのであろう。
「分かりました。もしこの人形達を欲しくなったら、いつでも言って下さいね」
エマは表情一つ変えずに、なおも優しく語った。
美緒はエマとそんな会話をしながらも、視線は周囲に向けられている。
そして美緒の目がある一点に釘付けとなった。それは壁の中心付近のスモークガラスだった。
横幅1メートル。
高さ60センチ。
誰が見てもそれが何かは明白だった。
マジックミラー!
あのガラスの向こうで誰かが見ている!
それに気付いた途端、美緒の警戒心はマックスに達した。目つきが否応なく鋭くなる。
そんな美緒の警戒心を知ってか知らずか?
エマは淡々と話を続けた。
「始めまして。私は『EMA探偵事務所』の代表 柊恵摩と申します」
エマは恭しく名刺を差し出す。
美緒はまるでゴミでも掴むかのように、片手で素っ気なく名刺を受け取った。
そして今一度、エマの顔をまじまじと見詰めなおす。見れば見る程に若い。AKBの中にいても全く違和感は感じないであろう。
本当にこの人が探偵事務所の代表?
誰もがそう思う違いない。
「この人頼りないのでは? そうお思いになったでしょう。それはごく自然な発想です。
ここにこうして来られた方は、皆さんそうお思いになられるようです。
そんな事よりも、何度も襲ってくる葛藤に打ち勝ち、ここまで来られたあなたの勇気と意志の強さに私は敬意を表します」
美緒は内心ドキッとすると共に、自分の心がこの人達にはスケルトンになっている事を悟った。
エマは構わず続ける。
「うちの者からすでに話は聞いてらっしゃるかと思いますが、我々の職業は探偵です。ただ普通の探偵とは少し違います。
普通の探偵は、依頼者の抱えている問題を解決する代価として、それに見合ったお金を請求しますが、我々は代価として、依頼者の命を頂きます。
その代わりと言っては何ですが、普通の探偵では到底引き受けられないような事まで行う実行力と知識を有しております。
ご依頼に対しての遂行率は過去のデータ上、百パーセントです」
「命を頂くとは、どういう事ですか?」
「その言葉通りです」
「私を殺すという事ですか?」
「我々はお客様である依頼者に対し『殺す』という言葉は用いません。桜田美緒さんがこの世からいなくなるという事です」
「私を殺してあなた達に何の得があるのですか?」
「それはご想像にお任せ致します」
「......」
美緒はこれ以上聞く事を諦めた。
「あなたのフィアンセ斉田雄二さんは、状況からして明らかに他殺と思われます。
警察が自殺と判断したのは、何らかの力が働いたものと見ています。
あなたは斉田雄二さんを心から愛されていたのですね。それはよく解ります」
美緒は斉田雄二を愛していたという言葉を聞いて、一時的に忘れていた思いが再び蘇ってきた。
雄二さん......
それは唯一自分が心を許せた人。
もう一度会いたい.......
でも、もう会えない......
悔しい......
美緒の目からは、大粒の涙が垂れ落ちてきた。
一度悲しいというモードに入ると、中々元には戻れない。美緒は人目もはばからず、肩を震わせて泣いた。
雄二と過ごした楽しい思い出、些細なことで喧嘩をしたことすら、今となってはかけがえの無い思い出となっていた。
「最終的にどうするかはあなたの自由です。気が進まなければ、止めればいいだけの話です。
この場所を伏せてお越し頂いたのも、あなたにその選択肢を残すためです。我々は決して押し売りはしません。ご安心下さい」
美緒は感情が高ぶると、すぐに情緒不安定になる。
そして一度不安定になると、中々元には戻らない。
「これをお飲み下サイ。落ち着きマスヨ」
ポールはホットミルクの入ったカップを、美緒に優しく差し出す。
美緒は涙にくれた顔を上げ、ポールを見詰めた。
ポールはニコッと笑っている。
美緒は差し出されたカップを握り、ほんの一口だけホットミルクをすすった。 とても甘く、そして優しい味だった。
美緒は更に二口、三口と続けてミルクをすする。
熱くもなく、温くもない。暖かだった。
何でこの人達は私に対して、こんなに優しいんだろう?
第一印象とのギャップが大きいだけに、一際彼女らの優しさが引き立つ。
この優しさは、何らかの意図があって演技しているとは到底思えない。
優しくすれば、私に生への未練が芽生え、決心は鈍る事が十分に考えられる。
それはこの人達にとって、メリットがあるとは思えない。
ただ、少なくとも今自分は、この人達と接することにより、一時的ではあるが、雄二と死に別れた苦しみが和らいでいる。
この人達を信じず、ここで引き返せば、この人達と二度と接する事は無く、必ずまた不安定な気持ちになり、遅かれ早かれこの世を去る事になるであろう。
この人達を信じて、依頼をすれば、自分の願いを叶えてくれた後、やはりこの世を去る事になるのであろう。
結局死ぬのなら、居心地のいい気持で死にたい......
また嘘か本当かは分からないが、雄二さんの仇も討ってほしい。
それが美緒の出した答えだった。美緒は深呼吸し、はっきりとした口調で言った。
「あなた達に依頼します。斉田雄二を殺害した犯人をこの世から消し去って下さい。
その後、私の命をあなた達に差し上げます。今後気持ちが変わる事はありません。宜しくお願いします」
「分かりました。今この場を持って、契約成立とさせて頂きます」
「契約書とかは無いんですか?」
「ありません。問題解決後、契約書を用いる機会はありませんので」
つまり、契約者が居なくなる訳なので、契約書を用いる機会が無いという事なのであろう。
「では業務遂行にあたり、いくつかご質問させて頂きます。質問に対し偽りなく、正確にお答え下さい」
「分かりました」
「あなたが命と引き換えに、我々にしてほしい事は何ですか?」
「斉田雄二を殺した人を見付け、この世から消し去って下さい」
「斉田雄二さんとはどうい人ですか? そしてあなたとはどういう関係ですか?」
「斉田雄二 二十八歳。フリーカメラマンをしていました。私とは将来を誓い合った恋人です」
「斉田雄二さんは、極神島いう南の島で自殺したとされていますが、他殺であるという根拠は?」
「極神島に向かう前夜、この極神島での仕事が終わったら、結婚しようと言われました。勿論私は承諾しました。自殺など絶対に有り得ません」
美緒の目には再び涙が溢れ出てきた。




