第4話 足音
男の顔の表情は、刻印を打たれる前と何ら変わらなかった。ただ目の焦点は全く合っていない。
そして口からは大量のよだれが。目は開けているが全く意識は無い様子。何か薬を打たれている事はもう間違い無い。
やがて......
真っ赤に熱せられた刻印は背中から離された。男の背中には、十センチ四方の円に囲まれた『神』という文字が浮かび上がっている。かなり太い文字だ。皮膚は完全に焼き爛れ、未だ湯気が立ち上がっている。
「今この瞬間、神の僕が誕生した。この者に祝福有れ! そして極神教に栄光あれ!」
「極神教に栄光あれ! 極神教に栄光あれ!」
皆が両手を大きく広げ天に向かって声を上げる。トランス状態とは正にこのような状態を言うのであろう。実に異様な光景だ。
壇上の男は刻印を打たれた男の事を『神の僕に成りし者』と告げていた。
仲間の為に犠牲となり、命を落していった者は神の僕となりあの世で幸せに暮らす......
これは金吉から聞いた極神島の言い伝えに他ならない。それを信じるならば、刻印を打たれた男はこの後死ぬという解釈が成り立つ。
いや、死ぬというよりは殺されると言った方が表現として正しいのであろう。決して許されるべき事ではなかった。
やがて男は引きずられるようにして場外に連れ出されて行く。
あの男はこの後どこに連れて行かれるのであろう......
そしてどのような仕打ちを受けるのであろう......
凡その見当はつく。何としても止めなければならなかった。
その後も太鼓のリズムは鳴り止まない。おのおのが両手を天にかざし、言葉にならない言葉を叫び続ける。
空気のうねりがまるで肉眼で見えるような錯覚に囚われた。正に妖気に満ちた空間だ。
皆顔はマスクに覆われ見えはしないが、物凄い形相で叫んでいる事位は想像がつく。
「この人達は狂っている!」
悍ましい光景をまの当たりにし、エマは全身に鳥肌が立っているのが分かった。
五つの太鼓から発っせられる大爆音。そして魂の叫び声。
それらはエマの聴覚を完全に支配していた。その他の音は全てが打ち消され、耳には届かない。
ところが後方からもう一つの音が......
ザッザッザッ......ザッザッザッ
ザッザッザッ......ザッザッザッ
不気味な音が近づいてくる。
未だエマの耳には届かない。
ザッザッザッ......ザッザッザッ
ザッザッザッ......ザッザッザッ
音は更に近づく。それは地面を踏みつける足音だった。
黒い影が後方に忍び寄る。エマは気付かない。
ザザッ! そして足音が止まった。
人は人であって機械では無い。
人が人である以上必ずミスを犯す。
なぜなら人は機械では無いからだ。
どんなに完璧に近い人であっても、百パーセントという事は有り得ない。
その人にツキがあれば、ミスを犯しても取り返しがつく。しかしツキが無ければ、それが命取りになる。
太鼓の大爆音に叫び狂う声。それに加え異常な光景を目の当たりにした後の精神状態。
そんな状況下、背後に忍び寄る謎の人間に気付けなかったエマはツキが無かったとしか言いようが無い。
そしてこの事は今後のエマにとって、取り返しのつかないミスとなった。
「そこまでだ!」
エマの体に突如電撃が走る。
びっくりした時の例えとして心臓が止まるという言葉がよく用いられるが、この時のエマにはその言葉がぴったりだった。
全くの想定外。脈拍は増し、顔が紅潮する。
しまった!
「膝を付いて、手を頭の後ろで組め。ゆっくりだ!」
エマは微動だに動かない。そしてゆっくりと後ろを振り返った。
逆光ではっきりとは見えないが、大柄な男がライフルを構えているようだ。
目では見えなくても、突き刺さるような殺気、獲物を狙う獣のような迫力がピリピリと伝わってくる。素人では無い。それだけは明らかだ。
妙な動きをすれば、この男は即座に引き金を引くであろう。
気付かなかった。油断した......
「早く言われた通りにしろ!」
エマは言われるがまま地面に膝をつき、左右の手を頭の後ろで組んだ。
この落ち着き払った口調。低くて太い声。特徴がある。
エマはこの声に聴き覚えがあった。
あの男か......
そう......六日前エマが極神島に到着した日。
西の森で玲奈という少女と共にいた男。声だけでは無い。この冷淡な口調。間違いない。
敵は後方五メートルの位置からライフルを構え、エマの頭に照準を合わせている。
この圧倒的不利な状況を打破する方法は無いのか?
振り返って突進したら?
それは無理だ。エマの瞬発力を持ってしても距離があり過ぎる。途中で撃たれて死ぬのが関の山だ。
ではどうしたら?......
エマは冷静に考えた。もし自分を殺す気であれば、とっくの昔に撃ち殺している。
殺す気は無いのか?
身柄の確保が目的!
ならば自分を拘束する為に必ず近づいて来る!
無理にこちらから距離を詰める必要も無い。
どうする気なのだろう......
縛り付けるか? 手錠をはめるか? 眠らせるか?
チャンスは男が近づいたその時しか無い。
エマは亡き父国雄の言葉を思い出した。
「見えない敵と戦う時は、目を閉じて心の目を生かせ。風を感じろ。音を感じろ」
それは父国雄が生前口癖のように言っていた言葉だ。
今が正にその時......父ちゃん私を守って!
エマはゆっくりと目を閉じた。
「向こうを向いてろ!」
怒鳴り声が響く。
そして足音が聞こえ始めた。
ザッザッザッ......
来た!




