第4話 競歩
夜七時。何の前触れもなく突如美緒が席を立つ。
「お先に失礼します」
そう言い終わるや否や、鞄を持ちそそくさと事務所の出口へと向かった。
美緒の部下達は上司にお疲れ様すら言う間もなく、ただお互い顔を見合わせている。
自分の部下達がまだ仕事をしている中、上司があっさり先に帰るのは、ある種勇気がいる行動と言えよう。もっとも日本社会だけの話かもしれないが......
「私も失礼します」
今度は圭一も席を立ち、足早に美緒の後を追った。そして美緒が乗ったエレベーターに同乗する。
エレベーターの中は帰宅するサラリーマンとOLでほぼ満員。最新のエレベーターであっても二十三階から一階までは多少の時間がかかる。実に息苦しい。
エレベーターの中で美緒のすぐ後ろに立った圭一の目の前には、美緒の長い黒髪。ファンの風になびき、圭一の鼻を執拗にくすぐる。
そして「ヘッ、ヘックション!」
圭一は我慢しきれず、豪快なくしゃみを発した。鼻水が四方に四散する。
「しっ、失礼しました」
圭一は集まった視線と美緒の後ろ姿に向かって謝罪した。くしゃみは生理現象であり本人に罪は無いが、あまりに場所が悪かったようだ。
美緒はあくまでも他人面。見向きもしない。無反応程、寂しいものは無い。
エレベーターを降りると、新宿駅までは歩いて凡そ十五分。
高層ビルからは、地下道が新宿駅まで通っている為、そこを利用すると雨風も当らず、また信号も無く便利だ。
地下道は、帰宅の途に就くサラリーマンやOLが皆同方向に向かって歩く為、傍から見れば、それはまるで民族大移動のようにも見える。大移動の行列は新宿駅まで永遠と続く。
美緒は前だけを向き、ただ一直線に新宿駅方面へ歩を進めた。歩くのが恐ろしく早い。どちらかというとスポーツでいう所の競歩に近い。
圭一は息を切らしながら人を掻き分け、距離を一定に保ち美緒の後に続く。
地下道を十分程歩き、階段を上るとそこは駅ビルの店内だった。店内には帰宅途中のOLが群れをなして買い物をしている。
これだけ若い女性の比率が高いと、男がここを通り抜けるのは少し気が引ける。
仕事のストレスを買物で発散する女性が多いとは良く聞くが、ここで群れをなして買物をしている彼女らはその部類なのであろうか。
そんな帰宅途中の若い女性にとってオアシスである駅ビルにおいても、美緒が全くそれらに興味を示さないのは、元々買い物自体に興味が無いのか、もしくは雄二の死が俗世間から美緒を隔離させてしまっているのかそれは分からない。
心のカーテンを閉ざした美緒にとって、オシャレなどどうでもいい事だった。
JRの改札を抜けると、美緒はホームに降りる階段を一気に駆け下りた。そして今にも扉を閉じようとしている電車に飛び乗る。
「これはいかん!」
圭一はオリンピック種目の三段跳びのごとく、閉まり掛けているその扉に体を投げ出した。
「そりゃあ!」
圭一は掛け声と共に宙を舞った。体の右半分が扉に激突し、鈍い音が響き渡る。
ぶつかりながらも何とか体勢を立て直し、かろうじて車内に身を投じる事には成功したが、バランスの崩れは修正が効かず、車内で大転倒してしまった。
ドカン! うわぁー!
それはまるで四コマ漫画を見ているような光景だった。
そんな圭一を見て大笑いしている人、転んだ時にぶつかられて怒っている人、手を差し伸べて起こしてあげている人など反応は様々だ。
大騒動が起こっているにも拘らず、何事も無かったかのように涼しい顔をしているのは、この中で美緒たった一人だけである事は言うまでも無い。
「セーフ、セーフ」
圭一は転んだ影響で身体は傷だらけになりながらも、心の中ではガッツポーズ。こうなってくると、それはもはや意地の世界だった。
新宿駅を発車した直後こそはざわめき立っていた車内も、美緒が下車する原宿駅に到着する頃には、幾分落ち着きを取り戻していた。
美緒は自宅マンションの最寄駅である原宿駅で下車する。
そこで待ち受けていたのは、新宿よりも更に激しい人ごみだった。年齢層も新宿よりは若干若い。
美緒は相変わらず軽快に人の隙間をスイスイとすり抜けてゆく。
駅前を抜け、神宮前の住宅街近くまで来ると、人通りは思いの外少なくなっていた。




