第1話 死神
セレモニーホールでそんな騒動が起きてから三時間が経過した頃......街中の時計の針は、夜十一時を指していた。
東京は俄かに天気が崩れ始め、いつしか大雨。風は強まりネオンの看板は風で軋み、ミシミシと音を立てている。
この時間になると平日という事もあり、さすがに人影もまばら。歩く人は風で傘が飛ばされないよう、傘を抱き抱えるように丸くなっていた。
そんな中......
雨に濡れることを拒まず、傘もささずに道の真ん中を一人歩く女性が。
長い黒髪が風で顔を覆い、まるで昨今のオカルト映画の主役のような風貌。
それは紛れもない美緒だった......
美緒は土砂降りの中をまるで夢遊病者のごとく、ふらふらと歩を進めていく。
セレモニーホールでの騒ぎの後、心配した妙子と加奈子は自宅に一緒に泊まることを勧めた。
一度は泊まることに同意をした美緒だが、二人と一緒に電車に乗った後、やっぱり大丈夫と誘いを断り、自宅の最寄り駅の一駅手前の代々木駅で下車した。
二人が無理にでも美緒を連れて行かなかったのは、心の中のどこかに、もう解放されたいという気持ちがあったのかも知れない。
仮に美緒がその後自殺をしたとしても、『私達は一緒に泊まることを勧めていた』という言い逃れが出来る。友人とは所詮そんなものなのだろう。
一方、美緒はというと......とにかく一人になりたかった。
自分を心配してくれる友人の気持ちすら、有難迷惑に感じていた。
夜の雨の中を歩いてずぶ濡れになり、雄二を失った苦しさを洗い流したい......
美緒の心のどこかに、哀れな自分を悲劇のヒロインに見立て、第三者の視点から見て陶酔していた部分があったのかも知れない。
しかしそうだとしたら、それは完全に致命的。一人になるとまた気が変になってくる。自己陶酔も極限までくると、全く冷静な判断が出来なくなる。
無情にも美緒が歩くその先にあるもの......
それは踏切だった。
ザッ、ザッ、ザッ......
心なしか美緒の歩調が速くなる。
踏切までの距離二十メートル。
美緒はふらふらした足取りながらも、確実にその距離を縮めていった。
ザッ、ザッ、ザッ......
踵を引きずる足音が響く。
踏切までの距離十メートル。
踏切の赤ランプがフリッカーを始め、電車の到来を知らせる音を発し始めた。
カンカンカン......
点滅する赤ランプの光が、美緒の眼鏡に付着した水滴に反射し、視界をおぼろげに赤く染める。
踏切までの距離五メートル。
歩行者を横断させないた為のバーが下り始めた。
ギー、バタン......
雨粒がバーに当たってははじけ飛ぶ。
踏切はもう目と鼻の先だ。
そして踏切までの距離ゼロメートル。
美緒はバーの手前で立ち止まった。
後ろを振り返ると、スーツを着た男が一人、かなり遠くからこちらに歩いてくるだけで、他に人は見当たらない。
美緒は再び電車がやって来るその方向に向き直る。上を見上げ、大きく息を吸って吐いた。
美緒の血圧が上がる。
心臓はドクンドクンと大量の血液を体中に送り始めた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン......
電車はけたたましい音と振動を伴い疾走して来る。
「雄二さん......今行くからね」
美緒の目からは止めども無く涙が溢れ出し、頬を伝う。
それまで悲痛を浮かべていたその表情は、いつしか安らぎの表情へと変貌していた。
その表情の変化は、別世界へ旅立つ事への心の準備が全て整った事を意味していた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン......
死神を乗せた鉄の塊は、雨風をもろともせず、勢いよく踏切に突入してくる。
そしてその時は訪れた......
美緒の体は、目に見えぬ何かに引き寄せられるかのように前方へと。
今更の如く、異変に気付いた鉄の塊は、鼓膜が破れんばかりの警笛音を発するが、時すでに遅し、もはやどうする事も出来ない。美緒の待つ踏切へ闘牛の如く突入を開始する。
ガタンゴトン、ガタンゴトン!......
............
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「あなたは......一体誰なのですか?」
「......」
「なぜ私の邪魔をするのですか?」
「......」
電車に飛び込んでいれば、すでに肉片と化したであろう美緒の体は、今もその五体を留めていた。
美緒の両肩は、背後からグローブのような男の大きな手でしっかりと掴まれている。
まるで杭を打たれたかのように、振り返る事はおろか、身動きすら出来ない。
自らの強い意志で招き入れた死神を、見事に追い返してくれた疫病神は、恐ろしい程の怪力の持ち主だった。
美緒は体の震えを必死に堪えながら、努めて冷静を装う。
「あなた......お通夜の時からずっと私の事をつけていましたね」
「......」
「私は死にたいんです。放っておいて頂けないでしょうか!」
美緒は言葉を荒げる。
すると、それまで両肩に押し付けられていた男の手の力が突然弱められた。金縛りが解けたよう感触だ。
ここで男は初めて口を開く。
「あんたの命だ。あんたの好きにすればいい。自ら命を絶つのも自由。もっとも思い残す事が無ければの話だが......」
男性独特のしゃがれた低い声。口調は憎たらしい程に落ち着いている。
「自ら命を絶とうとする人に、思い残す事が無い人なんているのでしょうか?」
動揺している自分を悟られたくない......そんな強がりが全面に出た返答だ。
男は間髪入れず言葉を続ける。
「つまりあんたは思い残す事あるのに、それを解決する前に死のうとしてる訳だな?」
「......」
今度は返す言葉が見付からない。
『自殺』という行為自体が、どんな言い方をしたところで、決して正論化出来るものでは無い。
よってこの男とディベートで対決したところで、勝てる訳も無かった。そして苦し紛れに言った。
「それが悪い? あなたに何か迷惑でも掛けたかしら?」
「悪いなんて誰も言っちゃいない。別に迷惑も被ってないさ。もったいないから言ってんだ」
もったいない?......
それは美緒に取って、余りに想定外な言葉だった。