第1話 合言葉
翌朝九月十五日 土曜の朝七時。
女将の峰が一階の奥から背伸びをしながら店に出て来た。
ああ今日はいい天気......
昨日の嵐が嘘のような快晴。天気予報も当てにならない。風もいつの間にやら木の葉すら揺らせぬほどに収まっていた。
峰が割烹着に着替え終わる頃には、大五郎もあくびをしながら奥からフラフラ登場。
ああ眠い......
すでに板前の白衣を纏った大五郎は、眉間にしわを寄せ、目を細めている。
窓から差し込む朝日......
眠気眼には少し刺激が強いらしい。
「はて?」
誰もいないはずの店の玄関先から、何やらカタカタと音がしている。
「誰かいるのか?」
大五郎と峰は顔を見合わせた。
東向きの玄関にはありったけの朝日が差し込み、その光は外で人がしゃがんでいる姿を、まるで影絵のように映し出している。
もしかしてエマさん?
「あっ! お早うございます」
二人に気付いたエマは、バケツで雑巾をしぼりながら、少し開いた扉の隙間から、顔だけちょこんと出して声を掛ける。
「扉のガラスが昨日の雨で汚れてたんで、全部拭いときました。綺麗になったでしょう。それから外の駐車場も昨日の風で落ち葉がいっぱい落ちてたんで、全部掃いときました。まだやる事あれば何でも言って下さい」
エマはエプロン姿に三角巾。これはこれで中々似合っている。朝日が差し込んでいなくても、眩しく映ったに違いない。
店先の花壇に植えられた花々は、昨晩激しい風雨にさらされたにも拘らず、鮮やかな色合いは健在。今日も訪れる人々を楽しませてくれる事だろう。
「ちょっと......今日は午前中寝てていいって言ったのに......身体壊したら大変よ。いったい何時からやってるの?」
峰は腰に手を当て呆れ顔。しかしその困り果てた表情は、優しさの裏返しともとれる。
「はい......実は五時からやってます。早く目が覚めちゃって」
峰と大五郎は再び顔を見合わせた。
「エマさん......エマさんの気持ちはすごく嬉しいし、有り難いと思ってるのよ。でもね、それじゃあ一ヶ月間持たないのよ。この島は東京と違って、時間の流れがとても遅いの。
気張り過ぎないでもっとゆったりやって。身体壊しちゃったらあなたのご両親に申し訳が立たないから。分かったわね。ゆったりのんびりよ。これが合言葉ね」
「何か......逆に心配させちゃってごめんなさい。合言葉はゆったりのんびりですね。分かりました」
エマは真面目で素直で働き者。これが店の二人の先入観として植え付けられた。
噂というものは、あっという間に広がって行くものだ。
何と言ってもこの島は狭い。一人が二人に噂を流せば、その二人が四人に知らせる。そして四人が八人。八人が十六人というふうに、人口百人足らずのこの島では、噂が島中に広まるのに二日と掛からない。
またたく間にエマの『真面目で素直で働き者』という先入観は島民全ての先入観となっていった。




