第1話 田中家
「こんばんわ。東京から来た柊恵摩です。遅くにすみません」
エマはそう声を掛けながら、視界に広がる店内を見渡した。
店に入って右側には、四人掛けのテーブルが縦に三個並び、左側はカウンター。
店内はまだ料理の匂いが漂っている。焼き魚の匂いであろうか。つい先程まで営業していた様子が目に浮かぶようだ。
食べる事を忘れる程のサバイバルを潜り抜けて来たエマにとっては、自分が空腹である事を思い出せるのに十分過ぎる程の香しさだった。食欲をそそる。
カウンターの内側で洗い物をしている女性。妊娠しているようだ。割烹着の上からでもそれと分かる曲線美。お腹にスイカ一個でも入れれば、こんな形になるのであろう。
四十歳位のこの女性は女将と思われる。長い黒髪を後ろで一つに束ねピンで留めていた。はっきりとした顔立ちだが肉付きはよい。びっくりした顔でエマを見詰めている。
一方、四人掛けテーブルの一番奥で伝票整理をしている男。
頭は白髪で真っ白だが、毛の量は多く、ふさふさしている。細見の身体に板前の白衣を身にまとい、黒の眼鏡が鼻先にちょこんと乗っている。
下から見上げるような眼差しでエマを見上げるこの男は、店の主人なのであろう。五十歳は優に超えている。
女将は洗い物をしていた手を休めて言った。
「あら、びっくり! 今日は海が大荒れだから、来るのは少し先だと思ってたのよ。今も旦那とその話をしていた所だったの。よく来れたわねこの天気で」
非常に顔の表情が豊かな女性だ。無表情という事に関しては横綱級である日本人の中で、実に珍しいタイプと言えた。
「はい。一日でも早く働きたかったんで......浜口釣具店さんに無理言って、船を出してもらったんです」
「ああ金吉さんね。あの人お金に目が無いから、割増料金請求されたんじゃない?」
女将はニコニコ顔だ。
「ええ、まぁ......」
エマは思わず苦笑い。どうやら金吉は目ざとい事で有名らしい。
「こらびっくらこいた! とんだべっぴんさんが来たもんだ。遠かっただろう。そうだ、おい太一、真菜、降りて来い!」
関西弁でも東北弁でも無い、実に独特なイントネーションだ。
主人は後ろを振り返り、奥の階段に向かって大声で叫ぶ。
一階が店で二階が住居になっているのだろう。本土でもよくある造りだ。
少し間をおいて二階から声が返ってくる。
「何だよこんな遅くに。誰か来たのかよ?」
階段の上から若い男性の声。この家の息子だろうか。
「ちょっと待ってよ。今彼氏と電話してるんだから」
同じく女の子の声も。この家の娘と思われる。返事の内容からして、意外とオープンな家庭らしい。
「いいから早く降りて来い!」
やがて階段をどたばたと降りてくる足音が聞こえ、若い二人がエマの前に現れた。
誰この人?......
二人とも揃って不可思議な顔をしている。
「おい。店手伝いに遥々東京から来てくれた柊さんだ。挨拶しろ」
二人は尚もポカンとした顔。しかしやっと状況を把握出来たのだろうか。
女の子がまず先に口を開いた。男性より見るからに若い。きっと妹なのであろう。
「あれれ。本当に来たんだ? 東京からわざわざ。この島ほんと何も無いよ。まあいいか......私は真菜よ。田中真菜。宜しくね。
今中学三年で来年の春には卒業なの。卒業したらとっととこんな島出て、東京に行きたいの。今度東京の事教えてね」
真菜は話終わると、Vサインをしてニコッと笑った。社交的な娘だ。
髪の毛は茶髪で顔は薄化粧をしている。身長は百五十センチと小ぶりではあるが、肉付きは良い。
見た目東京の年頃の女の子と何ら変わりは無いが、トークのイントネーションはやはりおかしい。
「真菜さんね。一ヶ月お世話になります。こちらこそ宜しくね」
エマもニコッと笑い、Vサインを返した。




