BAR SHARK
新宿の裏通りに面した雑居ビルの地下一階。
暗くて細い階段を下りると、そこに『BAR SHARK』があった。
ビルの前の通りは週末でも人通りは少なく、街の雰囲気も良くない。路上にはゴミ散乱し、終始カラスがゴミをつついている始末。
薄汚いこの裏路地は、おせじにも治安がいい場所とは言えなかった。
その一方、
店内はどうかと言うと、意外と綺麗。ビルの外見とのギャップが激しい。
カウンター五席と四人掛けテーブル三個とこじんまりしてはいるが、どこか落ち着く雰囲気がある。
バーカウンターの後ろにはボトルが綺麗に並び、それらを収納している棚の上には、水色の下地にエメラルドグリーンの文字で『BAR SHARK』と書かれた看板が掛けられていた。
店の隅に置かれている古臭いジュークボックスからは終始六十年代のオールディーズが流れ続け、まるで五十年前にタイムスリップしたような錯覚に囚われる。
ちょうど九時を過ぎた頃だろうか......
店内には二十代そこそこのバーテンダーと、それよりちょっとだけ年上と思われる女性がカウンターの一番奥に座っているだけで、他に人は見当たらない。
バーテンダーはハーフなのだろうか......顔のパーツが少し日本人と違う。
身長は百八十センチ程、ひょろ長く見える。モデル体型と言うには少し貧弱すぎるかも。
そして彫の深い顔に細く切れ長の目......幼少時代彼に『キツネ』とあだ名を付けたガキ大将は中々センスがいい。
このバーテンダー名前はポールという。どこか日本語のイントネーションがおかしい。
それもそのはず、日本に来てからまだ一年と経っていなかった。
「エマサン」
「......」
「エマサンってば!」
「ん?」
「ん? じゃないデスヨ。もしかして寝てマシタ?」
「寝てないよ。目開けてただろ」
「目アケテ寝てる人ッテ結構いまセン? 見た目怖いんデスケド」
「どうせあたしは怖いですよ。で、なんか用か?」
「別に用ッテ訳でもないんデスケド......最近何かトホウニ暮れてるってイウカ、無気力ってイウカ。いつものエマサンらしくない気シテ......」
「ふ~ん。気になるの? もしかしてあたしに惚れてる?」
「チョ、チョットいきなり何て事言うんデスカ? 別にホレテなくは無いですが......
ホレテルとかでは無くてソノ......アッ、エマサン! シーフードサラダ全然食べてナイじゃないデスカ!」
カウンターの上には半分飲みかけのカクテルと、全く手が付けられていないシーフードサラダが無造作に置かれている。
さっきからずっとこの景色だ。早く食べてよと、サラダが訴えているようにも見える。
「ん? このシーフードサラダ、エビ入ってるじゃんか。あたしはエビアレルギーなんだよ。この間言っただろ。忘れたのかポチ!」
「そう言えばソンナ事言ってましたッケ? チナミニ僕はポチでは無くて、一流バーテンダーのポールです」
「ポチ?」
「ポールデス」
「ポン?」
「わざと間違わないでクダサイ。ポールです」
「そんなのどっちでもいいわ」
バーテンダーとそんなたわいの無い会話を楽しんでいるカウンターの女性......
この女性こそが、この若さにして『BAR SHARK』のオーナーであり、『EMA探偵事務所』の代表。そしてこの物語の主人公。
生涯天命尽きるまで戦い続けた女。『EMA』だった。
後に『GOD EMA』......神のEMAと呼ばれるようになるとは、この時点で誰が想像したであろう。
本名 柊恵摩
年齢二十四歳
身長百六十センチ
髪の毛の色はライトブラウン
ショートヘアーが非常に良く似合う。
目は大きく、くっきりとした二重。
鼻筋の通った顔立ちは誰からも好感を得る。
耳にはクロスのピアス。
右手の薬指にはクロムハーツのリングが輝いている。
顔立ちは一見すると派手とも言えるが、その装いは実に地味であった。上下黒のスーツに白のブラウス。飾りっ気は無い。
地味な服が好みというよりは、何かの意図が伺える。
トントントン......
一方ポールはと言えば、カウンターの内側で何やら包丁でみじん切り。
「いつからお前、板前になったんだ?」
カウンターに肩肘をついて、いかにも気怠そうなエマ。
「明日の仕込みをシテルンデス。バーテンダーでも仕込みをスルト、日本では板前になっちょうんデスカ?」
トントントン......
キャベツのみじん切りだ。
「ん?」
突如ポールのキツネ目が、三メートル程離れたレジの後ろの壁にロックオン。
見れば何か黒いものがゴソゴソと動いているではないか。
次の瞬間、ポールは右手に持っていた包丁をバックハンドで投げ飛ばした。
ビュー!......
風を切る音がしたと思えば、壁に動く黒いもの目掛けて包丁は一直線!
ドンッ!
ポールの手から瞬時に放たれた包丁は、見事壁に這うゴキブリに命中。
「ビンゴですエマサン!」
ポールの顔は得意満面。眉がヒクヒク動いている。癖なのか?
それに対し、エマの反応はと言うと......
「お前がナイフ投げの達人だということは認める。
アメリカに居る時、サーカス団で散々ナイフ投げてたんだろ。でもな......その包丁で二度と野菜切るなよ」
「洗えば大丈夫デスって。心配性なんダカラ......」
ポールは床に落ちたゴキブリを素手で拾いながら言った。
「お前、普通素手で拾うか? その手で絶対あたしに触るなよ!」
「ハイハイハイ......分かりましたデスッて......ハイハイ」
実はこんなやり取り......
二人の間ではよくある事。リラックスしている時のお遊びみたいなものだ。
しかし、『BAR SHARK』における、そんなのどかな時間は長く続かなかった。
ジリリリリー......
ジリリリリー......
「ん? 電話か?」
レジの横に置かれたこれもまた古臭い黒電話。この店のこだわりか。
ポールは即座にゴキブリを拾った手で受話器を持った。
「ハイBAR SHARKデス」
「圭一だ。エマさんそこに居るだろ」
それまで緩んでいたポールの顔が引き締まる。
「ハイ、居ますよ。今変わりますカラ」
「エマサン。圭一サンから電話デスよ」
エマはハンカチで受話器を包み込みながら受け取った。
「なんだ」
エマは神妙な顔つきだ。
「桜田美緒がいよいよ動き出しました。すぐに動かないと手遅れになりますぜ。コンタクト取ってもいいですかい?」
「......」
エマは無言。圭一は続けた。
「リストカットの後は飛び降り自殺未遂です。いよいよ本気モードってとこですかね。猶予はありません」
エマは一呼吸置き、そして口を開いた。
「本気で死のうとしてたのか? ただのポーズじゃないのか?」
「たまたま屋上に作業員が二人居て、彼らが阻止しました。もし二人が居なかったら、間違いなくダイブしていたでしょうね。状況から見て明らかです」
「......」
「どうします? エマさん」
「......」
「......」
「お前......連れて来れるか?」
「勿論」
「よし、分かった。お前に任せる。分かってるとは思うけど、あの女はとにかく頭が切れる。
その反面、感情には非常に弱い。うまく感情をコントロール出来さえすれば必ず話に乗って来る。分かったな?」
「任せて下さい!」
「よし、行け!」
「御意!」
電話は切れた。
「桜田美緒か......」
エマは天井を見上げながら静かに呟いた。
「圭一サン大丈夫ですカネ?」
「大丈夫。ゴキブリ見てたら疲れた。圭一が桜田美緒を連れて来るまで寝るぞ。来たら起こしてくれ」
「来タラ起こせって......寝起きで美緒と会ってダイジョウブですか?」
「......」
エマはカウンターでうつ伏せになり、すでに夢の中? だった。
「イツでもドコでもすぐ寝れる。コレモ天性なのカナ? どっちにシテもうちの大将ハ只者じゃナイナ」
ポールはそんなひとり言を呟きながら、自分の上着をそっとエマの肩に掛けた。
店内にはロ-リングストーンズの『TIME IS ON MY SIDE』が流れている。
「タ~ア~アアイム イズオンマイサ~イド イエスイッティ~ズ......」
ポールはBGMに合わせて、鼻歌を歌いながらグラスを洗い始めた。酷い音痴だ。
「お前煩いよ。悪い夢見るだろ」
「アレ? 寝てたんじゃないんデスカ?」
「寝てるよ!」
「起きてるじゃナイデスカ」
「だから寝てるんだって!」
『BAR SHARK』で流れるゆったりとした時間。それもここまで。
この後、桜田美緒がやって来て台風が巻き起こる。
嵐の前の静けさとは正にこの事を言う。